【書籍化決定】泣き虫令嬢の良縁〜婚約破棄されたので公爵家の乳母になった私は職業婦人として生きていくと決めたのに公爵様に溺愛されるので困っています〜
鈴木 桜
本編
第1話 泣き虫令嬢の決意
「君との婚約は破棄させてもらう」
ティアナの頭が、真っ白になった。
ティアナ・シュミットとダニエル・ペルシュマンは、ティアナが8歳の時に婚約を交わした。それからというもの、ティアナはダニエルの花嫁になる日を夢見て生きてきた。ティアナはダニエルを愛していたし、愛されていると思っていた。
そんな彼女にとって、婚約破棄とは青天の
「理由は……言わなくても分かっているだろう?」
その問いかけに、ティアナの心臓がドクンと音を立てた。喉が奥の方からカラカラと乾いていく。
「わ、私が、子どもを産めないからですか……?」
ティアナが震える声で言うと、ダニエルは黙ったまま頷いた。そのまま視線をそらしてしまったので、ティアナの大好きな
彼女が
「そう、ですか」
ティアナの真っ青になった唇からは、かすれた空気のような声だけが漏れた。思わず俯くと、このティータイムのために時間をかけて巻いた栗色の髪が揺れる。
(ダニエル様なら、慰めてくれると思っていた)
本心から、そう思っていた。
(そんなことは気にしない、養子を迎えればそれで済む話だ、って言ってくださると……)
貴族の家では子どもが生まれない場合には親族から養子を迎えることは珍しくない。ティアナは自分の子どもを産めないことは残念だが、ティアナの方から正直に話すつもりで今日のティータイムに臨んだのだ。
「それじゃあ」
ダニエルは、いつもと同じように軽く挨拶をして帰っていった。ティアナにできることはその背が庭の向こうへ小さくなっていくのを、
たとえ自分が子どもを産むことができなくても、ダニエルと結婚するものだと信じて疑わなかったティアナ。そんな彼女にとって、今日は特別な日になるはずだった。薔薇が咲き誇る庭でティータイムを楽しんだ後は、仕立屋から届いたばかりの花嫁衣装を一緒に見て、それに合わせるアクセサリーを選んでもらおうと思っていたのだ。
それなのに。
しばらく呆然としたまま座り込んでいたティアナだったが、そっと肩を叩かれてようやく我に返った。両親であるシュミット伯爵夫妻が、今にも泣き出してしまいそうな表情でティアナを見つめていた。
その顔を見た途端、ティアナの心の中で張り詰めていた糸がパチンと音を立てて切れた。
「お、お父様! お母様!」
「ティアナ……!」
ティアナは父の胸に顔を埋めて、わんわんと声を上げて泣いたのだった。
* * *
「やはり、ダメか……」
手紙を読み終えたシュミット伯爵が、力を失くしてソファに深く座り込んだ。その向かいに座っていたティアナと伯爵夫人も、がっくりと肩を落とす。
ダニエルに婚約破棄を告げられてから数ヶ月。シュミット伯爵は新たな縁談をまとめるために社交界を駆けずり回った。しかし、良い返事が返ってくることは、一度もなかった。
「お父様、もう諦めましょう」
「しかし……!」
「結婚は、もう、いいです……」
ティアナが力なく言うので、隣に座っていた伯爵夫人がわっと声を上げてハンカチに顔を埋めた。
「しかし、ティアナ。結婚しないということが、どういうことか分かっているのか?」
「……はい」
ティアナは、しかと頷いた。自分の置かれた状況はよく分かっている。
この国、いやこの世界の人類は、今まさに滅亡の淵に立たされている。
魔物と瘴気によって大地は汚染され、人が住める土地は年々減り続けている。人々は猫の額ほどの土地を取り合って戦争ばかりに明け暮れ、また人が減るということを繰り返してきた。その無駄を悟って、現在では人同士の戦争は休戦している。しかし、だからといって状況は良くなりはしなかった。今も人類は少しずつその数を減らしながら、滅びの時に向かっているのだ。
そんな中で人類にできる抵抗はただ一つ。子どもを産み続けることだけ。
婚姻と子作りは
その婚約が破棄された今、新たな婚約を結べなければティアナも『婚姻統制法』に従わなければならない。
「ダニエル殿がティアナを捨てずにいてくれれば、少なくとも伯爵夫人として不自由ない暮らしができたのに……!」
シュミット伯爵が握った拳で膝を叩いた。
「仕方がありません。……子どもを産むことができないのですから」
私の言葉に、また伯爵夫人の肩が震える。
「子どもを産めない女性は働かなければなりません」
『婚姻統制法』で、そのように定められている。貴族の令嬢だろうと平民の娘だろうと関係ない。子どもが産めない女性は結婚を強制されることはない。代わりに課せられる義務が、労働だ。伯爵の言う通り、ダニエルと結婚さえできていれば貴族の夫人としての役割を担うことになるため、一般的な労働の義務からは免れることができた。
「いや、無理をする必要はない。ずっとここで暮せばいい。……そうだ。重い病にかかっていることにしよう。療養中であれば、両親の元で暮らしても構わんだろう」
伯爵が言った。だが、それにはティアナが首を横に振る。
「いけません。私が子を産めないために婚約破棄されたことを、すでに社交界の多くの人が知っています。お父様の外聞が悪くなるだけですわ」
伯爵が唸った。
「でも、おかしいじゃありませんか!」
声を上げたのは伯爵夫人だ。
「どうしてティアナの健康診断の結果が、社交界で噂になっているんですか?」
その点については、ティアナも気にはなっていた。非常にプライベートな事情のはずなのに、あっという間に噂が広がっていたのだ。
(それに、ダニエル様は私が話す前から健康診断の結果を知っていた……)
初めから婚約破棄を伝えるためだけに、あのティータイムに訪れたのだ。
「きっと、ダニエル様が噂を広めているんです! ティアナと婚約している頃から、あ、あ、あ、あの女と通じていたに違いありません!」
『あの女』とは、ダニエルの新しい婚約者である。すでに結婚式の日程も決まっているらしい。ティアナとの婚約を白紙に戻して、1ヶ月も経たない内に現れた新たな婚約者。すぐに広がったティアナの噂……。全てを総合すれば、裏の事情は明らかだ。
(だからみんなが面白がって、すぐに噂が広がったのね)
ティアナの健康診断の結果は、ダニエルと新しい婚約者にとっては渡りに船だったに違いない。婚約破棄の、またとない理由になったのだ。
「お母様、そのくらいになさってください」
「でも!」
「もう、いいのです。……愛されていると思っていたのは、私の勘違いだったのだから」
「ああ、ティアナ……!」
伯爵夫人が、また声を上げて泣いた。ティアナもつられて泣きそうになったが、ぐっとこらえた。
(いつまでも、泣き虫ではいられない)
この家を出て、働かなければならないのだから。
「では、どうする?」
おそるおそる尋ねた伯爵を、ティアナは真っ直ぐに見つめ返した。
そして。
「乳母の仕事を探します。……私は、職業婦人として生きていきます」
しっかりとした声音で、その決意を口にした。
──そして、さらに数カ月後。
ティアナは、国内有数の大貴族であるユーベルヴェーク公爵家に、乳母として雇われることが決まったのだった。
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