【書籍化決定】泣き虫令嬢の良縁〜婚約破棄されたので公爵家の乳母になった私は職業婦人として生きていくと決めたのに公爵様に溺愛されるので困っています〜
あるお針子の良縁〜子どもを産めないので社会の底辺と呼ばれるけど、皆さん私のドレスを着たいのでしょう?〜
番外編
番外編①
あるお針子の良縁〜子どもを産めないので社会の底辺と呼ばれるけど、皆さん私のドレスを着たいのでしょう?〜
「離婚だ」
夫に告げられた一言に、アルマは驚かなかった。
結婚して1年、妊娠の兆しがなかった。そしてつい先日受けた健康診断で、アルマは不妊であることが分かったからだ。
アルマも夫も初婚で二人の間に子どもはいない。夫は別の女性と結婚して子作りをしなければならない。対するアルマは、子どもを産む代わりに働いて社会に貢献しなければならない。それが、『婚姻統制法』によって定められた国民の義務だ。
「君の行くあてが決まるまでは、俺の結婚は待ってもらえるらしい」
「それは、大丈夫です」
淡々と告げる夫に、アルマも淡々と返した。
「住み込みで働ける先を見つけてあります」
「……そうか」
「荷造りをして、明日には出ていきますね」
「わかった」
「短い間でしたが、ありがとうございました」
「ああ、ありがとう」
夫は最後まで表情を崩さなかった。それが彼の優しさであることは、アルマにもちゃんと分かっていた。
この日が来ることは、ずっと前から分かっていたから。今さら感情的になったところで、何も変わりはしないのだ──。
* * *
「今日からお世話になります。よろしくお願いします」
アルマが勤めることになったのは、首都の表通りに店を構える刺繍工房。その屋根裏部屋が空いていたので、
「子どもは2人だ。しっかりやってくれ」
店主は、無愛想な男性だった。20名以上の従業員を抱える立派な工房のオーナーで、彼自身も刺繍職人として首都では有名な人だ。最近になって妻と離婚し、同じタイミングで働き口を探していたアルマとは紹介所の口利きで出会った。
「はい」
「俺は仕事で忙しい。子どもたちのことは任せる」
「承知しました」
アルマが頭を下げると、店主はふんと鼻を鳴らした。そして、
「不妊の女を家に入れなければならないとは。まったく不愉快だが仕方がない。給金のぶんはきちんと働くように」
と吐き捨てるように言ってから、アルマの返事を聞くことなく去って行った。
(覚悟していたことよ。泣くんじゃない、アルマ!)
アルマは自分に言い聞かせた。
この国では、不妊の女性がひどい扱いを受けるのは珍しいことではない。『子どもを産むことこそが女性にとっての最も素晴らしい仕事だ』と思っている人が多いのだ。故に、不妊の女性は社会の最底辺として扱われる。女性の労働者は貴重とはいえ、彼女たちとって労働は義務であり、簡単に仕事を辞めることができないという事情もそれを助長している。
(私は不妊なんだから、仕方がない……)
アルマは、何度も自分に言い聞かせながら子供部屋に向かった。
そこには、5歳の姉と3歳の弟のかわいらしい姉弟がいた。
「今日から乳母として勤めるアルマと申します。よろしくお願いします」
「イルゼです」
「僕はテオです!」
2人は無愛想な父親とは正反対の人好きをする笑顔でアルマを歓迎してくれたのだった。
(上手くやれるかもしれない)
そう思ったアルマだったが、その考えは甘かったと言わざるを得なかった。
アルマは子育てなどしたことがなく、毎日が戸惑いの連続。しかし、相談できる相手はいない。
テオの夜泣きに悩まされ、その度に『うるさい』と店主に怒鳴られ。昼間は昼間で、テオのわがままに振り回された。イルゼは姉らしく弟の世話を手伝ってはくれたが、彼女は食べ物の好き嫌いが激しくて全く食事に手を付けない日があった。それを見た店主にまた怒鳴られた。
家事全般もアルマの仕事であり、掃除が十分ではないと怒鳴られ、洗濯物が汚れていたと怒鳴られた。アルマは与えられた屋根裏部屋に帰る暇もなく、子供部屋と厨房と洗濯室とを駆けずり回った。
毎日のように怒鳴られ、アルマは徐々に疲弊していった。そうするとまた失敗し、怒鳴られる。また失敗し、怒鳴られる……。
そんな日々の繰り返しに、とうとうアルマは耐えられなくなった。
その晩、子どもたちが寝静まった頃、アルマは着の身着のまま子供部屋を抜け出した。
寝室で眠る店主に気付かれないように、音を立てずに階段を降りて4階から2階に降りた。すると、2階に降りたところで、工房に小さな灯がついていることに気がついた。
少し隙間の空いた扉が風で揺れてきぃきぃと音を立てている。アルマがその隙間からそっと中を覗き見ると、そこには、若い青年が一人。小さなランプの灯を頼りに、せっせと針を動かしていた。
青年の指先があまりに繊細で美しくて。アルマはしばらくの間、その姿にじっと見入ってしまった。
「……入ってきたら?」
急に声をかけられて、アルマは大げさなほどにビクリと肩を揺らした。
「そんなところにいたら風邪をひくよ?」
季節は冬の入口。確かに、アルマの身体はひやりと冷えはじめていた。
アルマはおずおずと室内に入り、その際に扉を閉めた。ところが、また隙間が空いてしまう。
「建て付けが悪いんだ。冬が来る前に直さないとね」
青年は針を動かす手を止めずに言った。アルマは、きぃきぃと音を立てる扉を気にしながらも、青年の隣まで移動した。すると、青年が手を止めてから膝の上にかけていたブランケットをアルマの方に差し出した。そして、ゆっくりと立ち上がって笑顔を向けてくれる。
「そこに座って待ってて」
言われるがまま、アルマは青年が指差した椅子に腰掛けた。少し迷ったが、ブランケットを膝にかけてみると、わずかに温かかった。
「はい。ホットミルク。温まるよ」
青年が差し出したマグカップを受け取った瞬間、アルマは我慢できなくなった。ポロポロと涙がこぼれ落ちて、ポタポタと音を立ててホットミルクに混ざっていく。
「僕はクルトっていうんだ。君は?」
「……アルマ」
震える声で答えたアルマに、クルトが微笑みかける。
「僕は新米なんだ。今日の分の仕事が終わらなくて、これは残業」
何とも答えられずにいるアルマに構うことなく、クルトは話し続けた。
「寝ちゃいそうだったから、ちょうどよかったよ。そこで僕が眠らないか、見張っていてね。これはね、貴婦人のドレスに使う薔薇の刺繍だよ。まずは赤色で薔薇を刺して、その周りに緑色で葉っぱを刺していくんだ。こんな風に……」
クルトは、アルマの涙の理由を聞かずに、ただ他愛もない話をしながら針を動かし続けた。彼が新米などではないことはすぐにわかった。それでも、クルトは仕事が終わらないと言って、アルマの涙が止まるまで──明け方まで、ずっとそうしていてくれたのだった。
その晩から、深夜に工房に通うのがアルマの日課になった。さすがに明け方まで仕事をすることはないが、短い時間でもクルトと話ができるのが嬉しかった。
そして、アルマがクルトから刺繍を習うようになったのは、ごく自然な流れだった。
「アルマ、君は才能があるよ」
クルトが何度でもそう言うので、アルマは嬉しくなって、どんどん刺繍に熱中していった。日中は朝から晩まで乳母の仕事に追われながらも、子どもたちが寝静まった後に夢中で練習した。熱中しすぎて寝不足になる日もあったが、それでもアルマは全く苦にならなかった。
刺繍を刺している時間だけは、彼女は自由だったのだ。
ある夜、アルマは一枚の習作をクルトに見せた。
「自分で図案を考えてみたの。どうかしら」
クルトは全体を眺めた後、ランプの灯を大きくして、もう一度まじまじとその習作を見つめた。端から端まで丁寧に。
「……アルマ。君、今の暮らしを変える勇気はある?」
「え?」
急に問われて、アルマは目を見開いた。クルトが、これまで見たこともないほど真剣な顔でアルマを見つめている。
「君は、こんなところで、こんな扱いを受けていい人じゃない」
クルトの言っている意味がわからず、アルマは首を傾げた。
「何度も言っているだろう? 君には才能がある。……君が覚悟するなら、刺繍職人を目指したほうがいい」
「でも……」
そんなことを、あの店主が許してくれるはずがない。
「うん。だから、覚悟がいる。君は仕事を失うかもしれないし、今よりも酷い扱いを受けることになるかもしれない。それでも、僕は一歩踏み出してほしいと思う。それだけの才能が、君にはあるよ」
クルトがアルマを見つめる。アルマは気まずくなって、思わず目を逸らしてしまった。
こうして今はアルマを見つめているクルトは、家に帰れば妻も子もいる。
アルマは彼に気持ちを打ち明けることはないし、クルトがアルマの気持ちに応えることもない。内心でどう思っていようと、絶対にありえないのだ。
アルマは、ぎゅっと唇を噛んだ。
子どもたちに振り回され、怒鳴られる毎日。好きな人に思いを告げることも許されない。そんな運命を恨めしく思った。クルトはアルマがそんなことを考えているとは知らずに、ただ彼女の将来のために話してくれているのに。そんな愚かな自分に気づいて、アルマはもっと惨めな気分になった。
「……返事は急がなくていいよ。よく、考えて」
「はい」
アルマは小さく返事をして、そのまま子供部屋に帰っていった。
* * *
クルトに返事ができないまま、春になった。あの晩からも、アルマは工房に通い続けている。彼が改めてアルマの仕事について触れることはなかったし、アルマはそれに甘え続けた。
(このまま、こうしていられたら……。私は、それでいい)
そう、思っていたのだ。
そんなある晩のことだった。いつも通り深夜に工房に行くと、そこにいたのはクルトだけではなかった。しかめ面の店主が、クルトと睨み合っていたのだ。
「アルマ!」
部屋に入った途端に怒鳴られて、アルマは足が竦んだ。そんなアルマの方に店主がつかつかと寄ってきて、手に持っていた籐のバスケットを奪い取った。中に入っていた習作の布が宙を舞う。
店主は無愛想な顔で黙ったまま、バスケットから布を取り出しては放り、取り出しては放りを繰り返した。
アルマは、震える手足を懸命に抑えながら、その様子を見つめることしかできない。
(……終わりだわ)
知られてしまったのだ。深夜に工房の勤め人と2人きりで会っていたことを知られた。しかも、こうして刺繍の練習をしていたことも。
「……クルト」
「はい」
「帰れ」
「でも」
「帰れと言っている!」
「……はい」
クルトはトボトボと扉の方へ歩き出した。彼は店主の命令に逆らうことはできない。そんなことをすれば仕事を失い、家族とともに路頭に迷うことになるからだ。
扉を締める瞬間、クルトとアルマの目が合った。クルトは気遣わしげにアルマを見つめたが、それは一瞬のことだった。ぎゅっと眉をしかめて、バタンと音を立てて扉を閉める。
(……建て付け、直したのね)
再び扉が開くことは、なかった。
「アルマ」
「……はい」
「座れ」
アルマはビクビクと震えながら、店主が顎で指した椅子に腰掛けた。そして、黙って頭を下げる。きっと怒鳴られるだろう。今日こそ殴られるかもしれない。それを覚悟したアルマだったが、そうはならなかった。
店主は、黙ったままで一枚の絹地をアルマの前に広げたのだ。
「この図案の通りに刺せ」
一瞬、言われた意味が分からなかったアルマだったが、店主にジロリと睨まれて慌てて針を手に取った。店主が指差した図案は、工房が製作している中でも最も複雑な図案だ。アルマはクルトに習った通り、一針ずつ丁寧に刺繍を刺していった。
「……もういい」
ややあって、店主が絹地を取り上げた。そして、また新しい絹地を広げる。
「なんでもいい。一番美しいと思う図案を刺せ」
今度は、戸惑わなかった。一枚目の刺繍を刺している間に、アルマはすっかり集中していた。
一針ずつ、丁寧に、淡々と刺していく。そうしている内に、アルマが頭の中で思い描いた図案が形になっていく。色とりどりの花が咲き誇る庭園を、一羽のカナリヤが飛んでいく。
(刺繍を刺している間だけ。……この布地の中でだけは、私は自由だ)
その喜びに、アルマの瞼が震えた。そして、ポタリと涙が落ちる。
(これで、最後なんだわ)
そう思ったから。それでも、アルマは針を動かし続けた。
「完成か」
手を止めたアルマに、店主が声をかけた。
その頃には、夜が明けていた。工房にはいつの間にか職人たちが出勤していて、その中にはクルトの姿もある。
店主が出来上がった絹地を見つめた。かつてクルトがそうしたように、端から端まで丁寧にながめていく。
「お前、刺繍は好きか?」
「はい」
店主が問いかけるので、アルマは即座にはっきりと頷いた。
「どんなに辛くても、続けられるか?」
「はい」
今度もはっきりと返事をしたアルマを、店主が見つめる。いつものように睨むのではなく、じっと探るように。
アルマはすっかりと憑き物が落ちたような顔でその瞳を見つめ返した。そして、はっきりと言った。
「私は、刺繍職人になりたいです」
店主は、深く深く息を吐いた。そして、もう一度アルマの作品を見る。
「……馬鹿野郎」
吐き捨てるように言ってから、恐る恐る2人の様子を見ていたクルトを睨みつけた。
「おい、クルト」
店主に呼ばれて、クルトが弾かれたように前に出る。
「お前、紹介所に行ってこい」
「え?」
「お前のせいで、うちは乳母をクビにするはめになったんだ。責任持って、新しい乳母を見つけてこい」
「は、はい」
震える声で返事をしたクルトの肩を、店主が叩く。
「アルマは屋根裏に行って荷物をまとめろ」
「……はい」
「お前は職人寮に戻って、空き部屋を掃除しておけ。お前はちょっと役所まで書類を持っていけ」
店主が別の職人に指示をするのを聞きながら、アルマは黙って工房を出ようとした。
(早く荷物をまとめて、出ていかなきゃ)
ところが、それを店主の怒鳴り声で引き止められる。
「朝は8時から、昼休憩は1時間、夜は6時までだ。いいな!」
言われた意味が分からず、アルマはおずおずと店主の顔を見上げた。
「あの、それは……」
「お前の席はそこだ。引っ越しが終わったら、すぐに仕事にかかれ」
店主が指差したのは、職人が刺繍を刺す作業台。今度こそ、アルマは弾かれたように顔を上げた。
「私を、雇っていただけるんですか? ……職人として」
「さっきから、そう言ってるだろうが!」
店主が怒鳴るので、またアルマの肩がビクリと震えた。だが、今度は恐くはない。
「給料は新人と同じだ。乳母より安いぞ」
「は、はい」
「分かったなら、さっさと荷物をまとめてこい!」
「はい!」
今度こそ、アルマは慌てて工房を出たのだった。
* * *
アルマが独立して自分の刺繍工房を持ったのは、その5年後。ドレスのデザインを学んで一着目のドレスを縫い上げたのは、さらに5年後のことだ。彼女のドレスは瞬く間に首都の貴婦人たちを夢中にさせた。そして、その8年後、『メゾン・アルマ』をオープンするに至る。
「不妊である自分を、何度恨んだか分かりません」
アルマは、自伝の中でそう語っている。
「離婚した時も乳母として勤めていた時も辛かったです。刺繍職人として働きはじめてからも、いつだって苦しかった。だって、街を歩けば同年代の女性が可愛らしい赤ちゃんを連れていて、街中に幸せな夫婦がいて、『自由恋愛』の権利を得て自ら幸せを掴んだ女性がいる。そのどれも、私には永遠に叶わないのだから。それに、心無い言葉も数え切れないほど浴びてきました」
デザイナーとしての地位を確立した今でも、彼女を中傷する人が後を絶たない。それでも、アルマは勇気を出して自伝を出版した。
「私は幸運でした。私の才能を見出してくれる人が、すぐそばにいたから。もしもあの朝、私の刺繍が認められなかったら……。私は今でも、小さな布地に小さな自由を求めるだけだったかもしれません。もちろん、乳母の仕事は素晴らしい仕事です。私には向かなかっただけ」
そして最後のページには、こう綴られている。
「私は夫と子どもには縁がありませんでした。それでも、私は幸せです。私に針と糸を与えてくださった神に、心から感謝します」
この自伝のポスターに載せられていた宣伝文句は、こうだ。
「私のことは好きに罵ればいい。それでも、あなたは私のドレスを着たいのでしょう?」
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この後も、数本の番外編を投稿する予定です。
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