第8話 見つめる瞳
一度溢れ出した涙は止まることを知らず。涙の雫はポロポロとこぼれ続けた。
「泣いたって、何も変わらないじゃないですか!」
半ば叫ぶように言って、ティアナは両手で顔を覆った。レースの手袋が涙で濡れる。
「私が子どもを産めないことも、ダニエル様に婚約破棄されたことも、働かなければならないことも、何もかも……!」
泣いたところで、何も変わりはしないのだ。
「だったら笑顔で、ただ前に進もうと、そう思って……!」
涙を懸命に堪えてきたのだ。
「それなのに!」
そんなティアナに『泣かないのか?』と尋ねた公爵。悪意があったわけではないと分かっている。それでも、ティアナの心を
ややあって、衣擦れの音と馬車の床がきしむ音が聞こえた。公爵が座席から下りて、ティアナの前に跪いたのだ。
公爵は迷うような素振りなど一切見せず、ティアナの顔を覆う手のひらに触れた。長い指がティアナの震える指を一本ずつ引き剥がし、とうとう彼の前に泣き顔が晒されてしまう。
「……」
公爵は無言のままでティアナの泣き顔をじっと見つめた。アイスブルーの瞳が自分の顔をまじまじと見つめる様は、子どもたちが何かを観察する時の顔に似ていて。ティアナは、すっかり涙が止まってしまったのだった。
「……おやめください」
ふいと顔を逸らすと、公爵はそれを追いかけてティアナの顔を覗き込んだ。また顔を逸してもそれを追いかける。何度かそれを繰り返してから、公爵は向かいの座席に座り直した。ティアナの両手を握ったままで。
「その方が良い」
「え?」
「君が嬉しくもないのに笑っている顔は見たくない」
公爵の言葉に、ティアナは榛色の瞳をパチクリと見開いた。
「あの女に何やら言われている間も、ニコニコと笑っていただろう。最悪の気分だった」
不機嫌そうに眉を寄せて、公爵がため息を吐く。
「無理に笑うな」
公爵が握ったままの手にギュッと力を込めた。手袋越しに伝わってくる温もりに、ティアナの涙腺が再び震える。ついに我慢できなくなった涙が公爵の手の甲にポタリと落ちた。
「それは、雇い主としてのご命令ですか?」
ティアナは悔しくなって、少しばかり唇を尖らせて尋ねた。顔を伏せているので判然とはしないが、公爵がフッと笑ったような気がした。
「そうだ」
「……承知しました」
屋敷に到着するまでの間、公爵はティアナの手を握ったままで。ティアナの荒んだ心はすっかり落ち着いてしまったのだった。
* * *
屋敷に戻ると、就寝直前だった双子が出迎えてくれた。
「おかえり!」
「早かったね!」
ところが、ティアナのドレスがワインで汚れ、泣き腫らした顔をしていることに気付いた双子はキッと眉を吊り上げた。そして、
「ティアナに何したんだよ!」
と、2人揃って公爵の足を蹴るものだからティアナは慌てて2人を抱き止めた。
「お二人とも、これは旦那様のせいではありませんよ」
「じゃあ誰にやられたんだよ!」
「それは……」
「誰にいじめられたんだよ!」
ティアナは尋ねられても困った表情を浮かべることしかできず、そうしているうちに、双子の瞳に涙の膜が膨らんできた。そして、
「なんで、ちゃんとティアナを守らなかったんだよ!」
と、再び公爵に怒鳴り散らしてから、わんわんと声を上げて泣き出してしまった。
「心配かけてごめんなさい。でも、私は大丈夫ですから。……旦那様のおかげで」
「本当に?」
「はい。旦那様が、えっと、……慰めてくださったので」
「お父様が?」
「そうですよ。とっても優しく、慰めてくださったんです」
「……ほんとに?」
双子たちが疑いの眼差しで公爵を見た。公爵は相変わらず無表情で、何も言わない。
「本当に。だから、大丈夫です」
「ん」
「わかった」
とりあえず納得した双子たちをシュミット伯爵夫人に預けて、ティアナはすぐに自室に戻った。着替えて双子たちの寝室に行くためだ。ところが、公爵がその後ろをついてきて、さらにはティアナの部屋にまで入ってきたので困ってしまった。
「……何か、まだご用事がありましたか?」
「いや」
「では……」
出ていって下さいと言外に伝えても公爵は意に介さず、勝手にティアナの部屋のソファに落ち着いてしまった。2人のメイドは何も言わずに、衝立を持ってきてくれた。着替えている間も公爵は無言のままで、気まずい雰囲気だけが漂う。
着替えを終えてネグリジェ姿になったティアナが衝立の向こうから出てくると、公爵はやはり無言のままで立ち上がった。子どもたちの寝室に向かうティアナの後ろを黙ってついてくる。
(いったい、どうしたのかしら)
彼の行動の意味がさっぱり分からず、ティアナは内心で首を傾げた。
寝室に到着すると、中からは伯爵夫人が絵本を読み聞かせる声と、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
(寂しい思いはさせずに済んだみたいね。お母様には感謝だわ)
と思いつつ、後ろを振り返った。そこには、やはり無表情の公爵がいて。
(この人が、お母様を呼んで下さったのよね)
理由はどうあれ、子どもたちとティアナのためにしてくれたことだ。無関心だと思っていたが、少しばかり歩み寄るつもりになってくれたということだろう。
「今夜は、ありがとうございました」
公爵が無言のまま頷いた。
「おやすみなさい」
「ああ」
公爵はティアナが寝室に入るまでを見届けてから、ようやく自分の部屋に戻っていったようだった。
* * *
「……おはようございます」
「おはよう」
翌朝、双子とともに食堂に行くと、そこには公爵がすでに着席していた。食堂といっても双子のための食堂で、この部屋で公爵が一緒に食事をしたことなどこれまで一度もなかったのに。
首を傾げるティアナと双子に、同じく戸惑いを見せるフットマンたち。公爵は新聞を読みながら、3人に視線だけを寄越した。
「座らないのか?」
「え、あ、いえ……。座りましょう」
ティアナが双子を促して席につくと、いつもどおりにフットマンたちが朝食を並べ始めた。ティアナが来てから、双子の朝食はサンドウィッチと決めた。手づかみで食べてもあちこち汚す心配がないので、朝くらいは作法を気にせずに食べてもらいたいという思いからだ。好きな具材と一緒なら野菜も食べてくれるので、栄養面でも助かっている。
「私も同じものを」
公爵が言うので、フットマンたちは驚きながらも公爵の前に子どもたちと同じようにパンと具材を並べた。
「僕、ハムにする」
「お野菜はどうしますか?」
「トマト」
「はい」
「僕はジャムにしようかな。これ、なんのジャム?」
「イチジクですね。ベーコンを一緒に挟むと美味しそうです」
「じゃあ、それ!」
「かしこまりました」
ティアナが双子の要望を聞きながらサンドウィッチに具材を挟む様子を、公爵はじっと見つめていた。
そして、
「私はウィンナーにしよう。マスタードも塗ってくれ」
と当たり前のように言うので、フットマンの一人がパンを手に取った。ところが、
「君じゃない。ティアナに言ったんだ」
食堂の中が、しんと静まり返った。まるで子どものような言いように、居合わせた全員が驚いている。
手を止めて目を見開くティアナを、公爵がじっと見つめた。
「なんだ?」
「あ、いえ……」
「ウィンナーだ」
「はい。あの、お野菜は?」
「……」
無言の公爵に、ティアナは何と言うべきか迷った。だが、彼が求めていることが従順な使用人としての態度ではないことだけは、なんとなく分かった。
「レタスも、一緒に召し上がってくださいね」
「……ああ」
レタスも一緒に挟んだサンドウィッチに豪快にかぶりついた公爵は、相変わらず無表情に見えた。それでもティアナはなんだか嬉しくなって、我慢できずにクスクスと笑った。双子たちは、そんなティアナを見てきょとんと目を見張っていた。
公爵だけは無表情のまま、アイスブルーの瞳でじっとティアナを見つめていたのだった。
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