【書籍化決定】泣き虫令嬢の良縁〜婚約破棄されたので公爵家の乳母になった私は職業婦人として生きていくと決めたのに公爵様に溺愛されるので困っています〜
不幸少女の良縁〜強制的に結婚させられたけど、遠回りの末に二人は幸せになります〜
番外編②
不幸少女の良縁〜強制的に結婚させられたけど、遠回りの末に二人は幸せになります〜
子どもを産んだら離婚する。そう決めていた。
ついさっきまで。
「……かわいい」
生まれたての、しわくちゃ顔の男の子。その小さな体をこの手に抱いた瞬間、全てのことがどうでもよくなった。
(これからは、この子のために生きていこう)
そう、心に決めた──。
* * *
「私が、伯爵家に?」
スザンナが18歳になった次の日、青色の封書が届いた。『婚姻統制法』により、結婚相手が決まったという通知だ。恐る恐る開封してみれば、そこには結婚相手となる男性の氏名が書かれていた。
『ヴォルフ・シュミット』
その名は、聞いたことがあった。建国から続く由緒正しい家柄、シュミット伯爵家の若き当主の名だ。不幸な事故で前当主を亡くし、20歳という若さで家督を継いだのだと、数日前の新聞に掲載されていた。
スザンナは、一人小さくため息を吐いた。
「結婚、か……」
応える者はいない。スザンナは孤児院で育ったので、家族がいないのだ。15歳からは孤児院を出て首都で働きながら一人で暮らしている。幸せを感じたことなど、ほとんどない。不幸な少女、それがスザンナだ。
「孤児でも不幸でも、健康なら結婚できるんだもの。悪いことばっかりじゃないわね」
スザンナは自嘲気味に笑ってから、ついさっき脱いだばかりの外套を再び羽織って家を出た。あちこちが擦り切れて薄くなった外套を揺らしながら、夜の街を歩く。道行く人々は一様に下を向いていて、幸せそうな人などどこにも見当たらない。それが、この街の夜だ。
「あれ、スザンナ。どうした、忘れ物か?」
声をかけてくれたのは、勤め先の商店の息子のエーミールだ。昨日は、彼がスザンナのために誕生日を祝ってくれた。スザンナの部屋で二人きりで、小さなケーキを分け合って、夜明けまで一緒に過ごした。
(あれが、唯一の幸せな時間だったわ)
スザンナは心のなかでひとりごちてから、首を横に振った。
「ううん」
「じゃあ、どうした? こんな時間に……」
エーミールは、スザンナの手に青色の封筒が握られていることに気がついた。そして、その表情をくしゃりと歪める。
「スザンナ……」
「お別れを言いに来たの」
「そうか」
エーミールは泣きそうな表情で一つ頷いてから、スザンナの手を握った。
「身体に気をつけて」
「うん」
「スザンナはがんばりやさんだから心配だよ」
「うん」
「嫌なことがあったら、すぐに手紙で知らせて」
「うん」
「僕が助けに行くから」
叶わない約束だ。スザンナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
エーミールは数カ月後には20歳の誕生日を迎える。そうなれば、彼も『婚姻統制法』に従って結婚しなければならない。
「泣かないで」
「うん」
「……さようなら」
「さようなら」
スザンナはエーミールの手を振り払って、再び夜の街を歩き出した。まっすぐ家に帰る気にはなれなくて、行くあてもなく歩き続けた。
(どうしようもない)
スザンナとエーミールは、結ばれることはない。絶対に。そんなことは最初から分かっていた。
(それでも、大好きだった……)
右手に握りしめたままの青色の封筒を、破り捨てたい衝動に駆られた。そんなことをしても意味はないのに。
(さようなら)
心のなかで、何度も繰り返した。
* * *
この国、いやこの世界の人類は、今まさに滅亡の淵に立たされている。
魔物と瘴気によって大地は汚染され、人が住める土地は年々減り続けている。土地が減れば人は減り、人が減れば食料の生産や生活用品の生産が追いつかない。人類は、少しずつその数を減らしながら、滅びの時に向かっている。
そんな中で人類にできる抵抗はただ一つ。子どもを産み続けることだけ。
婚姻と子作りは健康な男女の義務であり、男性は20歳、女性は18歳になると同時に、国が決めた相手と結婚しなければならない。
それが『婚姻統制法』だ。
スザンナは、愛してもいない男のもとに嫁がなければならない。
それが、この国に生まれた女の運命だ。
* * *
しばらく歩いていると、今度は腹の虫が鳴り始めた。こんな時でも腹は減るらしい。スサンナは無駄な抵抗をする気力もわかず、家に帰ることにした。
借家の古びた階段がギシギシと音を立てる。スザンナの部屋は3階だ。階段を上りきり、ふうと息を吐いてから顔を上げた。すると、そこにはいつもとは違った──異様な風景があった。
真っ黒のモーニングコートを着た男性たちが、廊下に沿って馬鹿みたいにきれいに並んで立っているのだ。一人や二人ではない。10人はいるだろう。彼らは執事やフットマンと呼ばれる貴族に仕える使用人であることをスザンナは知らないので、ビクリと大げさなほどに肩を揺らした。
「やあ、スザンナ。遅かったんだね」
振り返って片手を上げたその人は、他の男性たちとはまるで違った。ツヤツヤの生地を仕立てた上質なフロックコートに、ツヤツヤのトップハット。ツヤツヤの栗色の髪は丁寧に手入れされていることがわかる。見るからに、貴族だ。
「ごめんね、こんな遅くに訪ねてきて」
貴族の男は困ったように眉を下げてから、スザンナの前まで来た。
「本当は昼間に来るべきなんだろうけど、ちょっと事情があってね」
そして、トップハットを脱いで小脇に抱えてスザンナの顔を覗き込んだ。スザンナは驚きのあまり声を失ったままだ。
「僕はヴォルフ・シュミット。通知は……受け取ってるみたいだね」
ヴォルフと名乗った男は、スザンナが握りしめてくしゃくしゃにした手紙に目をやってから、また眉を下げた。
「ごめんね。君の心の準備を待ってあげる時間がないんだ。このまま、僕の屋敷に来てもらうことになる。男ばかりで申し訳ないけど、荷物の準備を手伝わせてくれるかな?」
申し訳無さそうに告げられた提案を、断ることなどスザンナにはできるはずがなかった。
あれよあれよという間にスザンナはシュミット伯爵家の屋敷に連れて行かれ、その晩から『伯爵夫人』として暮らすことになってしまった。
ただし、夫となったヴォルフとまともに話ができたのは、それから2週間も経ってからのことだった。
「何かと忙しくて。ごめんね」
晩餐の席で、開口一番にヴォルフが頭を下げた。スザンナはなんと答えていいのか分からずに、黙り込むしかない。そもそも、食事のマナーが分からないので、目の前に置かれた前菜をどうすればいいのかも分からないのだ。
「……」
それに気づいたのだろう。ヴォルフがスザンナに分かるように、ことさらゆっくりと銀のフォークとナイフを手に取った。スザンナが真似たのを確かめてから、フォークとナイフを使って食べて見せる。スザンナもそれを真似た。もちろん、上手くはいかなかったが、どうにかこうにか食事をすすめることができた。
「本当にごめんね。こんな家に、嫁ぎたくなんかなかっただろう?」
ヴォルフが、相変わらず眉を下げた表情でスザンナに謝った。
「それは、その……」
ようやく口を開いたスザンナに、ヴォルフの表情が僅かに明るくなる。
「うん」
ヴォルフは頷いて、スザンナの言葉を待った。
「国が決めたことですから」
「……そうだね。君には、決定権がないのに、変なことを聞いてごめん」
「いえ」
「君には、恋人がいる?」
急な質問に、スザンナの頬が真っ赤に染まった。
「いるんだね。どんな人?」
「え、っと……、そのぅ……」
つい最近結婚したばかりの夫に、恋人の有無を聞かれた挙げ句にどんな男なのかと尋ねられて、困惑しない女性がいるだろうか。
スザンナは何と答えるのが正解かわからず、その、とか、あの、とかを繰り返しながら目の前に置かれた口直しのシャーベットをスプーンでつつき続けた。
「僕は君の夫で、君は僕の妻だ。だけど、君の心まで手に入るとは、これっぽっちも思ってないよ。僕だって、君を愛することはないと思う。……君は務めを果たせば自由の身だ。だから、その恋人のことも無理に忘れようとしなくていいんだよ」
ヴォルフが優しく語りかけるように言った。
「自由の身、ですか?」
「うん。子どもを産んだ女性には『自由恋愛』の権利が与えられる。君だって、僕の子を産んでさえくれれば、その後は好きな男と結婚できるんだよ」
全ての女性には婚姻と子作りという義務が課せられるが、その代わりに一人でも子どもを産んだ女性には『自由恋愛』の権利が与えられる。自由に離婚し、好きな男と結婚できる権利だ。そうして女性自身が選んだ男性との間に、二人目以降の子どもを産む女性が、最近では増えてきている。
「……お許し、いただけるんですか?」
スザンナは思わず前のめりになって尋ねた。
「もちろん。君が望むなら」
ヴォルフが深く頷いたのを確認して、スザンナはほっと息を吐いた。
「貴族の家では、離婚を認めてもらえないって聞いていたので」
「そういう家もあるって、聞くね。外聞が悪いからって」
貴族は、そもそも『婚姻統制法』に縛られない。貴族同士であれば、家同士で決めた相手との結婚が許されている。ヴォルフのように『婚姻統制法』に従って決められた相手と結婚することもあるが、ごく少数派だ。
「あの、質問してもいいですか?」
「もちろんだよ」
ヴォルフが優しく微笑むので、スザンナはまたほっと息を吐いた。
「どうして、貴族の方と結婚しなかったんですか?」
「本当は、その予定だったんだけどね」
「予定だった?」
「婚約を取りやめたんだ。相手の女性が……、不特定多数の男性と関係を持っていたことが分かって」
「うわ」
思わずスザンナの口から漏れた声に、ヴォルフが吹き出した。スザンナの方は慌てて両手で口を塞ぐが、時既に遅し、である。
「すみません」
「いいよ。君がどんな言葉を使っても、誰もそれを咎めたりはしないから」
「でも……」
「君は何も気にしなくていいんだよ」
優しく微笑むヴォルフに、スザンナは肩の力が抜ける思いだった。この2週間、本当に緊張し続けていたのだ。
「安心して。僕は、君を大事にするよ」
その言葉を、スザンナは信じた。
孤児として生まれ、一人で生きてきて、恋人と引き裂かれて見知らぬ男性の元に無理やり嫁がされた自分だが、この結婚をきっかけに幸せになれるかもしれない。そう、心から信じたのだ。
「ただし、絶対にこの家から外に出てはいけないよ。いいね」
「はい」
家から出てはいけないとは妙な規則だと思ったが、貴族とはそういうものなのだろうと、スザンナは素直に頷いたのだった。
* * *
それからも、ヴォルフは忙しくあちこちに動き回っていた。家督を継いだばかりなので忙しいのだろう。しかし、夫婦の寝室にも顔を出さないので、次第にスザンナは不安になっていった。
(子どもを産んだら離婚してくれるって言っていたのに……。これじゃあ、どうしようもないじゃない)
その不安が、次第に不信感に変わっていったのは仕方のないことだろう。
そんなスザンナの元に、一通の手紙が届いた。差出人はエーミールだった。
『愛しいスザンナへ。僕もいよいよ結婚が決まった。その前に、ひと目だけでも君に会いたい。今夜、深夜ちょうどに、東の広場で』
東の広場は首都の中心地から離れた場所だ。夜にもなれば、
スザンナは、使用人たちも寝静まった頃に一人で屋敷を抜け出した。
ふわふわの毛皮の外套を揺らしながら、人気のない道を選んで夜の街を足早に進む。東の広場には、深夜ちょうどにようやく到着した。
「スザンナ……!」
小さな街灯の下に、エーミールがいた。
「エーミール!」
そのまま駆け寄ろうとしたスザンナだったが、それはできなかった。誰かがスザンナの腕を掴んだからだ。
「誰!?」
思わず叫んだスザンナだったが、さらに反対の手を別の誰かが掴みあげられて、言葉を失くす。
「どうして来たんだ、スザンナ!」
広場の向こうで、エーミールが叫んだ。よく見れば、彼の両手は縄で縛られ、その身体は街灯の柱にくくりつけられていた。
「どういうことなの?」
スザンナが叫ぶようにして問う間に、スザンナの腕を掴んでいた男たちが今度は彼女の身体に縄をかけていく。
「どういうこともなにも、悪いのは全部あなたじゃない」
若い女性の声だった。声のした方に顔を向ければ、暗がりの中から一人の若い令嬢が姿を現した。真っ黒なドレスを着た、美しい女性だ。形の良い唇に引かれた真っ赤な口紅が、美しい弧を描く。
「あんな手紙を信じてこんなところまでノコノコやって来るなんて、おめでたい娘さんね」
ハッとしてエーミールの方を見ると、その顔が真っ青に染まっていた。彼の名を騙って、この令嬢がスザンナを呼び出したのだ。
「どうして、こんなことを?」
「どうして? あなたが、私のヴォルフ様を横取りしたからよ!」
美しい令嬢の表情と声音が一変する。そして、ツカツカとスザンナの方にやって来た令嬢が彼女の髪を掴み上げた。
「この泥棒猫が! 私が! シュミット伯爵夫人になるはずだったのよ!」
ここまで言われれば、スザンナにも事情が分かってきた。彼女が、ヴォルフと婚約していた令嬢なのだ。婚約解消は彼女の自業自得だと聞いているが、彼女の中では、そうではないらしい。
「あんたさえいなければ! 私が! 幸せになれるのよ!」
令嬢が叫びながら、掴んだままのスザンナの頭を揺らした。ブチブチと音を立てて髪が抜ける痛みに耐えながら、スザンナは唇を噛んだ。そこにエーミールもいるのだ。今にも泣き出してしまいそうな顔でスザンナの方を見ている。そんな彼の前で、みっともなく叫ぶことは憚られた。
「殺して! この女を殺して!」
令嬢の命令に、周囲を取り囲んでいた男たちが動き出した。その手に握られたナイフの刃が、街灯に照らされてチラチラと光っている。
「何も心配はいらないからね。あんたの愛しいエーミールも、すぐに殺してあげるから」
令嬢が、ことさら優しく囁いた。その声が叫び声よりも恐ろしくて、スザンナの背筋を悪寒が走る。
「さあ、殺して!」
女が叫んだ。その、刹那。
──パンッ。
「そこまでだ!」
乾いた破裂音に続いて、別の誰かの声が割り込んできたと思ったら、次の瞬間には目の前にいたはずの男の身体が傾いた。
──パンッ、パンッ、パンッ!
破裂音が続く。男たちが蜘蛛の子を散らす用に広場の中を逃げようとするが、そんな男たちが一人、また一人と倒れていく。
(銃で撃たれたんだわ!)
それに気づいて、スザンナはその場にうずくまった。スザンナまで撃たれるかもしれないのだ。だが、その必要はなかった。次の瞬間にはスザンナを別の男たちが取り囲み、壁になってくれたのだ。ちらりと彼らの姿を見れば、首都警備隊の制服を着ていることがわかった。
「スザンナ!」
その警備隊の壁を縫って、スザンナの前に転がるようにして駆けてきたのはヴォルフだった。
「無事か! 怪我は!」
ヴォルフはスザンナを助け起こし、手や足、そして顔を覗き込んだ。
「大丈夫、です」
「そうか」
ヴォルフが安心したように微笑んだ。そして、警備隊の手を借りてスザンナの縄をほどき終わった頃には、全てが終わっていた。黒いドレスの令嬢は警備隊によって捕縛され、意味を成さない叫び声を上げながら連行されていった。男たちの大半は銃で撃たれ、息のあるものは連行されていく。
その向こうで、エーミールも警備隊によって縄を解かれるのが見えた。
「……彼も、無事のようだね」
ヴォルフの声に、スザンナの背に冷たいものが伝った。彼の声が、いつもと違ったからだ。思わずその顔を覗き見れば、剣呑な瞳でエーミールを睨みつけていた。エーミールがスザンナの方に駆けてくると、スザンナをその背の後ろに隠してしまう。
その様子に、エーミールがビクリと肩を揺らして立ち止まった。
「……」
「……」
しばらくの間、二人の男が睨み合っているようだった。先に目を逸したのは、エーミールの方だった。
「スザンナ、君が受け取った手紙を見たよ」
エーミールからの手紙だ。寝室に隠して出かけてきたはずだが、見つかったらしい。だが、そのお陰で助けてもらえたとも言える。
「どうして、あんな手紙を信じたんだい?」
「だって、エーミールからの手紙だから」
「どうして彼からの手紙だとわかったの?」
「それは、署名もあったし。エーミールの字で書いて、あ、った……」
ここまで言って、スザンナは顔を青くした。あの手紙は、確かにエーミールが書いたものだった。つまり、彼はあの令嬢に協力したということだ。
「金に目がくらんだのか?」
この問は、エーミールに向けたものだ。
「まさか、こんなことになるとは思わなくて……」
「言い訳は結構だ」
ヴォルフが合図すると、警備隊がエーミールを拘束した。思わずそれを止めに入ろうとしたスザンナだったが、ヴォルフに押し止められる。
「君も。決して家を出てはいけないと言ったのに」
「でも……」
「言い訳は聞きたくない」
そう言って、ヴォルフは乱暴な手付きでスザンナの手を引いた。そのまま馬車の中に投げ込むように押し込まれて、屋敷に連れ帰られて。
その晩、スザンナは初めて妻としての務めを果たしたのだった──。
* * *
その日以降、ヴォルフがスザンナの寝室を訪れることはなかった。屋敷の中で顔を合わせても会話もせず、ただ同じ屋根の下で暮らすだけの二人。
(何もかも、壊れてしまった)
スザンナは、そう思った。
夢見ていた小さな幸せも、何もかもが失われたのだ。
(子どもが生まれたら、離婚して首都を離れよう)
そうやって、また一人で生きていこうと。スザンナは決めたのだった。
* * *
それから約10ヶ月後、スザンナは元気な男の子を出産した。
そして産婆に促されて腕に抱いた小さな身体のぬくもりに触れた瞬間、何もかもがどうでもよくなった。自分が失ったものなど、些末なものでしかなかったと思ったのだ。
「……かわいい」
「ええ。かわいらしいですね。目元は、お母様にそっくりだわ」
産婆が微笑む。スザンナの瞳から、ポロポロと涙が溢れた。
「あら。泣き虫のお母様ね」
「すみません」
「いいんですよ。さあ、少し休みましょう」
「あ、赤ちゃんは?」
「離れたくない?」
「……はい」
「それじゃあ、隣で眠りましょう」
そう言って、おくるみでぐるぐる巻きになった赤子を、産婆がスザンナの隣に寝かせてくれた。スザンナは自分もベッドに横になったまま、小さな身体がモゾモゾと動くのを眺めていた。
「あら。旦那様がいらっしゃったわね」
産婆が驚くので、スザンナも慌てて起き上がった。ヴォルフが、産屋に来るとは思わなかったのだ。
「そのままで」
「はい」
スザンナは再びベッドに横になり、ヴォルフは産婆に促されてベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「それじゃ、私は外してますから。何かあったら呼んでね」
産婆がニコリと笑って部屋から出ていくと、二人の間には気まずい沈黙だけが残った。
「ありがとう」
最初に口を開いたのは、ヴォルフだった。
「元気な男の子だ。君は十分に務めを果たしてくれた」
彼の言いたいことは、スザンナにはよく分かった。だから離婚しようと、言っているのだ。
「……私は、ヴォルフ様のことが嫌いです」
スザンナの言葉に、ヴォルフが目を見開いて驚いている。面と向かって言われるとは思っていなかったのだろう。
「ちゃんと話をしてくれないし、顔も合わせてくれない。あの晩だって……、私、怖かったです」
「ごめん」
ヴォルフが眉を下げた情けない顔で謝った。再び二人の間に沈黙が落ちる。
「でも、もっと嫌いなのは私自身です」
ポツリと、スザンナが言った。
「私は孤児で、あなたは立派な伯爵様で。口答えをしてはいけないって、そう思い込んでいました」
スザンナは、ゆっくりと身体を起こした。あちこちが痛んで、うまく動かすことができない。それを、ヴォルフが支えてくれる。
「でも、私は母親になったから」
そう言ってから、スザンナはヴォルフの手をとった。その手を、赤子の頭の上に導く。ヴォルフはビクリと肩を揺らしたが、それでも抵抗はしなかった。そのまま、赤子の頭を優しく撫でる。
「自信はありません。私は、母親というものを知らないから」
スザンナがヴォルフの顔を覗き込むと、その目に涙が滲んでいることに気がついた。
「私は、ちゃんと母親になりたい」
今、スザンナは心からそう思っている。
「ちゃんとやり直しましょう、私たち」
「やり直す?」
「そう。私は母親で、あなたは父親。この子のために、最初からやり直すの」
「だけど……」
「私のことが許せない?」
「まさか!」
ヴォルフが叫ぶように言って、今度はスザンナの手を握った。
「君は何も悪くない。……あの晩、嫉妬に狂って君を抱いた。悪いのは、僕だ」
スザンナはヴォルフの手を優しく撫でた。気持ちが、ちゃんと伝わるように。
「君を愛することはないなんて言っておいて、情けないよ。本当は、君と本当の夫婦になりたかった。君を愛したかったし、君に愛されたかった。……それを、どうしても言い出せなかったんだ。ごめん。本当に、ごめん」
ヴォルフは、何度もごめんと繰り返した。その肩に、スザンナが優しく触れる。
「私はあなたを許します」
今度こそ、ヴォルフの瞳から我慢できなかった涙がこぼれ落ちた。
「僕も、知らないからちゃんとできるかわからないよ」
「お父様を知らないの?」
「貴族の家は、みんなそうだよ。親の愛なんか知らずに育つ」
「そんなのダメよ!」
今度はスザンナが叫んだ。
「貴族だとか違うとか、そんなの関係ない。子どもは、たくさんの愛に包まれて育つべきだわ」
それは、スザンナの願いでもあった。自分がしてもらえなかったことを、この子にはしてあげたい。自分が本当にほしかったものを、この子には与えてあげたい。それが、今のスザンナの願いだ。
「……うん。そうしよう」
ヴォルフが頷いて、ぎゅっとスザンナの手を握りしめた。
「やり直そう。スザンナ、僕と夫婦になってくれる?」
スザンナは満面の笑みを浮かべて、頷いた。
それが、ヴォルフが見た最初のスザンナの笑顔だった。
遠回りをした二人は、この日からようやく始まった。
たくさんの時間をかけて二人の間に愛を育み、そして子どもたちにたくさんの愛情を注いだ。
そして、彼らのもとに7人目の子ども──可愛らしい女の子が生まれるのは、それから10年後のことだ──。
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