後編 亜麻色の髪


「離婚してください」


 初夜の晩、ニーナ──ナディヤは床に頭を擦り付けて懇願した。


「できないよ、そんなこと。できるわけないだろ?」


 ニコラウスは慌ててナディヤの傍らにしゃがみこんで言い募ったが、彼女は頑として顔を上げようとはしなかった。


「こんなこと、許されて良いはずがありません」


 ナディヤの絞り出すような声に、ニコラウスは思わずたじろいだ。だが、ニコラウスもここで引くわけにはいかない。


「とにかく、顔を上げて」

「離婚すると言ってください。そうしたら、言うとおりにします」

「できないよ」

「男性の側からは、いつでも離婚することができるはずです」


 『婚姻統制法』によれば、男性からはどんな時期でも離婚を切り出すことができるとされている。


(そもそも男性が『その気』になれなければ子作りができないっていう、最低最悪の胸糞悪い理由からできた条項だ)


「離婚はしない。君を傷つけたくないんだ」


 結婚早々に夫から離婚を切り出されることは女性にとって最も不名誉なこととされている。そんな女性は新しい相手と結婚しても、不遇な扱いを受けることがあるらしい。


「それに、良識ある男は結婚してすぐに離婚したりしない。相手の女性が、どれだけ好みじゃなかったとしてもね。それとも、ナディヤは僕を非常識で冷酷な男ということにしたいの?」

「そんな!」


 ニコラウスの脅すような言葉に、ようやくナディヤが顔を上げた。


「ね?」

「……では、いつごろ離婚していただけますか?」


 ナディアが硬い表情のままで言うので、ニコラウスは呆れたようにため息を吐いた。


「『婚姻統制法』に従うって言ってたじゃないか」


 これには、ナディヤがぐっと喉を鳴らした。


「はい。ですが……」

「その話し方も、やめてよ」


 言いながら、ニコラウスはナディヤの手をとった。優しく引けば、思いの外素直に従うので、そのまま彼女の手を引いて寝室を横切る。ソファにナディアを座らせてから、ニコラウスは部屋のランプを一つずつ灯していった。

 徐々に明るくなっていく部屋の中で、ナディヤの身体がしゅんと小さく丸まっているのを見ると、ニコラウスは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


(僕だけ、浮かれてた……)


 ナディヤと運命的に結ばれることが決まってからというもの、ニコラウスはこの日が来ることを胸を躍らせて待っていたのだ。だが、彼女は愛の言葉ではなく「離婚してくれ」と告げた。


(理由を、ちゃんと聞かなきゃ)


 ニコラウスは使用人が準備していった茶器を手にナディヤの元に戻った。


「あ、私が……」

「僕が淹れるよ。寝室で紅茶を淹れるのは、男の仕事だろ?」


 寝室で紅茶を淹れるのは男でなければならない。それがマナーだ。ナディヤも分かっているので、黙ってソファに座り直した。

 保温用のケトルの湯を使うので温めだが、この時間に飲むのには丁度いい。ニコラウスは、ことさらゆっくりと紅茶を淹れた。


 そうしている内にナディヤの緊張も解けたらしい。ニコラウスからカップを受け取る頃には、わずかだが微笑みを浮かべて礼を言った。


「理由をきいてもいい?」


 ニコラウスの問いに顔を上げたナディヤは、眉を下げて困ったような笑みを浮かべていた。


「だって、こんなの……。こんな、許されて良いはずがないのよ」

「幸運なのに、許されてはいけなの?」


 ニコラウスは首を傾げた。彼女の言う通り、この結婚はただの幸運だ。『婚姻統制法』によって結婚相手を決めるのは、国の独立機関が行うことになっている。この機関には、どんな政治的圧力も効力を持たない。


 本当に、ただの幸運なのだ。


 後ろ暗いことなど何もないのだから享受すべきことだと、ニコラウスはそう思っていた。だが、ナディヤの考えは違うらしい。


「私は生まれたときこそ不運だったけど、それからの人生は幸運そのものだったわ」


 ナディヤがポツポツと話しだした。


「あなたも知ってのとおり、私の父──ハイツマン侯爵は『婚姻統制法』の保守派よ。人々の暮らしを守ることを第一に考えているわ。だから、父自身も法に従って決められた相手と結婚した。だけど、……子どもができなかったの」


 その話は、ニコラウスも知っている。口さがない貴族たちが噂しているのを聞いたのだ。


「2人目の妻も、3人目の妻も、4人目の妻も妊娠しなかった。結局、父の身体の方に問題があるんだと診断されて、それ以降は結婚できなくなったわ」


 それほど珍しいことではない。こうした男性は孤児院や親族から養子を迎えて跡継ぎにするのが一般的だ。


「私は運が良かったの。この亜麻色の髪がお父様とそっくりでね。本当に小さな赤ん坊の頃に引き取ってもらえたのよ。双子の兄と一緒に」


 ナディヤはカップに残っていたわずかな紅茶を飲み干してから、ふうと息を吐いた。


「父は跡継ぎのを探して孤児院に来た。そこに、自分そっくりの亜麻色の髪の男の子がいて、その子には双子の妹がいて……。引き離すのは可哀想だからって、二人一緒に引き取っていったのよ」


 彼女の言いたいことは、なんとなく分かった。


「今の君がいるのは、幸運にる所が大きいってこと?」

「そうよ。それからも、私は本当に幸せに暮らしてきたの。何不自由なく、大切に育ててもらった。それに……」


 言葉を切ったナディヤがニコラウスを見つめる。



「恋もしたわ」



 切ない声音に、ニコラウスの胸が締め付けられた。彼女も同じ気持ちでいてくれたのだ。それなのに、この幸運を受け入れられないと言う。


「私のような何もかも手にしている、幸運だけが取り柄の女が幸せになるだなんて。そんなことが許されていいはずがないのよ」


 そのまま、2人は夜が明けるまでソファで向かい合って座っていた。ニコラウスは、とうとう彼女にかけるべき言葉をみつけることができなかった。





 * * *





「で? 毎晩毎晩、2人でお茶してるのか? 何も話さずに?」


 長兄のジークハルトの呆れたような問いに、ニコラウスは頭を抱えた。彼が結婚してから1週間が経とうとしているが、初夜以降、ニコラウスはナディヤとまともに会話ができずにいる。この状況を打開する方法を相談しようと兄姉の中でも最も穏やかな性格のアルノルトを訪ねたのだが、何故か彼の屋敷にジークハルトがいたのだ。


「馬鹿なのか?」


 ジークハルトが眉を顰めて、その隣ではアルノルトが苦笑いを浮かべている。


「なんていうか、さすがハイツマン侯爵のご息女って感じだね」


 アルノルトが言葉を選びながら言うと、


「『保守派の筆頭』って、『がんこじじい』って意味だっけ?」


 と、ジークハルトがからかった。


「ジーク兄さん、やめてよ。僕の義父なんだよ?」

「それもなあ、困ったもんだよ」

「え?」

「ユーベルヴェうちーク公爵家とハイツマンあっち侯爵家は、謂わば政敵だぞ? これから、やりにくくなるなぁ」

「兄さん!」


 ジークハルトのあまりの言いように、さすがのニコラウスも声を荒げた。


「冗談はやめてよ!」

「冗談じゃない」


 しんと、室内に沈黙が落ちた。


「大事なことだ。お父様も俺たちも、歴史を変えようとしているんだ。こんなことに足を引っ張られるわけにはいかない」


 アイスブルーの瞳にまっすぐに見つめられて、ニコラウスは逃げるように視線を逸らした。


「……僕は、そんな風に決められないよ」


 ニコラウスは深く息を吐いた。自分のことが、情けなくて。


「何が正しいのか、分からない。……ううん。違う。絶対的な正しさなんてどこにも存在しない。自分の正義を自分で決めなきゃならないのに、僕にはそれができない」


 ギュッと両手を握りしめると、ポンポンと優しく肩を叩かれた。


「それでいいんじゃない?」


 言ったのは、アルノルトだ。


「え?」

「決められないなら、決まるまで悩めばいいじゃないか」

「でも、それじゃあ、何もできないじゃないか」

「うん。でも、僕らは何かを成すために生まれてきたわけじゃないだろ?」


 アルノルトが葉巻に火をつけて、ジークハルトもそれに倣った。ニコラウスは双子が葉巻を吸う姿を見るのが好きだ。まるで大人の象徴のような気がするから。


「僕らは生まれてきたから、今を生きているんだ」


 アルノルトの言葉は抽象的すぎて、ニコラウスにはよく分からなかった。


「つまり、どういうこと?」


 素直に尋ねたニコラウスに、アルノルトが破顔する。


「深く考えるなってこと!」

「え?」


 首を傾げたニコラウスの肩を、今度はジークハルトがバンバンと音を立てて叩く。


「こんなとこで油売ってないで、さっさと帰れ。それで、ちゃんと話をしろ」

「でも……」

「四の五の言わずに、気持ちに従えばいい」

「気持ちに?」

「そうだ。今じゃ家畜みたいに繁殖させられている俺達だけど、家畜と違うことがあるとすれば、それは心だ」


 ジークハルトがニコラウスの胸をちょんと突いた。くすぐったくて思わず身を捩ったニコラウスに、双子が笑みを深める。


「ほら! さっさと帰れ!」


 ニコラウスは結局答えを出せないまま、ジークハルトに追い立てられるようにして自分の屋敷に帰ることになった。





 * * *





 ニコラウスとナディヤの新居は、首都の郊外にある。2人が支援している孤児院のすぐそばで、結婚に浮かれていたニコラウスが『きっと彼女が喜ぶだろう』と考えて選んだ物件だ。


(帰る前に、子どもたちの顔を見ていこう)


 そう思って立ち寄ってみれば先客がいた。ナディヤだ。彼女のピアノの演奏に合わせて、子どもたちが楽しそうに身体を揺らしながら歌っていた。あの日、彼女が演奏していたワルツだ。


「ねえ、ナディヤ。これはなんの歌なの?」

「ワルツよ」

「踊りの曲?」

「そうね。ダンスの曲として使うこともあるわね」

「じゃあ、なんでこんなに悲しそうなの?」


 一人の女の子の問いに、ナディヤが目を細めた。


「作曲した人が失恋をして、その思いを込めた曲なの」

「えー!」


 女の子が声を上げた。次いで、


「……失恋って何?」


 と別の女の子が尋ねる。


「好きな人と、結ばれなかったのよ」


 ナディヤの言葉に、女の子たちの肩がみるみるうちにしぼんでいく。


「悲しいね」

「そうね。……とっても、悲しいわね」


 ナディアの言葉に、ニコラウスは我慢できなくなった。考えるよりも先に足が動く。


『気持ちに従えばいい』


 ジークハルトの言葉が頭の片隅を過る間に、ニコラウスはナディアのすぐそばに駆け寄っていた。


「あ」


 驚いて目を見開くナディヤを、彼女が何かを言う前に抱きしめる。


「きゃー!」


 女の子たちが声を上げて、顔を真赤にさせた。中には両手で顔を覆っている子もいる。だが、ニコラウスにはそれに構うような余裕はない。


「ナディヤ、君に伝えたいことがあるんだけど」

「……はい」


 ニコラウスはナディアの身体をぎゅうっと抱きしめたまま、その亜麻色の髪に顔を埋めた。


「ずっと、こうしたいと思ってたんだ」


 あの時も、あの時も、あの時も。


「君が悲しい顔をする度に、こうして抱きしめたいと思ってた」


 行き場をなくしてウロウロとさまよっていたナディヤの両手が、遠慮がちにニコラウスの腕に触れる。


「……うん」

「僕は、君のことが好きだ。……愛してる」


 ニコラウスは両手に力を込めた。ぬくもりが、気持ちが、伝わるように。


「僕はまだ何も決められない、情けない男だ。だけど君を大事にするよ。だから、僕と一緒に考えてほしいんだ。……僕らが、これからどう生きていくのかを」


 ナディヤは何も言わなかった。ただ、細い両腕がニコラウスの背に回って、キュッと優しく力がこもる。ニコラウスにとっては、それで十分だった。


 大きな窓から夕日が差し込む。少し恥ずかしそうに顔を上げたナディヤの頬が茜色に染まって、その頬を一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙の本当の意味は、今も分からない。


(それでも、僕は彼女の涙を拭ってあげたい。それさえ分かっていれば、それでいいんだ)



 優しい手付きで涙を拭ったニコラウスに、ナディヤがニコリと微笑んだ──。

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