2話 Tears in the sky ―クライ セカイ― 2

 鋼鉄の荷馬車がいななきを発しながら砂塵を蹴り上げた。

 3つ輪のタイヤに巻かれた埃は流れる雲のよう。あけすけなまでに視野の広い地平線とは別の線を連ねて1本の線を描く。

 焦げたマフラーから焼け付いたオイルの臭いと黒煙をしきりに吐き出す。年期の入った250ccの3輪トライクが黄土色の尾を引く。

 風防のなければカウルすらない。これでは肉の削げた鉄骨がうおーうおーがなりながら走っているようなもの。

 幅広のトライクが仄赤き荒野を滑走する。


『キ、キミは……っ、いつもこんなことをしているのかい!』


 安定感のあるどっしりとした250ccの後部には、さらに別の箱のようなものが引かれていた。

 なんてことはない端材と溝の減ったタイヤを2つつけただけ。ただ古めかしいだけの荷台。

 載っているのは痩せっぽちの男ひとり。それと幾らかの商売道具くらいだ。


『こんな、こんな! まだ生きられていたかもしれない人をどうして!』


 小石を踏んだ衝撃で荷台がガタンと揺れた。

 男はよろめきながら砂に汚れた眼鏡越しに赤い瞳を滲ませる。


『なぜなんだい! その行為に対等な価値があると本気で思っているのかね!』


 必死に語りかける相手は、運転手で、小さな子供だった。

 年幾ばくだろうか、身長は未成熟なのは明らか。かろうじてつま先を伸ばしようやく3輪のブレーキを踏めるくらい。座席に座っているというより足を垂らしているような状態だ。

 少年の頭はぶかぶかのカスタムヘルメットにすっぽり覆われているため表情は掴ませない。ただ傷まみれのシールド奥で白けた瞳が覗いていた。

 生まれ記憶すら得ていない彼にとって歳月とは些細なことでしかない。


『キミは若すぎる! 命よりも尊重すべきモノなんてこの世界にないということすら学んいない! だからこんなっ、あんなことを!』


 それと、ヘルメット内部に仕込まれた通信機越しに聞こえてくる音でさえ雑音でしかなかった。

 しばし会話ですらない一方的な訴えを聞き流す。


『う……くっ! ひっ、あああ”! これほどまで年若き少年がこれほど過酷な地に生きねばならないなんて!』


 と、男は水気を啜りながら台車のうちでうずくまってしまう。

 傍らに中身がパンパンに詰められた厚いビニールの袋が同席している。

 彼はソレに対して幾度も「すまない……すまない……!」呪詛か、はたまた懺悔のように繰り返す。


「水分が減る」


 少年にとって他人ヒト事だった。

 サイクル用プロテクターを帯びた手には血脂がこびり付いている。

 襲撃されてなお遺体が回収できるのは稀だ。大抵の場合身体という概念を失ったモノが残される。しかし今回はとても運が悪かった。

 中に入っているのは成人男性1人、ぶん。ジグソーパズルのようになった遺体が数パーツほどの破片となって詰められている。

 持ち帰るのであれば小さいに越したことはない。状態によっては肉片か四肢、とくに歯などというモノが好ましい。ここまで原形をとどめているモノは非常に面倒極まりないのだ。


『彼はあれほど近くにいたじゃないか……! 間に合っていたはずなのにどうして置いていってしまったんだい……! もう少しあと数秒待てば彼だって飛び乗ることが可能だった……!』


「あそこまで接近していたら無理だよ。だってその人そのサイズでも20kgはある。元のサイズのまま乗せていたら振り切ることは不可能だった」


 ソレを聞いて男はより一層子供のように泣きじゃくり始めてしまう。

 まだ僅かばかり暖かい袋へ縋り付き、祈りを結ぶ。背が丸くなると小汚い白いワイシャツ越しに骨張った痩躯が浮きでていた。

 未だ現と夢の境を彷徨っているのだろう。遠くにあったはずの死が実はすぐ間隣に佇んでいるのだから。


『すまない! すまない! 私が発信にもう少し早く気づいてあげられてさえいれば助けられたのに!』


 男は血の袋を抱きながらわんわん泣けるタイプだった。

 そしてそれはきっと彼が世界を正面から見ていないから。あるいは正義感が強いから。

 見ず知らずの1人が喪失したとして今の世に与える影響はそれほど多くない。


「……っ」


 それほど多くはない、と心に言い聞かせるのも仕事だった。

 回転の不十分なエンジンの鼓動と男の悔やむ声が狭い空間で重なっていく。それだけでもうヘルメットのなかは――……もうたくさんだ。


 風がいななく。透明な板に小さな石の集合体がチリチリとぶつかっては弾けていく。

 う゛う゛う゛、という連続する破裂音が繋がって時速60kmの速度を生みだす。一陣の風となりながら黄土色をした砂壁を掻き分ける。

 整備とはほど遠い野性的な凹凸をタイヤが絡めるたび車体が揺れて身体全体を叩いた。


『ひっ!? あれだけひどい目に遭ったというのにまだつづけるというのかい!?』


 頃合いを見てブレーキを踏むと、男が慌てて顔を上げた。

 ブレーキライニングが摩耗しているからか、タイヤを止める力にむらがでて後輪を僅かに滑らせながら静止する。

 トライクから降りた少年は青ざめきった男をどこ吹く風と素通りして荷台へ手を伸ばす。


「まだつづけるって当然じゃないですか」


 大事なのは男のほうではなく仕事道具のほう。

 少年は丸く平たいビーコンを手にしてシステムヘルメットのフリップこじ開けた。

 いっぺんの揺らぎすらない瞳が、やつれた男を横目がちに傍観する。


「なんのために2人も載せたと思ってるんだか」


 感情というそれそのものが欠落しているかのような無機質さ。

 世の理すら学んでおらぬ年にあるまじき怜悧れいりな在り方だった。

 男は口をぱくぱくさせるだけでなにも返してくることはなかった。ただ少年の目を見た途端に1度きり、ぷるりと震えただけ。時を止められてしまったかのように微動だにしない置物と化す。

 ようやく静かになったことを確認した少年は淡々と仕事をつづけた。

 ちょうどここが目的に沿った場所だった。トライクを横付けしたすぐ真上、地平線に突起する岸壁目掛けて左腕を押し出す。


「…………」


 僅かに目を細める。狙い定める。

 そしてメタリックブルーをした流線型の射出装置からひょう、と蒼い線が吐き出された。

 手繰るように意識するとワイヤー射出装置がするすると線を巻き取りながら少年の身体を岸壁の上へ上へと誘っていく。


『――へっ』


 張り詰めて、張り詰めて、まるでこのワイヤーの糸のように張り詰めつづける。

 張り詰めて張り詰めて、それ以上ないほどに張り詰めて。やがて臨界を迎えれば唐突に双肩へ負ったモノらすべてが瓦解するのだ。

 血の通う限り心が死ぬことはない。ゆえに聞き流そうと、すべてから目を背けているはずなのに、傷だけが残っていく。

 それを理解していながらも少年は、与えられた使命をこなしつづける木偶デクとなる道を選ぶ。


――この救いのない世界で……いずれ。


 ビーコンの設置を終えた少年は地上へ飛び降り大地を踏む。

 左腕を振るう。と、余った蒼い線が鞭の如くしなりを上げて流線型の中へと格納されていった。

 そしてすべてが巻き上げられた直後に、やつれた男の目が皿の如く見開かれていることに気づく。


『き、キミ、いまなにをしたというのだ!? そ、その力まさかッ!? フレッ――』


「いい加減に黙っていてもらえますか。オレの世界にアナタの声も名前も姿も存在させたくないんです」


 この方舟から追放されたばかりの男は、この後に生き残った。

 上流育ちで頭は良い方だったのだろう。

 別の男のように逆らうことなくきちんと従ったから生き延びたのだ。



………………

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