中編 さよならのワルツ
『婚姻統制法』には、制度として維持していくための、いくつかの取り決めが盛り込まれている。その1つに、『婚前および夫婦間以外での性交を禁ず』とある。子どもの養育は父親の責任とする制度であるため、当然といえば当然だ。
だが、法律で禁止したからといって全ての行動を制限できないのが人間である。
* * *
「私の母親は未婚で妊娠したらしいわ。隠れるようにして出産したの。そして生まれたのが、私と双子の兄よ。私たちは、生まれてすぐに孤児院に預けられたわ」
ニーナの言葉に、ニコラウスはドキリとした。今まさに彼の手元にある名簿に載っている孤児たちの大半は、そうして生まれてきた子どもたちなのだ。
「私が生まれた18年前って、『婚姻統制法撤廃運動』が活発になり始めた時期でしょ? 一種の流行だったらしいわ。『婚姻統制法』への抗議活動として、婚前に恋人と子供を作るのが」
またニコラウスの胸がぎゅっと締め付けられた。『婚姻統制法撤廃運動』が活発になったのは、彼の父であるユーベルヴェーク公爵が裏で活動資金を支援するようになったからだ。
結果、国中で『婚姻統制法』の是非について活発な討論が行われるようになったが、同時に多くの孤児を生むことにもなった。
「『婚姻統制法』がなければ、私たちは本当のお母さんとお父さんと暮らせていたわ。2人は愛し合っていて、だから私たちが産まれたんだもの」
ニーナがポツリとこぼした。テーブルの上で握っていた両手が震えているように見えて、ニコラウスは思わずその小さな手を包み込むように握りしめる。
「だけど、その2人が法律をちゃんと守っていれば、私たちみたいな可哀想な子供が産まれてくることもなかったでしょ?」
泣き笑いを浮かべるニーナに、ニコラウスはかける言葉が見つからなかった。
「それに、『婚姻統制法』が導入されてから出生率は安定しているわ。私たち人間の暮らしを維持するためには、必要な法律なのよ」
講堂の大きな窓から、夕日が差し込んでくる。
「だから、私は『婚姻統制法』に従うわ。それが正しいと思うから」
茜色に染まったニーナの頬に、一筋の涙が流れた。ニコラウスはその涙の意味を懸命に考えてみたが、どれだけ考えてみても答えにたどり着くことはなかった。
* * *
「ニコラウス、帰りか?」
結局ニーナに何も言えず、トボトボと帰途についていたニコラウス。そんな彼に馬車の中から声をかけたのは、彼の父・ユーベルヴェーク公爵だった。どこかから帰る途中で、ニコラウスを見つけたらしい。
「うん」
「乗りなさい」
あまり気乗りはしなかったが、言われた通りに馬車に乗り込んだ。断る理由も思い当たらなかったからだ。
「……」
「……」
父子2人の馬車の中に沈黙が落ちる。公爵は無口な方なので、あまり珍しいことではない。
(お母様がいれば、ちょっとは会話も弾むのにな)
公爵は、母親の前では人が変わったように饒舌になるのだ。
「……孤児院は、どうだ?」
不意に公爵が尋ねた。驚いてニコラウスの肩がビクリと揺れる。
「どう、とは?」
「困ってはいないか?」
「それは、大丈夫だと思います。ただ暮らすだけなら、国からの補助金で十分ですから」
ニコラウスたち貴族が支援してはいるが、孤児院はその必要がないほどの補助金を受け取っている。将来の働き手となる子どもたちを養育しているので当然だ。貴族からの援助は、さらに子どもたちの生活や教養を豊かにするために使われているのだ。
「そうか」
「はい」
再び2人の間に沈黙が落ちた。
「法改正を提案してはいるが、なかなかうまくいかない」
公爵がポツリとこぼした。よくよく見れば、彼の座席の隣には書類綴が山になっている。どうやら、議会からの帰り道だったらしい。
「ハイツマン侯爵をはじめとして、頑固者が多い」
この国は王政ではあるが、貴族院と下院で構成される議会が政治の中心だ。公爵は貴族院議員の一人としても、『婚姻統制法』撤廃に向けて地道に活動している。ハイツマン侯爵は、ユーベルヴェーク公爵とは対立する派閥のトップだ。
「婚前であろうと出産した場合には『自由恋愛』の権利を与えるべきだと、どうしても納得できないらしい」
その言葉に、ニコラウスはハッとして公爵の顔を見た。
現状では、婚前の妊娠・出産では『自由恋愛』の権利は与えられない。「婚前であろうと出産した場合には『自由恋愛』の権利を与える」ということはつまり、実質的に全ての女性に『自由恋愛』が許されることになる。結婚年齢に達する前に好きな男性と子供を作ってしまえば、その後はその男性と結婚できるのだから。そうなれば、産まれてすぐに両親から引き離される子どももいなくなる。
「時間はかかるが、解決したいと思っている」
公爵は自らの行動によって何が起こっているのかを、正しく理解しているのだ。そして、そのために何をすべきなのかを、考えている。
「……そもそも、『婚姻統制法』を撤廃しようとするのが間違いだとは思わないんですか?」
口に出してから、ニコラウスはしまったと思った。とても意地の悪い質問だ。だが、目の前に無表情で座る自分の父親のせいで、今も苦しんでいる人がいると思うと、やるせない気持ちになったのだ。例え彼が現状を変えるための努力をしているのだとしても、その過程で大勢の人が犠牲になっている。
「私は、そうは思わない」
公爵は、やはり無表情のままで淡々と言った。
「そもそも、『婚姻統制法』がなければ、子どもたちが母親から引き離されることもない」
「でも、『婚姻統制法』がなければ、子どもを産まないという権利も生じます。そうすれば、出生率が下がるのでは?」
「選択肢があるのは、むしろ良いことだ。出生率の維持を目的とするなら、強制する以外の方法があるはずだ」
「机上の空論です」
ニコラウスの言葉に、ようやく公爵の表情が動いた。優しく、微笑んだのだ。
「本当に、そう思うか?」
その問いに、ニコラウスは答えることができなかった。公爵が窓の外に目をやる。その視線の向こうには、ユーベルヴェーク公爵邸が見えてきた。
「お前の考えが間違っているとは思わない」
門の方に目をやれば、人だかりができていた。公爵の帰宅を知った公爵夫人が、門まで出てきたのだ。
「だからこそ、人は自由な選択肢を持つべきだと私は考えている」
馬車が止まると同時に立ち上がった公爵が、ニコラウスの肩を叩いた。
「お前の考えた通りにすればいい」
やはり淡々と告げた公爵は、軽やかな足取りで馬車を降りていった。
* * *
「僕も、『婚姻統制法』に従うことにしたよ」
次にニーナに会った時、ニコラウスは震える声でそう伝えた。
「……そう」
「うん」
この日も、2人は孤児院に来ていた。ニーナは子どもたちに勉強を教えるため、ニコラウスは新しく購入したピアノの搬入を見届けるために。
子どもたちにせがまれたニーナが真新しいピアノで見事な演奏を披露した後、何かを察した院長が子どもたちを講堂から連れ出してくれた。その気遣いに感謝しつつも、ニコラウスは複雑な心境だった。
「こうして会うのも、きっと今日が最後ね」
ニーナの声も震えていた。それを誤魔化すように、細い指をピアノの鍵盤に滑らせる。彼女が演奏したのは、どこか悲しげな旋律のワルツだった。
最後の一音まで、ニコラウスは胸に刻むようにして聞き入った。
(これで、最後だ)
懸命に涙を堪えながら。
(何が正しいのかなんて分からない。だけど……)
悲しげな表情で演奏を続けるニーナの横顔を見つめながら、ニコラウスはギュッと両手を握りしめた。
(きっと、彼女は望まないから)
これが正しい決断だと、ニコラウスは自分に言い聞かせた。
演奏が終わるとニコラウスは笑顔で拍手を送り、ニーナもまた笑顔でそれに応えてお辞儀をした。笑顔で別れた2人は、次に会う時にはそれぞれ配偶者を持つことになるだろう。
(そのときにも、きっと笑顔で挨拶をしよう)
ニコラウスは、心の中でそう決意したのだった。
* * *
「こちらが、娘のナディヤです」
「息子のニコラウスです」
ニコラウスは、『婚姻統制法』により結婚相手となったハイツマン侯爵家のナディヤ嬢と会うはずだった。しかし、今彼の目の前にいるのは、よく知った女性だ。
「……」
「……」
2人は挨拶を交わすこともせずに、互いを見つめ合うことしかできない。
「ニコラウス?」
「ナディヤ、どうしたんだ?」
2人の父親がそれぞれの子の顔を覗き込むが、それすら目に入らない。
「こんなことって……!」
2人の声が重なった。
ニコラウスの目の前では、『ニーナ』が
* * *
『運命の悪戯か⁉ 婚姻統制法反対派の筆頭ユーベルヴェーク公爵家の末息子と、保守派の筆頭ハイツマン侯爵家の令嬢が婚姻!』
そんな見出しが新聞の一面を飾ったのは、その数日後のことだった──。
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