第二章

第11話 恋?

 教室から出ると、冷たく乾いた空気が三月の肌を刺した。秋も徐々に深まり、冬の足音も近づいているようだ。

 三月は慌てて、手に持っていたカーディガンに袖を通す。

 両手で肩をさすり温めながら廊下を歩くと、そこには今し方講義を終えた友人たちが集まっていた。


「あ、三月。唐揚げの食券買わない? 当日買うより安いよ」

 明美が小さな紙を摘んでひらひらさせている。

 どうやらこの集団は、一週間後に迫った学園祭の食券を売りつけ合うもののようだ。どこか熱気を感じるのは、皆必死で食券を押し付け合っているからかもしれない。

 三月自身も、所属する文芸部の食券を持っていたことを思い出す。


「なるほどね。買っても良いけど、代わりにうちの文芸部がつくるクッキーなんていかがですか?」

「やっぱり三月もそう来たか……分かった。どこもノルマ厳しいみたいね」

 交換成立だ。

 三月は財布を取り出し、そこに入れていた文芸部の食券を明美に差し出す。彼女はそれを掴んだ瞬間、思い出したように声を発した。


「そういえば三月、あの人にはもう食券は渡したの?」

 あの人。思い当たる人物がおらず、三月は軽く首を傾げた。明美はなんだか、意地悪っぽく笑っている。

「ほらあの人。時々話しかけてるじゃない。優しい感じの、あの先輩」

 ああ、神崎優太かんざきゆうた先輩のことか。思い至ると同時に、三月の頬へ熱が集まる。



 一緒に出かける機会はなかったが、優太との交流は細々と続いていた。講義の合間に好きな音楽の話をしたり、最近食べた美味しい物の話題を共有したり。お互い自炊をするからか、安いスーパーの話題で盛り上がったこともある。


 三月の姿を見かけると、彼はいつも柔らかく笑って隣を空けてくれる。迷惑に思われているのでは、という誤解も解け、気がつけばかなりの時間を共有するようになっていた。


 くすぐったい感情がこみ上げて来るが、彼との関係はそれだけである。連絡先は交換したものの、彼はあまり自分から連絡を取る質ではないようだ。

 たまに送信しても返信が遅く、後から携帯電話自体を家に忘れていたのだと謝罪のメールがくることも多い。

 避けられているというわけではなく、本当に携帯電話の重要性をあまり感じていないのだろう。


 三月の方も、用事のない時にメールを送るのは躊躇われ、あまり活用できていない。優太とは、友人と言っていいのかも分からない微妙な距離感を保っている。

 あくまでも自分たちは先輩と後輩なのだろう。


「まだ、渡してない。そもそも、先輩が学園祭どうするのかも聞いてない……」

「そうなの? 仲良さそうにしてたから、てっきり学園祭も一緒に回るのかと思ってた」

 一緒に回る、か。友人と回るつもりだったが、優太と回るのも楽しいかもしれない。

 そんなことを考え、三月はまた一人で動揺する。


「人のことよりも、明美はどうなのよ⁉︎ 同じバイト先の、あのイケメン!」

 別の友人が、後ろから明美の顔を覗き込むようにして問いかける。それを合図に、周囲の女子が明美を取り囲んでいく。女の子は恋バナが大好きだ。


 あのイケメン、とは、明美が時々話をしてくれるあの男性のことだろう。

 背が高くていかにもスポーツマンといった体格の、爽やかな青年だった。

 隠すようにしていたけれど、きっと、彼が明美の想い人なのだろう。


「え、ええ⁉︎ 彼って、別にあの人とはまだ何も」

「『まだ』何もないんだ! じゃあ、もしかしてこれから……?」

「サークルも同じなんでしょ? この機会に、距離を縮めるのもいいんじゃないの?」

 恥ずかしそうにしながらも顔を綻ばせる明美に、彼女が素敵な恋をしているのだと分かる。三月にはそれが羨ましく思った。


 これ以上考えると深みにはまってしまいそうで、三月は気持ちを切り替えるため、手元の腕時計に視線を落とす。


「……あ。えっと、次の講義始まっちゃうから、明美、そろそろ行こう!」

 一緒に回るということは置いておいて、食券はまだ残っているし優太の予定を聞いてみよう。

 三月はそう考え、密かに表情を綻ばせた。





 買い物袋の中身をのぞき込み、三月は買うはずだった豚肉やキャベツがきちんと入っていることを確認する。

 夕飯の買い物も終わり、後はバスに乗って家に帰るだけだった。


 空は紅く染まり、次第に辺りは薄暗くなってきている。早く帰宅しなければ、あっという間に日が暮れてしまうだろう。

 こんなことなら駅前じゃなくて、スーパーの近くに部屋を借りれば良かった。


 三月が少し後悔しながらバス停へ向かうと、誰かがベンチに腰かけているのが見えた。

 どこか見覚えがある姿を、ついまじまじと見つめて、三月は思わず声を出す。


 バズ停のベンチにいたのは神崎優太だった。文化祭の予定を尋ねるメールに返信がこないなと思っていたら、こんな所にいたのか。

 彼もバスを待っているのだろうか、と近づいて見れば、その両目は閉じられていて穏やかな息づかいが聞こえてくる。

 眠っているのだ。


 見慣れた光景に、心配よりも正直、またかという気持ちの方が強い。


「あの、先輩。神崎先輩」

 ひとまず、三月は極力小声で、優太に呼びかけてみた。聞こえてくるのは穏やかな寝息ばかり。熟睡しているようだ。


 仕方がなく肩を軽く叩きながら、もう一度呼びかけると、ようやく優太が重い瞼を持ち上げた。

「……あれ? 中山さん」


「おはようございます先輩。こんなところで寝ちゃったら風邪引いちゃいますよ。それに、バスだって来ちゃうし」

 三月は失礼にならないように気を遣いながら、彼の全身を眺めた。芥子色からしいろの薄手のシャツに黒のスラックス。やけに薄着だ。

 男性とはみんなそうなのか、それとも優太が無頓着すぎるだけなのか。


「おはよう。起こしてくれたんだね、ありがとう。そうか、またやっちゃったか」

 そう呟いて、優太は大きな欠伸をした。寝癖で跳ねた前髪を軽く撫でている。


「また、夜更かしですか?」

「まあ、そんなとこかな。いつもごめんね」

 顔全体を緩ませて微笑まれると、三月はもう何も言えなくなってしまう。

 微笑み返して、三月は優太の隣へ腰かけた。

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