第6話 完璧なエスコート


 夜道を駆ける馬車の中。

 向かい合って座る公爵とティアナは黙り込んだままだった。

 公爵は相変わらずの無表情だが、ティアナの方は無表情と言うよりも不機嫌だ。


「……怒っているのか」


 沈黙に耐えきれなくなったらしい公爵が、無表情のままで尋ねた。ティアナは無表情のまま、深い溜め息を吐いた。そして、


「いいえ。呆れています」


 正直に言った。

 それを受けて、公爵はふいと視線を逸してしまった。馬車の窓からは、街灯の明かりがチラチラと入り込んでくる。


「これも公爵家の体面のためだ。仕事だと思ってくれ」

「それは、理解しています」

「今夜はダニエル・ペルシュマンも、その妻も出席しない」


 ティアナの元婚約者とその妻が出席する場所には、さすがに連れて行く気はなかったのだろう。その点だけは、ほっと息を吐いたティアナだった。


「わざわざ確認していただき、ありがとうございます」

「では……」


 なぜ呆れているのかと、公爵は無言のまま問う。ティアナは、もう一度ため息を吐いた。


(この方は、言葉も表情も何もかもが足りない)


 そういう人なのだと、最近では慣れたものだ。


「私の母を呼び出してまで夜会に連れ出すとは、思いもしませんでしたから」


 公爵はやはり黙ったまま窓から外を眺めるだけだった。



 * * *



 ティアナの母であるシュミット伯爵夫人が公爵邸にやって来たのは、子どもたちの昼寝を終えてアフタヌーンティーを楽しんでいたときだった。


『あらあら。可愛らしい坊っちゃんね』


 伯爵夫人は、あっという間に双子と打ち解けてしまった。ティアナは、その様子に少しばかり唇を尖らせながらも、母親と子どもたちが戯れる姿を見て心を和ませていた。

 そこへ、公爵がやって来たのだ。


『それでは、明日の朝までよろしくおねがいします』

『はい。承知いたしました。お任せくださいな』


 頭を下げる公爵に、ニコリと微笑む伯爵夫人。そんな様子にわけが分からず首を傾げるティアナにも、伯爵夫人はニコリと微笑んだ。


『久しぶりの夜会だもの。楽しんでいらっしゃい』


 それからは、あれよあれよと言う間に着替えさせられ、髪を整えられてしまった。

 ドレスや装飾品は、この日のためにあつらえた新品らしい。メイドの一人が『公爵様からの贈り物』だと教えてくれた。薄桃色の紗を幾重にも重ねたスカートが印象的なドレスで、ところどころに飾られた真っ赤なバラのコサージュがアクセントになっている。同じく真っ赤なバラのコサージュとレースをふんだんに使った髪飾りに、ルビーの首飾りが美しい。


『坊ちゃまたちを置いて夜遊びなどできません!』


 と言い張ったが、これは伯爵夫人に叱られてしまった。曰く、


『夜会に出席するのも、貴族の令嬢の務めです。第一、このままでは公爵様の評判に傷が付きますよ』


 と。社交界では『ユーベルヴェーク公爵は、シュミット伯爵令嬢を馬車馬のごとく働かせている。だから社交界に出てこないのだ』と噂が立っているらしい。この噂を払拭する一番の方法は、ティアナ自身が社交界に顔を見せることだ。


『でも……』


 さらに言い募ろうとしたティアナだったが、それを遮ったのは意外な人物だった。


『ティアナ、きれいだね!』

『ね! きっと一番だよ!』


 見送りのために玄関に来ていた双子が、頬を染めてうっとりとティアナを見つめていたのだ。


『夜会がどんな風だったか、ちゃんと教えてね!』

『明日は夜会ごっこしようよ!』

『いいね』


 と、二人はすっかりティアナを送り出す気分になっていた。その隣で伯爵夫人が微笑んでいたので、彼女が上手く言い含めたのだと分かった。


『いってらっしゃい!』

『……いってまいります』


 ティアナは双子の笑顔に見送られて、馬車に乗り込んだのだった。



 * * *



 しばらく馬車に揺られて、到着したのはとある侯爵家の邸宅だった。先に馬車から下りた公爵が、さっと手を差し出す。


「ありがとうございます」


 ティアナは戸惑いながらも、そっと手を重ねた。馬車から降りると、その手は流れるような動作で公爵の腕に導かれた。このままエスコートされるのだと気付いて、ティアナの頬が赤くなる。

 その様子を見た公爵は首を傾げた。


「君は婚約者がいたのだろう?」


 男性にエスコートされるのは初めてではないのに、どうしてそんなうぶな反応をするのだと言いたいのだ。これには、ティアナは沈黙を貫いた。


(こんな風に完璧にエスコートされたのは初めてだなんて。ダニエル様の名誉のためにも言えないわ)


 十代の若者と経験豊富な公爵とを比べてしまったことを、ティアナは内心で謝罪した。


「……行こう」


 公爵はそれ以上何も言わず、ティアナをエスコートして会場へと進んだ。色とりどりの花で飾られたホールに入ると、二人はすぐに注目を集めた。


「ユーベルヴェーク公爵閣下、シュミット伯爵令嬢、ようこそおいでくださいました」


 夜会の女主人である侯爵夫人が笑顔で迎えてくれる。だが、その表情からは好奇心が見え隠れしていることに、ティアナはすぐに気がついた。ホールのあちこちからも、同じように好奇の視線が送られてくる。


「本日はお招きいただき感謝します」

「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」


 挨拶を済ませて、二人はさっそくホールの中央に進み出た。夜会では、最初の一曲は連れ立って出席するパートナーと踊るのが最低限のマナーだ。


(さっさと済ませようと思っていたのは、私だけではなかったみたいね)


 公爵は無表情のまま、それでも流れるような美しい所作でティアナの腰を抱き、音楽に乗ってステップを踏み出した。公爵のリードは淀みがなく、二人はこの会場で最も優雅に踊ってみせたのだった。


(スマートで美しい。でも、まるでそういう機械ね)


 ティアナは、そう思った。彼の動作からは、感情というものが一切伝わってこなかったからだ。


「では。また後で」


 踊り終わると、公爵は足早にどこかへ行ってしまった。知人に挨拶に行ったのだろう。ティアナも一つため息を吐いてから、顔見知りの貴婦人たちを探して会場を移動した。


「ティアナさん!」


 すぐにティアナを見つけて、旧知の令嬢──彼女は数ヶ月前に結婚したので、正確には男爵夫人──が声をかけてくれた。幼い頃から交流のある人だ。


「ごきげんよう」

「お久しぶりね」

「お元気そうね?」


 次々に声をかけられて、ティアナはニコニコ笑ったままで当たり障りなく答えた。そうすると貴婦人たちは好き勝手に話を続けてくれるので、あとは相槌を打つだけだ。


「今日はお会いできて嬉しいわ」

「ユーベルヴェーク公爵様、とっても素敵ね」

「本当に」

「素敵なダンスでしたわ」


 どうやら彼女たちは公爵に興味があるらしいと分かった。高貴な身分に有り余る財産、そしてあの美しい見目だ。それも当然かとティアナは心の中で頷いた。


(私には、そんなに魅力的な人には見えないけれど)


 彼の無表情で無感情なところなど、一緒に暮らしてみなければ大した問題にはならないのだろう。そんなことを考えていると、彼女たちの話題はとうに移り変わっていた。


「そういえば、今朝の新聞はご覧になりました?」

「ええ。また『婚姻統制法撤廃運動』の活動家が逮捕されたって」

「首都の真ん中でビラを配ったんですって」

「すごいのねえ」

「西部の方では運動が活発だって聞きましたけど……」

「最近は首都でも?」


 と、最近の新聞を賑わす事件について話し始めた。


(……ありがたいわ。このまま、やり過ごしましょう)


 周囲の貴婦人たちは、社交界でも穏やかな派閥の人たちだ。当たり障りのない話題で盛り上がり、このひと時を楽しむ。そういう付き合い方を心得ているので、このまま深く事情を探ってくることもないだろうと、ティアナは胸を撫で下ろしたのだった。彼女たちは複雑な事情を抱えるティアナのために、敢えて声をかけてくれたのだろう。


 ところが。


「あら。ずいぶんお久しぶりね、シュミット伯爵令嬢?」


 輪の外からティアナに声をかけてきたのは、ティアナにとっては最も会いたくない人物だった。


(今日は、出席されないと聞いていたのに)


 彼女の名はカタリーナ・ペルシュマン。ティアナの元婚約者であるダニエル・ペルシュマンの妻である。この夜会には彼女も夫であるダニエルも出席しないと、公爵はきちんと確認してくれていたのに。


「ごきげんよう、カタリーナさん」

「ごきげんよう。……私もお茶会の招待状をお送りしたのだけど、もしかして届いていませんでしたか?」


 このセリフで、周囲の空気が凍りついた。誰もが動きを止めて口を噤んだのだ。

 彼女は元は商人上がりの男爵家の令嬢であり、ペルシュマン伯爵家とは本来であれば家格が釣り合わない。それを、ティアナとダニエルの婚約破棄のどさくさに紛れて伯爵夫人の座を手に入れた。この醜聞を知らない人など、この場にはいない。


「欠席のお返事させていただいたと思いますが……」

「あら、そうでした? ごめんなさいね。あなたと違って、招待状やなんかのお手紙が多いから」


 カタリーナがニタリと笑うと、彼女と一緒に来た女性たちもクスクスと笑った。彼女の取り巻きだろう。


「今は公爵家の乳母なのですって? 大変でしょう、働くって?」


 その嫌味な言い方に、ティアナは背筋がすうっと凍るのが分かった。


(ああ、そうか。彼女は私を辱めるために、わざわざ来たのね)

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