番外編④ あるメイドの良縁〜君を愛することはないと言い放った夫の、隠された真実〜

前編 幸運の女神


「申し訳ないが、私が君を愛することはない」


 開口一番で告げられた一言に、レオナはポカンと口を開いた。


「……はい。それは、別に」


 レオナは呆気にとられたままの間抜けな声で返事をした。


(強制的に結婚するんだもの。そんなこと、気にしないのに)


 と、レオナは思ったが口にはしなかった。彼とは初対面なので、そこまで軽口を言える関係でもないのだ。


 彼女の夫となる男──ルードルフ・ベッカーはさらに頭を下げた。絹糸のような美しい茶髪がサラリと流れる。


「今の仕事を続けてくれても構わないし、家に入ってのんびりしてくれても構わない。とにかく、自由に過ごしてくれ」

「はあ」

「寝室も別々に」

「え、それは……」

「君に妻の義務を強いるつもりもない。1年後には離婚して、新しい夫の元に嫁いでくれ」


 その言葉の意味をレオナが理解する前に、二人の婚姻は成立した。





 * * *





 レオナ・カペルは、ユーベルヴェーク公爵家に勤めるメイドの一人だ。裕福な商家に生まれた彼女は、16歳から行儀見習いを兼ねて公爵家に勤めている。

 そんな彼女も数週間前に18歳を迎えて、『婚姻統制法』に従って結婚することになった。その相手が、ルードルフ・ベッカーだ。


 この結婚に、レオナの両親は良い顔をしなかった。


 というのも、ルードルフは39歳──二人の間には21歳も年の差があるのだ。しかも、彼は何度も結婚と離婚を繰り返している。レオナはの妻となる。子どもは一人もいない。


『今も結婚することが許されるのだから、はないのだろう。だとすれば、離婚を繰り返す理由が分からん! こんな男のもとに娘を嫁がせることになるとは……!』


 と、レオナの父は憤慨していた。だからといって、どうにかなる話でもない。


『まあいい。彼は間もなく40歳を迎える。それまでにレオナが出産しなければ、離婚することになる』


 男性は結婚と子作りが義務付けられるのは40歳まで。夫が40歳を迎えた時、妻に出産経験がなくかつ35歳未満の場合には、その妻は他の男性と結婚して子作りをしなければならない。


『予行演習だと思えばいい』


 父親の言葉に、レオナは頷いた。

 夫に対して愛情を抱く必要はなく、今の仕事を続けることができて、妻としての義務──つまり子作り──も不要となれば、確かに予行演習として悪い話ではない。





 * * *





「それはまた……。おかしな話ね」


 ユーベルヴェーク公爵邸の中庭にて、公爵夫人と二人のメイドが、午後のティータイムを楽しんでいる。

 レオナの話を聞いた公爵夫人は頬に手を当てて苦笑いを浮かべて、もう一人のメイド──エルザ・ダウムも気まずそうに表情を歪めた。


「そうですよね? さっぱり意味が分かりません」


 レオナは憤慨しながらも、公爵夫人のカップにおかわりの紅茶を注いだ。


「そうね。考えられることはいくつかあるけど……」


 公爵夫人がその細い指を唇に当てて考え込む。そんな公爵夫人を、レオナはうっとりと見つめた。すでに7人の子を産んだとは思えないほど、若々しくて美しい女性だ。レオナにとっては身分の上でも雲の上の人だが、それ以上に尊敬と憧れを抱いている。この仕事をやめずに済んだことは、夫に感謝している。


「まずは、女性に興味がない?」


 公爵夫人の言葉に、レオナもエルザも頷いた。


「あるかもしれません。女性に興味がないのに結婚しなきゃならないなんて、かわいそうです……」


 レオナはしゅんと肩を落とした。想像するだけで苦痛だと思ったのだ。


「愛することなどできない人と結婚して同じ屋根の下で暮らして……。それに、周囲からは子作りを期待されるだなんて!」

「そのとおりだわ。お互い、不幸にしかならないわね」

「はい」

「でも、他の理由かもしれないわ」

「え?」


 公爵夫人が、テーブルの上に身を乗り出して二人のメイドを手招きした。二人もそれに倣って身を乗り出し、公爵夫人の口元に耳を寄せる。


「心に決めた女性がいるから、みさおを立てているのかも」

「ええ!?」


 レオナは思わず叫び、エルザは驚きに目を見開いた。


「20歳からずっと、妻と関係を持たずにいたってことですか?」

「あるかもしれないわ」

「でも、その、……男性って、我慢できなくなるって聞きますけど……」


 もじもじと問うたレオナに、公爵夫人がニコリと笑った。


「女性だって我慢できなくなるときはあるわよ?」

「それは、そうでしょうけど」

「でも、そうね。男性の方が、そういう衝動は強いと言われているわね」

「ですよね!」

「だからこそ、ちょっとロマンチックじゃない?」

「え?」

「心に決めた女性のために、結婚はするけれど40歳まで女性との関係を一切断って。40歳を迎えて自由の身になったら、その女性を迎えに行くのかもしれないわ」

「確かに、ロマンチックです!」

「ね!」


 公爵夫人はうっとりと微笑み、レオナもそれにつられて架空のカップルのロマンスに思いを馳せた。


 ところが。


「そんなこと、ありえませんよ」


 エルザが冷たい声音で口を挟んだ。冷ややかな目で主人と同僚を見つめて、深い溜め息を吐いている。


「心に決めた女性がいたとして、それはあなたの夫が結婚する前の話なんだから、二人が恋人だったのは20年も前のことでしょう?」

「そういう計算になりますね」

「20年も同じ女性を思い続けるなんてこと、現実的にあるかしら? しかも、その女性とは外で会うこともできないし、肉体的な関係を持つことができないのよ?」


 エルザの言うことはもっともだ。


「でも、手紙とかで思いを通わせ合っていたのかも!」

「だとしたら、あなたの夫は最低ね。きちんとした妻がいるのに、その妻には『君を愛することはない』なんて言っておいて、他所よその女と文通?」

「うっ、それは、確かに……」

「そういうタイプなの?」

「……どうでしょう?」


 首を傾げたレオナに、エルザがまた深い溜め息を吐いた。


「愚痴もいいけれど、あなたは夫とよく話し合うべきだと思うわ」

「はい」


 レオナは神妙な表情で頷いた。それを見たエルザが、今度は苦笑いを浮かべる。


「といっても、私は結婚したことがないから。私のアドバイスなんか、あてにならないわよね」


 エルザは、不妊だ。

 子供の頃に大病を患ったことが原因らしい。

 この国では不妊の女性は結婚を強制されることはないが、代わりに労働の義務を負う。エルザは独身のまま、メイドとして働いているのだ。


「そんなことありません!」

「そうよ」


 思わず拳を握りしめたレオナに、公爵夫人も頷いた。


「エルザさんは、使用人みんなのお姉さんなんです! エルザさんの助言なら、きっと間違いありません!」


 エルザは今年で37歳になる。この屋敷に公爵夫人──当時は乳母だったが──が来たときから勤めており、使用人の中でも古参だ。使用人寮に住んでいることもあり、皆が姉のように慕っている。


「私、家に帰ったら夫と話し合ってみます」

「それがいいわ」


 公爵夫人にも背を押されて、レオナはぎゅっと両手の拳を握りしめた。


「ルードルフさんも貴族の家に勤める執事なので帰りは遅いですが、今夜は帰りを待ってみます!」


 と、レオナが決意を口にした時だ。


 ──ガチャンッ!


 大きな音を立てて、エルザがカップを取り落した。紅茶がこぼれてテーブルクロスに染みが広がっていく。

 だというのに、エルザは目を見開いた表情で固まったままだった。


「エルザさん、どうしました?」


 レオナが問いかけると、エルザがゴクリと息を飲む音が聞こえてきた。


「あなたのご主人、『ルードルフ』という名前なの?」

「そうですよ。私の夫の名は、『ルードルフ・ベッカー』といいます。……言ってませんでしたっけ?」


 レオナの言葉を最後まで聞かずに、エルザは頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまった。


「エルザさん!?」

「どうしたの、エルザ?」


 エルザは公爵夫人とレオナの問いかけにとうとう答えることはなく、その日は体調不良ということで仕事を早引きすることになったのだった。





 * * *





「と、いうことがあったんですよ」


 その晩、レオナは宣言通り夫が帰宅するのを起きて待っていた。気を利かせた公爵夫人が明日は休みを取るように言ってくれたので、夜ふかしをしても問題ない。

 帰ってきた夫は驚いてはいたが、話をしたいと言ったレオナを無碍にすることはなかった。

 とりあえず、と話しだしたレオナの雑談にも黙って相槌を打って聞き入っている。時折、若草色の瞳を細めては目尻にくしゃりと皺が寄る。にこやかとは言い難い表情だが、嫌がってはいない様子だ。


「そうか。公爵様の屋敷は、働きやすいか?」

「もちろん。公爵様ご夫妻もお子様たちも使用人に対してとても親切ですし。このまま、仕事を続けてもいいですか?」

「もちろん。何もかも、君の自由にしてくれ」


 ルードルフが頷いた。二人の間にわずかな沈黙が落ちて、レオナはゴクリと喉を鳴らした。


(そろそろ、本題に入らなきゃ!)


 そう身構えて、ルードルフが淹れてくれた紅茶を口に含む。

 ところが、


「ところで……」


 気まずそうに切り出したのはルードルフの方だった。わずかに身を乗り出した姿勢のまま、ふわふわと視線をさまよわせている。


「はい、なんでしょうか?」

「さっき、君の話に出てきた『エルザさん』のことなのだが……」

「エルザさんが、どうかしましたか?」

「その人は、結婚しているのか?」


 妙なことを聞くものだと思ったが、レオナは素直に答えた。


「していません。ご事情があって、ずっと独身です」


 その答えに、ルードルフがさらに身を乗り出す。


「もしかして、歳は30代の後半くらいだろうか?」

「そのとおりです。よく分かりましたね?」

「黒い髪に、黒い瞳?」

「……どうして、ご存知なんですか?」

「姓は、もしかして……」


 今度はルードルフがゴクリと喉を鳴らした。


「『ダウム』というのではないか?」

「あら! エルザさんとお知り合いだったんですね。こんな偶然、あるんですね!」


 無邪気に言ったレオナとは正反対に、ルードルフは肩を震わせながら床に崩れ落ちてしまった。


「まあ、どうしたんですか?」


 慌てたレオナが傍らにしゃがみこむと、ルードルフは彼女の瞳を見つめて涙を浮かべた。


「君は、幸運の女神だ……!」






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