第7話 伝播する悪意


 ティアナとカタリーナは、特別仲が良いわけではないが知らない仲ではなかった。夜会や舞踏会で会えば話をするし、互いに屋敷で開いた茶会に招待したこともある。

 だが、ティアナが婚約者であるダニエルを彼女に紹介した日から、彼女の様子がすっかり変わってしまったのだ。カタリーナはティアナを無視するようになり、陰口を言うようになった。

 友人たちは『カタリーナさんは、ティアナさんが羨ましいのよ。由緒正しい家柄に生まれて、素敵な婚約者もいて』と言っていた。『こういう時は、黙って距離をとるのが正解よ』とも。


(その裏で、彼女がダニエル様に言い寄っているだなんて思いもしなかったわ)



 * * *



「ねえ、せっかくですから教えてくださらない?」


 カタリーナがニコリと笑って、ティアナの方にすり寄ってきた。


「働くって、どんな感じですの?」


 ティアナはドクドクと脈打つ心臓を叱責しながら、『冷静になれ』と何度も心の中で繰り返した。


(逆上したり泣いたりするのは、逆効果よ)


「……どんな感じ、といいますと?」

「乳母ってつまり、公爵家の使用人ってことでしょう? 執事やメイドと同じ扱いなの? よく我慢できるわねぇ」


 息をするように職業差別、身分差別を口にしたカタリーナ。貴族の令嬢としてはあるまじき品の無さだ。しかし、彼女の取り巻きたちは咎めるわけでもなく、同じようにクスクスと笑っている。


「皆様よくして下さいますので、とても快適に過ごしていますわ」

「お部屋は屋根裏部屋なの?」

「公爵家には使用人寮がございますから、屋根裏でお暮らしの方は一人もいらっしゃいませんよ」


 ニコリと笑ったティアナに、カタリーナの眉がピクリと動いた。自分の嫌味が効いていないことに気付いたのだろう。


「あらでも、メイドもいないんじゃあ、不便でしょう?」

「公爵様にお気遣いいただいておりますので、何も不自由はございませんわ」


 これを聞いたカタリーナの唇が、意地悪く歪んだ。


「あら、公爵様があなたのためにメイドを雇っているということ? とっても大切にされているのね? ……あらあら」


 カタリーナが取り巻きたちを見回すと、その意地悪な表情が伝播でんぱしてく。


(……だから社交界は嫌いなのよ)


 内心でため息を吐いたティアナの気持ちなど知るよしもなく、カタリーナがずいっと身を乗り出した。


「乳母って、そういうお仕事もなさるのね」

「……そういうお仕事?」


 意味がわからずに問い返したティアナに、カタリーナは扇子で口元を覆った。


「まさか、そんなこと……。大きな声では言えませんわ。子どもが産めないのなら、逆に好都合ですわよね」


 その言葉の言外の意味を悟って、ティアナの頬にカッと熱が集まった。


(私が、公爵様の情婦だとでも言いたいの!?)


 それでも、ティアナは何も言い返さなかった。


(落ち着くのよ。……否定も肯定もダメ。何を言っても彼女に都合の良いように解釈されて捻じ曲げられて、攻撃のネタにされるだけよ)


 ティアナは息を整えてから、ただニコリと笑って小首を傾げた。あなたのその話題に乗るつもりはありませんよ、という無言のメッセージだ。


「……っ」


 カタリーナは手に持った扇子をパチンと閉じた。思ったようにことが運ばないので、苛立っているのだ。


「……喉が渇きましたね」


 そう言って、カタリーナは近くを通りがかった使用人から赤ワインのグラスを受け取った。


「さあ、どうぞ。ティアナさん」


 断る理由もないので、ティアナはそれを受け取るために手を伸ばした。ところが、そのグラスはティアナの手をすり抜けて彼女の足元に真っ逆さまに落下していった。


 ──ガシャンッ!


 グラスが割れ、ティアナのドレスには真っ赤なシミが広がる。


「あらあら、よそ見は良くないわ、ティアナさん」


 カタリーナが言うと、取り巻きたちがまたクスクスと笑い始めた。


「マナーがなっていないのね」

「伯爵家のご令嬢だったと思うけど?」

「こんな風だから、婚約破棄されたのよ、きっと」

「カタリーナさんの方が、ずっと完璧なレディだわ」


 これには、さすがに他の貴婦人たちが声を上げた。


「カタリーナさん、あんまりですわ」

「あなたがわざとこぼしたのでは?」


 だが、ティアナはそれを制して、やはりニコリと微笑んだ。


「申し訳ありません、カタリーナさん。ちょっと疲れているみたいですわ、私」

「あら、それはいけません。大丈夫ですか?」


 カタリーナは心配するような素振りで、そっとティアナの耳元に唇を寄せた。


「さっさと消えなさいよ、このアバズレ」


 純粋な悪意しかない言葉を向けられて、ティアナの鼻の奥がツンと痛んだ。それでも、彼女はなんとか涙を堪えた。


「そうですわね。私、これでお暇させて……」


 ──ざわ、ざわ。


 いただきます、と続くはずだったティアナの言葉は、大きなざわめきにかき消されてしまった。


「公爵様!」


 ユーベルヴェーク公爵が、険しい表情でツカツカとティアナの方に歩いてきたのだ。周囲の人々が慌てて道を譲り、礼をとる。カタリーナも例に漏れず、淑やかに挨拶をした。


「ごきげんよう、ユーベルヴェーク公爵様」


 ところが、公爵はカタリーナや他の貴婦人たちの挨拶など全く聞こえていないかのようだった。まっすぐにティアナの前まで来て、


 彼女の前に跪いてしまった。


 驚いて声も出ないティアナのドレスの裾をつまみ、ポケットから取りだしたハンカチで赤いシミを拭う。


「……落ちないな」

「あの、旦那様」

「……」


 公爵は無言のままで立ち上がり、そしてひょいとティアナを抱き上げた。


「きゃっ」


 ティアナは悲鳴を上げながら、慌てて公爵の服を掴んだ。


「じっとしていろ」

「いえ、でも……」

「顔を伏せて耳を塞いでいるんだ。何も聞く必要はない」


 そう言って、公爵は颯爽と歩き出した。


「公爵様!」


 それを呼び止めたカタリーナの声に、ピタリと足を止めた公爵。


「……」

「ご挨拶をさせてください。私はカタリーナ・ペル……」

「発言を許可した覚えはない」


 それだけ言って、公爵は再び歩き出した。

 社交界では、本来は身分が下の者から上の者に話しかけることは許されない。しかし、女性から男性に話しかける場合にのみ慣例として許容されてきた。ところが、そんなことは関係ないとばかりに、公衆の面前でマナーを指摘されたのだ。他でもない、最も貴い身分の人に。


 カタリーナは、真っ赤な顔でブルブルと肩を震わせたのだった。




「ユーベルヴェーク公爵様、お帰りですか?」


 玄関ホールに出た公爵を、女主人が慌てて追いかけてきた。


「これ以上、この場にいることは耐えられない」

「何か、粗相がございましたでしょうか……?」


 両手をもみながら上目遣いで尋ねた女主人を、公爵がギロリと睨みつけた。


「理由がわからないとでも言うのか?」


 カタリーナがこの場に来たのは、ティアナが出席するという噂を聞いたからに違いない。そして、そのカタリーナに請われて密かに招待状を送ったのが、この女主人だろう。彼女は2人の間に何があったのかを知りながら、同じ席に招待したのだ。何かあれば偶然だったと言い逃れするつもりだったのだろう。


「今後そちらの招待は一切受けない。以上だ」


 一息に言って、公爵はさっさと玄関から外に出た。既に公爵家の馬車が待機していて、公爵はティアナを抱き上げたまま乗り込む。ティアナは柔らかい座席に座らされて、来たときと同じように公爵が向かいに腰掛けた。


「……申し訳ありません」


 ガタガタと音を立てて動き出した馬車の中、ティアナは頭を下げた。


「なぜ謝る」

「せっかくあつらえてくださったドレスを、汚してしまいました」

「君のせいではない」

「それに、せっかく連れ出して下さったのに台無しにしてしまいました」

「それも、君のせいではない」

「後で謝罪のお手紙をお送りします。あちらの家からの招待を一切受けないだなんて、そんな言葉はすぐに撤回して下さいね」


 やはり無表情で言ったティアナに、公爵は苛立たしげに舌打ちした。


「馬鹿を言うな。君が謝る必要はないし、あの女にも、あの家にも二度と関わらない」

「それこそ、馬鹿なことはおっしゃらないでください。私のために、そこまでして頂く必要はございません」


 ティアナが僅かに語気を荒げて言い返すと、公爵は深い溜め息を吐いた。


「君は我が家の乳母だ。その人を不当に扱われた。当主である私が毅然きぜんとした態度をとることは、必要なことだ」


 ここまで言われてしまっては、ティアナも言い返すことはできなかった。小さく息を吐いてふいと視線を逸らすと、2人の間に沈黙が落ちる。


「……泣かないのか?」


 不意に問われて、ティアナは首を傾げた。


「え?」

「シュミット伯爵から、君は泣き虫だと聞いていた。だから心配だと」


 乳母として雇われるにあたり、ティアナの父であるシュミット伯爵と公爵が何度か面談したことは知っていた。しかし、まさかそんなことまで話しているとは思わず、ティアナは驚いた。


「あんなことがあったのに、君は泣かないのか?」


 もう一度、公爵が質問を繰り返した。

 ティアナの胸の中で、我慢していたものがワッと声を上げたような気がした。


「……どうして、そんな酷いことをおっしゃるんですか!」


 思わず口をついて出た言葉とともに、ティアナの榛色ヘーゼルの瞳からポロリと涙が落ちた。

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