第5話 当たり前のこと


 さらに1ヶ月。

 何か大きなきっかけがあったわけではなく、少しずつ時間をかけてティアナと子どもたちは距離を縮めていった。双子はすっかりティアナに懐いていた。

 ティアナはどんなワガママでも受け入れてくれた。褒めてくれた。ずっとそばにいてくれた。双子にとっては、ただそれだけのことだったのに。


「ティアナ、この花、きれいだね」

「そうですね」

「摘んでもいいかな?」

「僕、庭師オットーさんに聞いてくるよ」


 自然に、子どもたちは大人が嫌うことをしなくなっていった。


「今日の授業でティアナに手紙を書いたんだよ!」

「読んで!」

「あら、まあ。ありがとうございます」


 勉強も嫌がらなくなった。


「ねえねえ、これ見て!」

「モーリッツの顔!」

「描いてくださったのですか?」

「そうだよ!」

「上手だろ!」


 他の使用人にも、たくさんの笑顔を見せるようになった。

 双子の変化に屋敷中の使用人が驚きつつもほっと息を吐いた。そして、ティアナに感謝したのだった。


 最近では、少しずつ叱ることもするようになったが、子どもたちは反発することはなかった。むしろティアナの言うことをよく聞き、少しずつ貴族の子弟らしい態度を身につけ始めていた。



 これは、そんな折の出来事だ。



「失礼致します」


 子どもたちが寝静まった頃、寝室にモーリッツがやってきた。子どもたちに挟まれるようにして横になっていたティアナは、二人を起こさないようにそっと寝台を抜け出した。


「旦那様がお呼びです」

「こんな時間に?」

「お二人が眠られるのを、お待ちだったのですよ」


 ティアナは急いで自分の部屋に戻った。まさか、ネグリジェ姿で公爵に会うわけにはいかない。部屋では二人のメイドがティアナを待っていて、手早く着替えを手伝ってくれた。


(いらないって言ってるのに)


 この二人は、ティアナのために新たに雇われたメイドだ。この家には女性の家族がいなかったのでメイドは必要なかったのだが、ティアナには必要だろうと言って公爵が雇ったのだ。貴重な女性の労働者である。

 ティアナは自分のことは自分でできるので不要だと主張したが、未だに解雇されないところを見ると、この件について彼女の意見を聞く気はないらしいと分かる。


「ありがとう」

「他にご用件はございますか?」

「今日は大丈夫よ」

「では、旦那様とのご面会が終わるまでお待ちしております」

「それじゃあ、子どもたちの寝室にいてくれる?」

「それでは、ティアナ様のお着替えのお手伝いができなくなります」

「こちらでお待ちしております」


 二人はティアナの世話以外の仕事をしないようにと、言い含められているらしい。


「……それなら、もう休んでちょうだい」

「いいえ。お待ちしております」


 二人の断固とした態度に、ティアナはため息を吐いたのだった。



 ──コンコンコン。


 公爵の書斎のドアをノックすると、すぐにモーリッツが中に案内してくれた。彼が二人分の紅茶を淹れる間、公爵は無表情のままで仕事を続ける。仕方がないのでティアナは勝手にソファに腰掛けた。

 モーリッツが退室して、ようやく公爵は口を開く。


「……君は子育てについて、どこで学んだのだ?」


 ティアナは驚いて公爵の顔をまじまじと見た。興味がないと思っていたが、子どもたちの変化については、きちんと把握していたらしい。


(それにしても)


 驚きの次にティアナが感じたのは呆れだ。


「旦那様、まさかとは思いますが。……私が何か特別なことをしたとお思いですか?」


 問われた公爵はむっと黙り込んだ。『違うのか』と視線だけで問いかけてくる。


「私は、当たり前のことをしただけです」

「当たり前のこと?」

「ええ」


 公爵は続きを話せと言わんばかりの視線を寄越すが、ティアナは気づかないふりをした。彼女には、その『当たり前のこと』が何なのかを説明する気はない。未だに公爵に対して腹を立てているからだ。


「それで、ご用件は?」


 チラリと時計に視線をやったティアナが、つっけんどんに問うた。


(早く子どもたちの寝室に戻らないと。たまに夜中に目を覚ますことがあるから……)


 公爵は軽くため息を吐いてから、手元に持っていた手紙を広げた。


「君に関することで、私のところに苦情が来ている」

「苦情ですか?」


 全く心当たりがなく、ティアナは首を傾げた。


「君に何度も招待状を送っているのに、全く応じてもらえない。体調でも崩しているのか、という問い合わせがいくつも届いている」


 ここまで言われて、ようやくティアナにも話が見えてきた。


「君は乳母になったとはいえ伯爵家の令嬢であることには変わりない。これまでと同じように社交界に出る権利がある」


 貴族の令嬢が乳母になるのは稀だが、例がないわけではない。いずれの場合も、その令嬢たちは社交界に出ることを好んだ。一つの家で役目を終えたら次の乳母の口を探さなければならない、という事情もある。

 ティアナの元にも、夜会や晩餐会、お茶会の招待状が以前と変わらず届いていた。社交界中がティアナはユーベルヴェーク公爵家の乳母になったことを知っているので、この屋敷あてに届くのだ。ティアナは、その全てに欠席と返事をしていた。


「私には必要ありません」

「しかし……」

「ご用件はそれだけですか?」

「……」

「では、失礼いたします」


 公爵が何も言わなくなったので、ティアナは早々に席を立った。


 その時だった。


「うわーん!」

「ティアナ! ティアナぁ!」


 屋敷中に、子どもたちの叫び声が響いた。

 ティアナは普段の彼女からは想像もできないほどの荒々しさで扉を開け、一目散に駆け出していた。


「ジークハルト坊ちゃま! アルノルト坊ちゃま!」


 廊下の向こうから、寝間着姿の双子が駆けてきた。二人はティアナの姿が見えるやいなや、転びそうな勢いで走ってきて、その勢いのままティアナの胸の中に飛び込んだ。


「どこにも行かないで!」

「行かないでよぉ!」


 二人は行かないでくれと泣き叫びながら、ティアナに縋り付いた。ティアナは、そんな双子をぎゅうっと強く強く抱きしめた。


「どこにも行きませんよ。私は、ずっとおそばにおりますわ」

「でも、ひっく、いな、かったぁ!」

「申し訳ありません。少し、用事があって……」

「いなく、ならないでぇ!」

「いなくなりません。大丈夫です」

「ティアナぁ」

「はい」

「ティアナぁ……!」

「はい。ここにおりますよ」


 双子はひっくひっくと嗚咽を漏らしながら、少しずつ落ち着いていった。その頃には、慌てた様子のフットマン達も廊下に出てきていた。その一人が双子を抱こうと手を差し出したが、ティアナは彼らの手を借りずに二人を抱き上げた。


「ティアナ様!」

「大丈夫よ」


 子供とは言え、5歳の男の子だ。華奢な女性が二人を抱えあげるのは簡単なことではないはずだが、ティアナは平気な顔で歩き出した。


「さあ、お二人とも。眠りましょう」

「うん」

「一緒にいてくれる?」

「もちろんです」


 ティアナは二人をぎゅっと抱きしめたまま寝台に入った。双子は彼女の腕に縋り付いたまま、すぐ眠りについたのだった。


「眠ったか」


 二人が深く眠りについた頃、寝室に公爵がやってきた。ティアナは二人を起こさないように慌てて起き上がる。


「着替えてくるといい。君が戻るまで、私がここにいよう」


 意外な提案に、ティアナは目を見張った。まさか、公爵が子どもたちのために時間を割くとは思わなかったのだ。


「……子どもたちは、大丈夫なのか」


 退室しようと立ち上がったティアナに、公爵が無表情のままで言った。質問の意味が分からず、ティアナは首を傾げる。


「君が少しそばを離れたぐらいのことで、あれほど泣くとは」


 その言葉に、再びティアナの胸に怒りが湧き上がってきた。


「当たり前です」

「なに?」

「お二人は、たったの5歳です。そばには大人がいるのが当たり前なんです。……私は、むしろ安心しました。お二人が、行かないでくれと言って泣いてくださったから」

「しかし、これでは君に依存するばかりではないか」

「子どもが大人に依存するのは当然です」

「しかし、こんな調子では立派な大人になれない」

「……私は、大人になりました」


 ティアナは、渋い顔の公爵をじっと見つめた。


「私は特別なことはしていません。お父様とお母様が私にしてくださったとおりに接しているだけです」


 ティアナの両親は、乳母だけに子育てを任せなかった。貴族の中でも珍しい夫婦だ。ティアナが父母について覚えている最も古い記憶は、振り返った時に自分を見つめていた2人の優しい笑顔だ。どこに行っても、何をしていても、いつも笑顔でそばにいてくれた。だから、ティアナはどこにでも行くことができた。


「失礼します」


 ティアナは寝室を出る際、もう一度公爵の方を見た。大きな背中をしゅんと丸めて、子どもたちの寝顔を見つめているようだった。

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