後編 変わらぬ愛


 時は約20年前まで遡る。

 ルードルフは20歳、エルザは18歳の頃だ。二人は同じ屋敷に勤めるフットマンとメイドだった。


『結婚が決まった』


 雪が降りしきる中、二人は壊れかけの庭師小屋の中で肩を寄せ合って暖をとっていた。周囲には知られてはならない関係の二人は、暖炉に火を入れることもできない。それでも、二人で熱を分け合えば苦にはならなかった。


『それじゃあ、これでお別れね』

『ああ』


 二人の間に沈黙が落ちる。それでも、繋いだ手はそのままで。


『……20年、待ってくれないか?』

『え?』

『20年後、私が40歳になったら君を迎えに行くから』


 ルードルフの言葉にエルザは顔をしかめた。


『その20年、私はずっと独りよ。あなたは結婚して子供をつくって幸せな家庭を築くのに、私には20年孤独で待てというの?』

『そうじゃない』


 ルードルフは改めてエルザに向き直り、その華奢な手を握りしめた。


『結婚は義務だから避けようがない。だが、私は君以外の女性に触れない。君への、変わらない愛を誓うよ』


 エルザが目を見開き、ルードルフはその瞳をまっすぐに見つめた。


『相手の女性には申し訳ないが、私は君以外の女性には絶対に触れることはない』

『それじゃあ、すぐに離婚することになるんじゃ……』

『そうだ』

『それでも、また結婚しなきゃならないのよ? それを何度も繰り返すというの?』

『そうだ』

『そんなの……!』


 耐えられるのだろうか。

 割り切った関係を納得できない妻もいるだろうし、何よりルードルフ自身が罪悪感に苛まれながら暮らすことになる。また、男性としての欲望を抑えながら生きていかなければならない。


『私には、君だけだ』


 ルードルフの若草色の瞳に見つめられて、エルザはたじろいだ。


『……私だって、我慢ができなくなって恋人をつくるかもしれないわ』


 不妊の女性は結婚することは許されない。代わりに、既婚男性の不倫相手となることが珍しくない。独りきりで耐えられるほど、強くはないのだ。


『それでも構わない。これは私の誓いだ。君は好きにしてくれていい』

『……』


 エルザは無言でうつむき、ルードルフは眉を下げてわずかに微笑んだ。


『待ってくれと言うのは、おかしな話だったな。……20年後、また会おう。その時まで、私は君だけのものだ』


 エルザは、何も答えられなかった。


(私は生涯一人で生きていかなければならない。でも、ルードルフは誰かと結婚して幸せになったっていいじゃない)


 そう思ったが、口に出せなかったのだ。


 ルードルフの誓いを、嬉しいと思ってしまったから。そうして欲しいと言えないけれど、そうして欲しくないとも言えない。


 エルザは、ただ唇を噛みしめることしかできなかった。そんな彼女の気持ちが分かっていたのだろう。ルードルフは、黙ったままエルザを抱きしめた。

 そうして、二人は夜明けまで過ごしたのだった。


 そして、その翌日。

 エルザはルードルフの前から姿を消した。





 * * *





「40歳になって一人になったら、彼女を探し出そうと決めていたんだ」


 ルードルフが絞り出すように言うのを、レオナは瞳を潤ませながら聞いていた。


「それがまさか、妻の同僚だなんて……」

「こんなことって、あるんですね」

「ああ」

「これは運命ですよ!」


 レオナがぎゅっと拳を握りしめて立ち上がる。


「急ぎましょう!」

「え?」

「今日のエルザさんの様子だと、ルードルフさんが私の夫であると知ってしまったのは間違いありません」

「ああ」

「今まさに、荷物をまとめているかもしれません!」


 その言葉に、ルードルフの表情がさっと青くなった。


「また、私の前から去っていくと?」

「じゅうぶん考えられます。今度こそ、見つからないように遠くに行ってしまうかも」

「だが、私はもうすぐ40歳になるし、そうなったらエルザと……」

「女心は、そんな単純なものじゃないんですよ!」


 レオナは、腰に手を当てて仁王立ちになった。


「あんなエルザさんは初めて見ましたから。相当、思いつめているはずです」

「そうか……」

「急いで支度してください!」

「え?」

「この時間に辻馬車は走っていませんから、公爵様のお屋敷まで走るしかありません」

「今から!?」

「エルザさんを諦めるんですか!?」


 その言葉に、ルードルフがきゅっと表情を引き締めた。


「絶対に、諦めない」

「だったら、走るしかありません!」


 二人は、身支度もそこそこに家を飛び出した。

 すると、そこに一台の馬車が通りがかった。二人が暮らす住宅街には下位貴族の邸宅もある。その一棟の前で馬車が停まり、中から貴婦人が降りてきた。

 レオナは、その馬車に向かって勢いよく駆け出した。


「レオナ!?」


 ルードルフが叫び声など無視して、レオナは貴婦人のもとに駆け寄った。


「奥様! 馬車を貸していただけませんか! お願いします!」

「なんです、不躾に」


 貴婦人が不機嫌な声で言うが、レオナは構うことなく続けた。


「私はユーベルヴェーク公爵様のお屋敷に勤めるメイドです。今すぐ、公爵夫人のもとに行かなければならないのです! 緊急事態なんです!」


 レオナは、慌ててポケットからカードを取り出した。公爵夫人に代わって他所の屋敷を尋ねることもあるので、公爵夫妻の名が入ったカードを常に持ち歩いているのだ。

 そのカードを見た途端、貴婦人の表情が一変した。


「まあまあ、それは大変。すぐにお行きなさい。御者ごとお貸しするわ」

「ありがとうございます!」


 レオナはお礼もそこそこに、ルードルフを馬車に押し込んだ。


「ユーベルヴェーク公爵様のお屋敷へ! 急いでね!」


 外からは貴婦人が御者に命じる声が聞こえてきて、馬車はすぐに走り出した。


「……大丈夫か?」

「何が?」

「勝手に公爵夫人のお名前を使って……」

「事情を話したら、きっと分かってくださるわ。むしろ、よくやったと褒めてくださるわよ」


 レオナの言葉に、ルードルフが首は傾げたのだった。





 * * *





 その頃、ユーベルヴェーク公爵家の使用人寮では騒動が起こっていた。

 夜中に荷物を抱えて寮から出ようとしたエルザを、執事頭のモーリッツが偶然見つけたのだ。


「私は、ここにはいられません!」


 と、そればかりを繰り返すエルザにモーリッツは困り果てていた。彼女に急に辞められてしまっては困るし、何よりこんな時間に女性を一人で外出させるわけにはいかない。

 騒ぎを聞きつけた他の使用人たちも集まってきて、使用人食堂でエルザを説得し始めた。


「とにかく、落ち着いて」

「事情があるにしても、急に辞めるのはよくないよ」

「せめて、朝になったら公爵夫人に事情を説明して……」


 と優しく声をかけるが、エルザは俯いたままで「ここにはいられない」と繰り返すばかりだった。


「エルザさん!」


 そこに、レオナとルードルフが到着した。

 ルードルフの顔を見た途端、エルザが立ち上がって身体を震わせた。その顔が、真っ青に染まる。


「エルザ……」


 彼女の方に一歩踏み出したルードルフ。その途端、エルザの瞳から涙が溢れ出した。


「来ないで!」


 その叫び声に、ルードルフの肩がビクリと震える。


「あ、あなたはレオナの夫でしょう!」

「そうだ。……だけど、私は君だけのものだ。そう誓っただろう?」

「やめて!」


 エルザが再び叫んで、その場にうずくまった。


「変わらない愛なんて、あるはずない!」


 エルザが震える声で言うのを、ルードルフは黙って聞いていた。


「わ、私は待っていられなかったのよ……!」


 エルザは、とうとう膝を抱えて泣き始めた。


「……みんな、外に出よう」


 ひときわ冷静な声にレオナが振り返ると、そこには公爵夫妻が立っていた。


「二人でよく話し合いなさい」


 そう言って、公爵は使用人たちを促した。


「公爵様」


 戸惑うルードルフに公爵が頷く。


「何も心配しなくていい。後のことは私が全て引き受ける。とにかく、二人でよく話し合いなさい」


 食堂を出た公爵夫妻と使用人たちは「それでは解散」とはいかず、無言の内に場所を変えることになった。一行が本館の応接間に落ち着くと、レオナは口早に事情を説明した。

 それを聞いた公爵が深い息を吐く。


「よくやった。今夜の内にルードルフ君を連れてきて正解だったな」


 褒められてレオナはニコリと微笑んだが、他の使用人たちは微妙な表情を浮かべていた。


「レオナは、それでいいの?」

「何も問題ないわ。だって、もともと愛し合うつもりのなかった夫婦関係だもの。……友人として、二人を応援したいです」


 その言葉に、公爵夫人がしかと頷いた。そして、レオナの手をぎゅっと握りしめる。


「レオナは、本当に素敵な女性になったわね」

「そうですか?」

「ええ。あなたの主人として、誇らしいわ」


 公爵夫人は、そっと使用人寮の方に視線を向けた。食堂の窓からはランプの灯が漏れている。


「こうして巡り合えたのよ。ちゃんと思いが通じるといいわね」





 * * *





 二人きりになると、ルードルフはエルザの傍らにしゃがみこんだ。最後の夜と同じように、彼女の肩をそっと抱きしめる。


「すまない」

「……どうして、あなたが謝るの?」

「私の勝手な誓いで、君に辛い思いをさせてしまった」


 エルザは膝に顔を埋めたまま、首を横に振った。


「あなたは悪くない。悪いのは私だわ」

「いいや。君に孤独を強いた。耐えられなくなって当たり前だ」


 二人の間に沈黙が落ちる。


「……あなた、今はまだレオナの夫でしょう? 気安く触らないで」

「私をここに連れてきてくれたのはレオナだ。きっと、今夜だけは許してくれる」

「明日からは?」

「私はレオナの夫だ。40歳になるまで」


 その言葉に、ようやくエルザが顔を上げた。


「その後は?」

「君を迎えに行く」


 エルザの顔がくしゃりと歪んで、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。


「私は、あなただけのものでいられなかったのに?」

「構わないと言っただろう? これからの君が手に入るなら、そんなことは些細なことだ」


 ルードルフが指先でエルザの涙を拭う。それでも涙が止まらないので、今度は唇を寄せた。

 それにたまらなくなったのは、エルザの方だった。縋るように彼の胸元に顔を埋めると、ルードルフがその身体をぎゅっと抱きしめる。もう二度と離さないとでも言うように。


「愛してるよ、エルザ」

「私も、愛してるわ。ずっと、ずっと、伝えたかった……!」





 * * *





 それから1年間、レオナとルードルフは良き友人として暮らした。レオナは秘密の恋人たちの手紙を運ぶ役割をも担った。

 手紙を受け取る度にルードルフもエルザも「申し訳ない」と謝ったが、レオナは朗らかに笑って言った。


「二人のお手伝いをすると、公爵様からボーナスをいただけるのよ!」


 と。

 さらに、レオナは二人の許しを得て、彼らをモデルにした小説を執筆した。以前から、恋愛小説を書いてみたいと考えていたのだ。

 その小説は大ヒットを記録。レオナは、一躍時の人となった。再婚後もレオナは小説執筆に生涯を捧げ、その夫が彼女を献身的に支え続けたことも後の世に語り継がれている。





 そして1年後、ユーベルヴェーク公爵邸の敷地内に建てられた小さな礼拝堂で、結婚式が行われた。ごく少数のみが出席したささやかな儀式だったが、そこには幸せが溢れていた。


 この結婚が戸籍に記されることはない。だが、確かに人の記憶に刻まれたのだった。






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