第4話 ティアナの魔法
ティアナは特別なことは何もしなかった。ただ、二人に何も強制しなかっただけだ。家庭教師は休止、朝起きる時間も夜寝る時間も自由。やりたいことをして、行きたいところへ行く。
そして、ティアナはひたすらそれを見守った。朝目覚めてから夜眠るまで、片時も離れずに。
公爵からは何も言ってこなかった。
(好きにしろということね)
ティアナは、公爵の無言をそのように受け取ったのだった。
そして、子どもたちに変化が見え始めたのは、そんな生活を始めて10日程が経った頃だった。まず、彼らは朝寝坊をしなくなった。
「おはようございます、アルノルト坊ちゃま、ジークハルト坊ちゃま」
朝食に間に合う時間に目覚めた双子に、ティアナはニコリと笑いかけた。
「……」
「……」
双子は無言のままティアナの横を通り過ぎて寝室を出ていった。
暴れても罵っても怒りもしないティアナに対して、双子は作戦を変えてきた。ティアナを完全に無視することにしたのだ。話しかけても返事をしないし、挨拶もしない。それでもティアナは怒らなかったし、双子に声をかけるのをやめなかった。
二人が食卓につくと、その隣にティアナも座った。食卓は必ず三人で囲むようにしている。
「今日は何を召し上がられますか? ハムも卵もございますよ」
二人はティアナには何も答えず、
「ハムにして」
「卵」
つっけんどんにフットマンに命じた。フットマンはティアナの方をチラチラ見ながらも言われたとおりにする。
「なあジーク」
「ん?」
「今日はなにする?」
「そうだなぁ」
二人はサンドウィッチを頬張りながら、ティアナには聞こえないように話した。ティアナはその様子を見ながら、ニコニコと笑っている。
「……いこ、アル」
「うん」
二人は早々に朝食を終わらせて、さっさと子供部屋を出て行った。ティアナは黙ってそれを追いかける。
もうすでに何日も繰り返されているその様子に、初めは驚いていた使用人たちも慣れてきた。子どもたちの行く先をさり気なく把握し、ティアナが見失わないように手伝ってくれるのだ。
この日、双子は庭に出た。庭師が丹精を込めて育てたバラ園に入り、バラの花をひたすら手折っていく。その様子を見ていた庭師が悲しげに眉を下げたが、それでもティアナは双子を叱らなかった。
「アル、ティアナって変だよ」
「うん。おかしいよ」
二人はティアナが何を考えているのか分からず、戸惑いを見せ始めた。
次の日の朝。
いつもどおりテーブルに並んでいたのはサンドウィッチで。その具材として見慣れないものが置かれていた。
「これ、何?」
アルノルトが思わず質問して、すぐにしまったと口を塞いだ。うっかりティアナに話しかける格好になってしまったのだ。ジークハルトが責めるように彼の腕を肘でつつく。
「バラのジャムですよ」
ティアナはニコリと笑って、その器を二人に差し出した。バラの甘い香りが、二人の鼻をくすぐる。
「昨日はバラの花弁がたくさん手に入ったので、厨房でジャムにしてもらったんです」
その言葉に、二人の肩がギクリと揺れた。悪いことをしたという自覚が、ないわけではないのだ。
「私も子供の頃は、よく庭師を悲しませていました」
ティアナがジャムをすくって、たっぷりとパンに塗った。もう1枚のパンを重ねて、アルノルトに差し出す。彼の方も、おずおずとそれを受け取った。
「私の家でも、こうしてバラのジャムを作ったり、乾燥させてポプリにしたりしたんですよ」
懐かしそうに微笑むティアナに、双子はお尻がムズムズするのを感じた。これが『気まずい』と呼ばれる感情であることを、彼らはまだ知らない。ただ、彼女の話を聞くのが、嫌だと思った。
「いこ、ジーク」
「うん」
二人は、この日も早々に朝食を終えて子供部屋から出て行った。しかし、この日以降、彼らが庭を荒らすことはなくなった。
次の変化は、さらに10日後のことだった。
双子が図書室に現れたのだ。
「どうされました、坊ちゃま」
驚いた司書が問いかけると、アルノルトはもじもじとするだけで何も言えなくなってしまった。図書室では本を破いたことがあるので、嫌われていると思っているのだ。その様子を見たジークハルトが、腰に手を当てて胸を仰け反らせる。
「本を読みにきたんだ、当たり前だろう!」
その後ろでは、やはりティアナがニコニコと微笑んでいて、司書もすっかり毒気を抜かれてしまった。本当であれば彼らに本を渡すのは不安があるが、何故か以前と同じことにはならないだろうと思えた。
「どのような本をお探しですか?」
「草がのってるやつ!」
「草ですか?」
「名前の分からない草があったんだよ!」
ジークハルトの言葉に、司書は一つ頷いて書架に入っていった。その後ろを双子とティアナが続く。
「……では、こちらの本はいかがでしょうか?」
パラパラとめくられる本を双子が覗き込む。きれいに彩色された植物の絵が所狭しと並び、その隣には草花の名前と説明書きが付された植物図鑑だ。
「こちらは庭に生えているような、一般的な植物が載っている図鑑です。お探しのものが見つかると思いますよ」
図鑑を受け取ったアルノルトは、少しばかり考え込んでから司書の顔を見上げた。
この本は以前に双子の手によってビリビリに破かれてしまった。しかし、それを司書が1ページずつ丁寧に修復したものだ。破れたページには修復した跡がはっきりと見て取れる。
「……これ、外に持っていってもいい?」
「は、はい。もちろんです」
双子は丁寧な手付きで本を持って、庭の方へ駆けていった。
「……どんな魔法を使ったのですか?」
問いかけた司書に、ティアナはやはりニコリと微笑んだ。
「何も。ただ、こうして笑っているだけですわ」
次の変化は、さらに10日後にあった。
「ティアナ、これ読んで」
就寝前、ティアナに話しかけたのはジークハルトだった。丸みを帯びた頬が赤く染まっていて、唇は尖っている。視線をうろうろと彷徨わせながら本を差し出すジークハルトに、ティアナはいつもどおりに笑いかけた。
「はい。アルノルト坊ちゃまも一緒にいかがですか?」
ジークハルトの様子を見守っていたアルノルトが、弾かれたように駆け寄ってきた。家具のない子供部屋で、ティアナは床に座り込んで本を広げた。その隣にアルノルトが座り、反対の隣には黙ったままのジークハルトが座る。二人はもじもじと見つめ合ってから、嬉しそうに微笑んだ。
ティアナは、二人の無言のメッセージを確かに受け取っていた。
「……こうして、王子様とお姫様は結ばれ、幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
ティアナが物語を読み終わる頃には、二人はぴったりとティアナに寄り添うようにして寝息を立てていた。フットマンの手を借りて二人を寝台に運び、ティアナも一緒に横になる。
この日から、三人は必ず一緒に眠るようになった。
* * *
「家庭教師を増やしてほしい?」
さらに数日後、ティアナは公爵の書斎を訪ねた。
「はい」
「しかし、今は全ての授業を休んでいるのだろう? 新しい教師とはどういうことだ?」
ティアナが乳母になってから、双子は全く授業を受けていない。家庭教師たちには給金だけが支払われている状況で、公爵が眉をしかめるのは当たり前だった。
「その授業も、徐々に再開していきます。その前に、お二人には新しい先生が必要です」
「……どんな教師だ」
「生物学、中でも植物学や地質学に詳しい先生をお願いします。それと、気象学の先生も」
公爵は首を傾げた。そんな専門的な教師が5歳児に必要だと思えなかったのだ。
「お子様たちは、庭の植物に興味をお持ちです。アルノルト坊ちゃまは生えている植物の種類と、土の湿り気に関係があることにご自分で気づかれました」
苔を指差して言ったのだ。『ここだけ土が湿ってる』と。
「ジークハルト坊ちゃまは、天気の良い日と悪い日で花の咲き方が違うことに気づかれました」
『今日は花が下向いてる。天気が悪いから、気分じゃないのか?』と眉を下げていた。
「しかし、それよりも先に学ぶべきことがあるのではないか? 文字の読み書きは?」
「お子様たちの好奇心を伸ばすことが大切だと私は考えます。読み書きは、近い内にお二人の方から学びたいとおっしゃるでしょう」
ティアナは無表情のまま言い切った。子どもたちの前で見せる優しげな表情を、公爵の前では一切見せなかったのだ。
この時の様子を、同席していたモーリッツは後にこう語っている。
『部屋の温度が、5度ほど下がったように感じました』
と──。
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