第2話 乳母と母親


 ユーベルヴェーク公爵家の屋敷に到着して、ティアナを出迎えてくれたのは噂に違わぬ美しい人だった。


「ティアナ・シュミットでございます」


 膝を折って挨拶をしたティアナに、その人は笑いかけるでもなく一つ頷いただけで応えた。


 レオンハルト・ユーベルヴェーク公爵は、鋼のような銀の髪にアイスブルーの瞳を持つ美丈夫だ。歳は26歳、身長はティアナが見上げなければ目を合わせられないほど高く、均整のとれた体躯は惚れ惚れするほどだ。


「では、モーリッツ。後は任せた」

「はい」


 公爵はそれだけ言い置いて、さっさと奥の部屋に引っ込んでしまった。


「申し訳ございません。旦那様は……」

「お忙しいのでしょう?」


 謝る執事にティアナは気を悪くした様子を見せずに微笑んだ。


「お袖がインクで汚れておいででしたわ。お忙しい中、お出迎えくださったのですね」


 ニコリと笑ったティアナに、モーリッツは頷いた。


「ええ。そういうわけですので、お子様のことはティアナ様にほとんどお任せする形になろうと思います」

「乳母ですもの。そのつもりでまいりました」


 乳母とは、この国では『母代わり』を務める女性のことを指す。授乳期の赤子の世話から少年期の教育に至るまで、母代わりとしてその養育を担うのだ。


「それで、奥様はどちらに?」


 問いかけたティアナに、モーリッツは笑顔のままで首を横に振った。


「旦那様は、現在は独身です」

「では、お子様たちのお母様は?」


 モーリッツがティアナを促した。玄関での立ち話で済ませるような話ではない。二人は玄関のすぐ脇にある応接間に入って話をすることにした。フットマンが紅茶を運んできたので、ありがたく喉を潤す。


「奥様はお子様を出産された後、離婚して故郷に帰られました」


 ティアナは驚かなかった。それがだからだ。


「今は、西部で農園を経営されています。あちらでご結婚もされて、お子様もいらっしゃいます」

「まあ。幸せにお暮らしなのですね」

「ええ。毎年冬になるとお子様に会いにいらっしゃいます」

「では、ご挨拶はお手紙でよろしいかしら?」

「それがよろしいかと」


 モーリッツは中年を過ぎた歳の頃だろう。黒い髪には白髪が混じっている。そのふくよかな顔をほころばせて奥様について話す様子から、公爵と前妻が今も良い関係でいることが伺える。


 この国では、子作りの終わった夫婦が離婚するのは珍しいことではない。もともと子作りをするために強制的に結婚させられた二人なのだから、当然といえば当然だ。

 ただし、離婚するには条件がある。男性の側は好きな時に離婚を切り出すことができるが、離婚したらすぐに次の妻があてがわれる。男性は40歳を過ぎるか、二人の子を儲けるまでそれを繰り返す。

 逆に、女性の方からは離婚を申し入れることは許されない。しかも子どもを産まずに離婚となった場合は、女性もすぐに別の男に嫁がねばならない。女性は35歳になるまで、これを繰り返す。


「『自由恋愛』ですか。……憧れますね」


 ティアナは本心からそう思った。『自由恋愛』は、この国のすべての女性の憧れだ。


 女性は一人でも子どもを産んだ後であれば、夫に離婚を申し入れることが許される。そして、子どもを産んだ女性にだけ与えられる特権、それが『自由恋愛』だ。『自由恋愛』の権利を持つ女性が交際または結婚を申し込んだ相手の男性には、それに応える権利が与えられる。『婚姻統制法』の縛りから抜け出すことができるのだ。


 公爵の前妻は『自由恋愛』の権利を手に故郷に帰った。そして、本当に愛する人と結ばれたのだ。


「不思議なものですね」

「え?」


 モーリッツが紅茶を一口飲んでから微笑んだ。


「『婚姻統制法』に『自由恋愛』の条項が追加されてから、出生率が上昇している。……人間とは、不思議な生き物です」

「そうですね」


 『自由恋愛』の条項が追加されたのは70年ほど前で、それから出生率は上昇を続けている。女性が『婚姻統制法』によって強制されるのは一人目の出産まで。しかし、ほとんどの女性が自ら選んだ二人目の夫との間にも子を儲けるからだ。


「しかし、こうなると養育を任される父親側の負担は増えるばかりですな……。おっと、これは愚痴です。聞き流してください」


 ティアナは黙って頷いた。

 モーリッツの言う通り、子どもの養育について義務を負うのは父親だ。


(大昔は母親が主に育児をしていたらしいけど、とんでもない話だわ)


 それでは、一人目の子を産んだ女性はどうやって二人目を産むのだろうかと、ティアナは心底不思議に思ったものだ。出産は女性にしかできない仕事。ゆえに、子どもの養育は父親が責任を持つものだ。


「おっと。こんなにゆっくりしていてはいけませんな。坊ちゃまたちが、首を長くして待っておいでです」

「乳母が来るのは久しぶりなのですか?」

「ええ。前の方がお辞めになってから、2ヶ月ほどになります」

「それは、大変でしたね」

「ええ。この屋敷も、男手ばかりですから」


 女性には子供を産むという使命があるため、働く女性自体があまり多くない。


「ティアナ様が来て下さって、本当に我々は幸運です。教養のある若い女性の乳母を見つけるなど、砂漠で砂金を探すようなものですから」

「そんな」

「大げさではありません。本当に、当家にお越し下さってありがとうございます」


 彼の言う通り、大げさな話ではないだろう。貴族の子を養育するのだから、その乳母にも当然高い教養が求められる。ところが、貴族の令嬢が乳母になることはほとんどない。貴族は家同士が決めた相手との結婚が許されている、つまり子が産めなくても結婚できるのだから。


「では、子供部屋にまいりましょう」



 * * *



「こちらが、アルノルト坊ちゃま。そして、こちらがジークハルト坊ちゃまです」


 子供部屋でモーリッツに紹介されたのは、公爵によく似た二人の男の子だった。銀の髪にアイスブルーの瞳を持つ天使のような容姿の男の子だ。

 そして、その二人の顔も瓜二つ……というよりも、全く同じ顔だった。


「双子の坊ちゃまだったのですね」

「ええ」


 モーリッツはニコリと笑って頷いてから、そっとティアナの耳元に顔を寄せた。


「私どもも、見分けがつかないことがほとんどですが……。お二人は名前を呼び間違えられることを、とても嫌っておいでです」

「なるほど」


 ティアナは一つ頷いてから、二人の小さな男の子の前に膝をついた。


「ティアナ・シュミットと申します。今日からお二人の乳母を務めます。ティアナとお呼びください」

「うん」

「わかった」


 二人の男の子は素直に頷いてから、ニヤリと笑った。とても5歳とは思えない表情だったので、ティアナは思わずぎょっと目をいた。


「前の乳母は2週間で辞めたんだ」

「その前は3日だっけ?」


 思わず振り返ったティアナに、モーリッツが小さく頷いた。その額には、玉の汗が浮かんでいる。


「ティアナは、何日もつのかな?」

「賭けようか、アル」

「いいね、ジーク」


 悪魔のような言葉に、ティアナの背にも汗が伝った。それでも彼女は、ニコリと微笑んだ。


「私は、ここで乳母として覚悟でまいりました。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 『勤め上げる』という言葉の意味が伝わらなかったのだろう、双子はきょとんとした表情を浮かべるだけだった。そんな二人を前に、ティアナは改めて腹をくくった。


(私は職業婦人として生きていくのよ。こんなところで、挫けたりしないわ!)

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