第3話 蜂蜜と出会いの過去話




「ウィリアム様もお急ぎください。それから、女性と接するときの距離はよくよくご配慮なさいまし」


 言い残して去っていくダリアの背中を見送って、ウィリアムは大きく溜め息を吐いた。何故ダリアがこうもナスターシャに排他的なのか、自覚がないわけではない。婚約者のウィリアムの気持ちがナスターシャへと傾いていることに、聡いダリアは気付いているのだ。

 だが取引の延長のような形で決められただけの王妃と未来など、まだ年若いウィリアムにとっては受け入れがたくもあった。どんな重責が背に乗ろうとも、一人の人間として感情を捨てきることはできない。要するに、ウィリアムは取り決められた相手ではなく自分が愛する人と共にありたいのだ。


「…もう少し、だったのに」


 あと数秒で握られるはずだった自身の手を、惜しむようにぎゅうと握り込む。ウィリアムの苛立ちは正しくダリアへと向かった。間違えるな、履き違えるな。わかっている、雄弁なニルギリの瞳は、いつだって正しい。正しいことがこんなにも胸をざわつかせる。

 素朴で明るいナスターシャ。ウィリアムが幼い頃から見てきたのは、宝飾品を囲いこむきらびやかな女性達ばかり。欲と愛想を浮かべた笑顔に幾度となく諦観の溜め息を吐いた。ウィリアムの目ではなく、肩書きばかりを見る有象無象に。

 ダリアは優秀だ。公爵令嬢としても未来の正妃としても何一つ欠点はない。それでも、心だけは、こればかりはどうしたって否定できないのだ。


 ナスターシャの名前が胸に深く刻まれた日を、ウィリアムはよく覚えている。





*****


 それはほんの数ヵ月前の、麗らかな昼下がり。授業中、女生徒の頭に風で流された蜘蛛が着地し、大きな悲鳴が教室の端まで届いたときだった。

 崩れ落ちた女生徒に近付き、あっさりとナスターシャは蜘蛛を手のひらに納めて笑っていたのだ。大丈夫ですか、と蜘蛛を小さな手の中にふわりと包み込みながら泣きわめいていた生徒へ問いかける姿に、ウィリアムはどうしようもなく惹かれた。

 優しい所作、まるで子供をあやすときの母親のような笑み。虫ごときと言わず、命を尊ぶその姿勢に。


『…ナスターシャ、さん、あの』

『え?あっウィリアム殿下!ごきげんよう、です』


 気付けば考えるより先にナスターシャに声をかけていた。振り返り、ぎこちなく呼びかけたウィリアムを気にすることなく頭を下げるナスターシャに少しだけ不満が生まれる。他人行儀な態度が気に入らない、などと身勝手にも思ってしまったのだ、初めて会話するナスターシャに。無意識な独占欲が揺れるまま、ウィリアムは口を開く。


『殿下なんてよそよそしい呼び名はよしてほしいな。顔を上げて、どうかウィリアムと』

『そんな、滅相もないですウィリアムでん…』

『ウィリアム』

『…ウィリアム様』

『ふふ、まぁいいか。それで、その蜘蛛はどうするの?』

『植物園に放ちます。巣作りによさそうな木がありましたから』


 手のひらの檻を崩すことなくナスターシャは裏庭へと向かう。学園の裏に位置する植物園は簡素ながら植物の種類は豊富だ。ウィリアムは狭い歩幅に合わせるように隣に並んだ。

 背の高いウィリアムと並ぶと余計にナスターシャの小柄さが目立つため、自然と笑みがこぼれる。


『君、虫は平気なのかい?』

『実家が農家なもので』

『なるほど』

『ウィリアム様は虫がお嫌いですか?』

『得意ではないかな…』

『でも、王宮にも虫は出るでしょう?』

『う、ん…そうだけど』

『共存は大事ですよ、虫との』


 小さな身体に似合わず逞しいのだな、と耐えず目尻が下がってしまう。ナスターシャの知識は偏りがあるものの視野広く、ウィリアム自身が経験したことのないものばかりだった。

 ナスターシャの媚びの見えない態度も新鮮で好ましく、植物園に辿り着く数分の間に離される蜘蛛を羨むほどウィリアムはナスターシャへ好意を抱いていた。

 割れ物を扱うように大きな葉の上に下ろされる蜘蛛は、くるりと半回転して影へと潜っていく。


『私この植物園大好きです。裏庭も緑が多くて。こんなに緑に囲まれることなんてなかったから』

『ナスターシャの故郷はどんなところなんだい?』

『ここからうんと北に行ったアセンデル地方ですウィリアム様。年中冬みたいに寒くて、時々しか太陽が見えない』

『…アセンデル…?もしかして、あの雪の女王の』


 故郷の名前にウィリアムは目を見開く。その小さな土地の名前は聞いたことがあった。名産物は多く、流通も悪くはないが天候のせいで人が住みやすいとは決して言えない地方だと記憶している。


『ウィリアム様もご存じなんですね。ええそうです、雪の女王の加護で守られた街のひとつが私の故郷です』


 スノウ・クイーンに愛された土地。

 アセンデル地方に伝わる昔話だ。雪の女王がとある人間の青年と恋に落ち、波乱を乗り越え見事恋人になるものの、寿命の違いで青年は女王より早くに亡くなってしまう。雪の女王はひどく嘆き悲しみ周辺一帯は吹雪に包まれ、人を寄せ付けることのない大地を造り上げた。しかしある日雪の中で一輪、赤い花が女王に寄り添うように咲いていたのだ。赤い花を青年の魂だと信じた女王は、その花を生涯枯らすまいとその土地に加護を与え、花を護らせるために人間に街を造らせた。


『雪の女王に愛されたから夏が来ない土地とも言われています。山の頂上に赤い花があって、その花を護るようにいくつもの町が山を囲んでいます。管理する花守りは、街の中でも誉れある役割とされているんですよ。雪の女王の加護のおかげで災害にも強いし、農作物も豊富に取れるんですけどね』

『寒い地域でしか取れない珍しい物の流通は全てアセンデル地方からだと聞いているよ。すごいところから来たんだね、ナスターシャは』

『そんなことないですよ。ただ、寒いからこそ虫や動物も進化してしまってですね…。私の拳より大きな蜘蛛が出たときはさすがに無理かもと思いました』


 眉を下げるナスターシャにウィリアムはとうとう大きな声をあげて笑った。人前で口を開けて笑うなど、初めてかもしれない。


『あははは!それは驚くなぁ!寒いところって虫が出ないと思ってた。じゃあここにいる蜘蛛なんて可愛いものだね』

『アセンデルの環境に適したら温度なんて関係ないんですよ、もうあれはモンスターになる一歩手前です』


 昼休みの全て、一人の少女に費やした。時間が足りないとさえ思った。故郷の話、街の話、好きな食べ物、ウィリアムの悩み。

 まだ友達の範囲の中でウィリアムはナスターシャを繋ぎ止める。


『最初は聖女候補なんてわけがわからないままの入学でしたけど…私、ここに来られてよかったです』


 ぽつりとこぼされたナスターシャの不安。たくさんの聖女候補の中で、ナスターシャも足掻いているのだ。自分と同じ決められた道の上で。ウィリアムはナスターシャと共感し合える立場にいるのだと、内心喜びに震える。

 楽しいと心から感じたのはいつぶりだっただろう。ウィリアムの心は日差しを浴びたときと同じ暖かさに満たされた。ナスターシャの話は自分が生涯経験することはないだろうものばかり。妬むことさえ忘れて、ナスターシャの横顔を見る。


『…ナスターシャ』

『はい、なんですか』

『よければまた、君と話がしたい』


君を知りたい。

君に近付きたい。

僕らはきっとわかり合える。


欲が出たのもきっと、初めてだった。

風に流される髪の奥で、ナスターシャの蜂蜜色の瞳が細められる。




『ええ、私でよければ是非』




*****



 過去は始まり。ウィリアムの人生を変えた出会いは、少しだけ距離を変えた。しかし同時に、遥か昔から隣を決められた存在が、生まれた想いを否定する。それは捨てるべきだと。

 ダリアの冷たい、温度の低い視線は言葉なくともウィリアムを責めている。ナスターシャには言葉で、ウィリアムには視線で正しさを押し付ける。

 ナスターシャを傷つけるダリアと、何度も対立した。初恋に浮わつくウィリアムを現実に戻すのはいつもダリアだ。どんなに煩わしく思おうとも周りが変わることはない。


 ダリアは美しい。ウィリアムにとってはただそれだけだ。ナスターシャへに向く恋慕は日に日に膨らみ、帰りどころを失った。もはやウィリアムにとってダリアは恋路を邪魔する障害物でしかない。

 この想いの丈を伝えるには、やらなければいけないことがある。ウィリアムは再度覚悟を飲み込み、来るべき日を思い起こす。

 書き物で痛んだウィリアムの指先が、制服のポケットにしまわれていたブローチケースを取り出しぱこんと間抜けな音を立てて開く。そこにはハニーキャラメルローズを模したブローチが、クッション材の上に行儀よく納まっていた。あの日ナスターシャの手の中から下ろされた蜘蛛のように慎重に手に取ると、その輝きはいっそうウィリアムの目を曇らせる。ナスターシャと同じ瞳の色。そっと口付ければ、ひやりと熱のない石の感触が熱を冷ます。




「ナスターシャ…待っていてくれ。僕は、必ず君に」


  

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