10話 Darkness of the light 『暗闇回廊』

 年季の入った木椅子に腰を据えると古くなった接ぎ木部分がぎぃ、と不満を漏らす。

 椅子も古くさければ執務机だってまともではない。人の手の入った選りすぐりの木材なんてこの星には存在していない。

 マグカップに淹れたばかりのブラックコーヒーを注ぐと部屋中に焙煎の奥ゆかしい香りが広がった。


「む、良い豆してやがるな」


 黒い液体が胃の腑に注がれた直後に苦味と酸味が脳へ突き抜ける。

 カフェインが疲労した内部へうんと染み渡る。嗜好品の縛られたこの星で唯一の息抜き。これこそ古い友人から調査部隊を通して受け取った至高の一品だった。


「毎回毎回のラブコールご苦労なこった。検品をすり抜けるだけでも苦労するってのに必ず補給品のなかへ紛れ込ませてきやがる」


「ラブコールですか? はっ! まさかいつも飲んでるコーヒーの送り主ってディゲルさんの恋人さんだったんですか!?」


「バカ言うな男だよ男。ラブコールつっても色気のある話なんかじゃねぇ」


 ディゲルは眉間にシワを刻んで否定した。

 ひと息置いてずず、とコーヒーを啜る横ではチャチャが盆を抱いて立っている。

 くびれた腰をちょんと傾げて首も同様に、栗色の浅い瞳をしばたかす。


「ということはつまり……男性の恋人さんということですか?」


「お前はたまに素っ頓狂なバカになるよな。あずまっつー昔の友人が俺の墜ちた境遇に同情してやがるってだけだ」


 そうしてディゲルはもうひと息ほどコーヒーを口腔内へと流し込む。

 なんたる深く甘美な味わいか。あやまち多き人類史でコーヒーほど科学が尤もたる正解を示したことはない。もし漆黒を直接血管へ流し込めさえすればもっと効率よく接種できたことだろう。

 ただ少なくともディゲルだけは過ち多き人類史に後悔を覚えたことはない。

 失って、出会いがあった。失ったものが掛け替えのないものであれば、その後に出会ったものでさえ変えようがない宝物だった。


「むかし……むかし……こい、びと?」


 揺れる。まるで首の据わっていない赤子のよう。

 虚ろう。視線は深く底を見つめるように淀み霞み沈む。


「あん? どうし――っ!」


 やっちまった。ディゲルはチャチャの異変に気づくやいなや己の浅はかさを恨んだ。


「みん、なみんな……忘れないよ? 私にしたことした、こと」


 ぼう、と。彼女の瞳はどこも映してはいない。

 小さくやじろべえのように左右にゆらゆらと揺れながら両腕をだらりと垂らす。盆が地べたの上で円を描くように転がった。

 ぼんやりと無表情。それでいて薄く開いた唇からなんらかの言葉を紡いでいる。


――チッ、クソ油断した! よりにもよってミナトもいねぇタイミングでスイッチが入っちまった!


 ディゲルは急ぎ机から長方形のアルミピルケースを引っ張り出す。

 これはチャチャの発作だった。男性恐怖症に陥る原因となった過去の1頁がとある語句によって開かれてしまった。


「忘れない忘れない忘れない忘れない忘れない忘れない――忘れない! 忘れてなんてやるもんか! 人類が私に向かってしたことすべてを忘れることなんて!」


 段階を経てチャチャの様子がみるみる変異していく。

 全身が強ばるほどの力が入ってしまっている。間接の継ぎ目が錆びたブリキ人形の如く挙動が不審になっていった。

 彼女を知るディゲルだからこそ刺激となった単語はわかりきっている。


――昔と恋人が結びついたか! よく考えなくてもどっちもチャチャにとってジョーカーじゃねーか!


 発作に対しての対処はミナトのほうが格別に優れていた。

 良くも悪くも賢い少年だ。敵意のない笑顔で歩み寄り、安定化するまで抱きしめ、ごく少量の鎮静剤を投与する。造作もないようなことだが、それは積み重ねあっての所業。

 ディゲルはケースからシリンダーをとりだすと慣れぬ手つきで気泡を抜きにかかる。

 そうしている間にも悲劇の銀幕に過去の映像が流されていってしまう。


「おトウサん? そう……お父さんが、私の目の前でこ、ここ、ロ、殺され……革命軍――いや! いやっ、いやあ!!」


「落ち着けチャチャ!! それはもう終わった過去の話だ!! 今テメェの立ってる場所はそこじゃねぇ!!」


 言葉とは時として無意味だった。

 ディゲルの叫びは届かない。すでにチャチャは度を超した狼狽のあげく「いやだいやだあ!!」と頭を抱えてうずくまる。


「痛いって言ってるのに! 止めてって言ってるのに! 誰も私に優しくしてくれないじゃない!」


 この死の星に住まうただ1人の少女はどうしようもないほどに被害者だった。

 今や秩序を取り戻したアザーだったが、元は流刑地。そういった過去が未だに根深く、天にまで語り継がれている。

 そして謀略によってこの苦境なる檻へ放り込まれたただ1人の彼女にとってそれはもう凄惨な地獄でしかなかった。


「船に返してぇ!! お父さんを返してぇ!! もう私のことを虐めないでぇ!!」


 絹を裂くが如き悲鳴が窓の抜けた部屋中に木霊した。

 錯乱の叫びは拡散するようにして石造りのなかを暴れ回る。


「……クレオノーラさん……クレオノーラさん……クレオノーラさん……」


 カチカチ、と。小刻みに歯を鳴らしながらチャチャは地べたへへたり込んだ。

 今回はまともなほうだ。ディゲルは発狂が済んだことを確認してチャチャの隣へ膝をつく。


「いいから落ち着け。オメェの親父はとある時期を境に変わっちまった。なにかがきっかけとなって旧人類オールドジェネレーションへの弾圧と壊滅を掲げだしたんだ」


 だから9年前に暗殺された。そこまでは言う必要がないため口を閉ざす。

 大柄な手が脆弱な少女の肩にそっと添えられる。

 チャチャは凍えるように震えておりとても正気と思える状態ではない。

 ディゲルは無針シリンダーを彼女の白く汗ばんだ首筋に添えて、ふと手を止める。


「……発動したか」


 ぼう、と。表面に蒼く薄い皮膜のような光があふれた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 その光は水面のように揺らいでチャチャの内側からどんどんあふれていく。

 そしてディゲルも彼女の変異に従って鎮静剤の投与中断を決定する。

 今の彼女に伝えるべきは言葉ではない。感情を思い浮かべて瞳から世界を閉ざす。


「目覚めたらクレオノーラの墓参りにでもいってやれ。アイツもいねぇことだし俺も久しぶりに顔出してやんなきゃな」


 蒼く発光するチャチャに触れる手にも蒼が発現していく。

 心と心を結ぶ蒼。同じ色が溶け合うようにして混ざり合う。


――許しはある。そこに微塵も後悔はない。たとえそれが延命程度の処置だったとしてもだ。


 許しを唱えると、チャチャの刻むような過呼吸と浮かんだ蒼が徐々におさまっていった。

 正しい順路ではないしても今があるということが正解という答えであると信じる。

 ただ1つ過ちがあったとするならチャチャの父である5代目の次が、先代と同じ末路を辿ろうとしていることか。

 ディゲルは首を振って雑念を取り払う。この新人類ニュージェネレーションのもつ光は迷いを伝えてしまいかねないから。

 この2人を含む新人類がもつ与えられた力の名は、フレックスと言う。

 誰が名付けたのかなにをきっかけに目覚めたのかは定かではない。ただ人類には2種類の持つ者と持たざる者がいるというだけ。


「ぁっ……」


「おっと、中毒になっからあんまし鎮静剤を乱用したくねぇしな。感情の露呈に力の発動が繋がってくれて助かったぜ」


 ディゲルは力を失って倒れ込むチャチャを容易に支えた。

 なんと軽く華奢な身体だろう年相応の体重ではない。小さな頭でさえ同等の質量をした彼の二の腕と同じ大きさをしている。

 ぐっすりと眠る少女の頬を伝う涙を親指で優しく拭う。枯れた大地に咲く1輪の花を愛でるように優しく、優しく。


「まだ死んだクレオのために泣いてくれんだな。すまねぇが俺はもう……枯れちまったみてぇだ」


 そうしてチャチャを姫のように抱えたディゲルは冷めたコーヒーを一瞥してからのっそり歩み出す。

 執務机。そのコーヒーの隣にはいつも決まって輪の入った箱が置かれていた。もう1つの対となる輪は共に墓へ埋葬が済んでいる。

 世界と人類は混迷の最中にあった。誰もが光を求め天に手をかざしてなお光を掴めず喘ぐ。

 元凶のすべてがひとつのようでいて、すべてはまったく別の事象を生み出している。人は暗中模索を行いながらただ1つの道標を探していた。

 するとチャチャを部屋に寝かせたディゲルの眼に突然モニターが現れる。


「あんだこりゃあ?」


 思わず鉄球の如き喉を低く唸らせた。眉をしかめてシワを深める。

 ALECナノマシンを通じてコールが掛かってきたのだ。コールサインは文字化けで読めたものではない。

 訝しがりながら指を滑らせ着信に応答する。


『ハッハッハぁ。忘却の星アザーでの暮らしのほうはいかがかな。遠く離れたところにいってしまったマイベストフレンドよぉ』


 と、直後に聞き慣れた声が脳裏へ響く。

 最新鋭のナノマシンのわりに雑音が多く聞き取りにくい。が、聞き間違えるほど老いてはいない。


『こちらからの贈り物は受け取っていただけたかい。アンタのことだから好物のコーヒーはとっくに飲み干しているかもしれないな。もし気に入っていただけたのならノアブレンドとでも呼ぶと良いさ』


 なんとも軽薄だが、それこそが代名詞のような男からのラブコールだった。

 それとは別の高い声も遠間ながらに聞こえてくる。


『あのさぁ、いきなり僕の研究所に押し入って来てローカルの電波貸せって言う割に世間話とかするぅ? 普通さぁ?』


『おっと、この回線はハッキングして繋いでもらっているんだ。レディーが待ちくたびれてしまうからね。あまり長く近況報告のお喋りしている暇はなさそうだ』


 ディゲルは低く声を潜めながら「……なんの用だ?」ひとことですべてをまとめた。

 すると通信越しの男は「はっはっはっ」いかにもらしいな、とばかりに笑みをこぼす。


『苦節5年。ようやくネクストチャプターに進む準備が整った。残る障害は2つの条件をクリアし方舟に昇る鍵がいるということくらいだな』


「……テメェ英雄にでもなるつもりか? それとも……」


『ハッハッハぁ。もし俺がその資格を有しているのだとしたら夢のある未来を描くことを約束しようじゃないか』


 通信はそこで終わりだった。

 ぷつり、と。さながら回線がニッパーで切られるような音の後に、伽藍がらんの如き静寂が訪れる。


「また無謀な英雄願望であの革命の悲劇を繰り返すつもりか? なあ、東よ?」


 手は未だこびりついた血の臭いと肉の裂ける感触をまざまざと覚えていた。

 すべての人類の歯車が狂いだしたのは9年前。未来を描き決起したあの日からすべてが瓦解した。

 人類総督の暴走、旧人類への弾圧、浮かぶ揺り籠、分かち違えた宙間移民船、そして炎の壁。

 舵を失った人種族は、混迷の最中をあてもなく彷徨いつづける。


「俺たちは一体どこへ向かえばいい? 進む道が暗くて暗くて足下すら見えやしねぇじゃねぇか」


 ディゲルが部屋に戻って執務をはじめると、コーヒーはすでに冷め切っていた。



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