第10話 久しぶりの実家
黒々とした門の取っ手を持ち上げ、鍵を開ける。きしむような音を立てて門が開くと、長年親しんだ焦げ茶色の扉が出迎えてくれた。庭に生える柿の木も青々とした葉を伸ばしている。以前はよくここで、ミーコと遊んだものだった。
三月が家の敷地へ足を踏み入れると、待ち構えていたように玄関ドアの鍵が外れる音がした。
「おかえり三月。よく帰ってきたわね」
扉を開け、顔を出したのは三月の母親だ。
「ただいま、お母さん」
目じりに少し皺のできた柔らかな笑みを見ていると、懐かしさにも似た感情が、じんわりと三月の心を満たしていく。
一人暮らしも良いが、誰かが出迎えてくれる温かさは、胸にくるものがあった。
「父さんはまだ帰ってないんだけどね。
「コロッケって作るの手間がかかるもんね。わざわざ作ってくれてありがとう」
玄関に入りながらそういうと、母は目を丸くして口元に手を当てた。
「あらあら、そんなことを言うなんて。一人暮らしさせたかいがあるわね」
「一体、どこに『かい』を見出してるの、お母さん」
靴を脱いで家に上がり、母の後を追って左手にあるリビングへと入る。
四人がけのダイニングテーブルの上には、四人分の食器といくつかできあがった食事が置かれていた。レタスときゅうり、トマトが乗ったサラダに、大根とわかめの味噌汁。空の大皿にはこれからコロッケが乗っていくのだろう。和食なのか洋食なのか分からないちぐはぐな献立も、どこからしさを思わせる。
対面式のキッチンでは忙しなく動く母の姿が見え、そこから揚げたてのコロッケの良い匂いが漂ってきていた。
「何か手伝おうか?」
「良いわよ、今日くらいはゆっくりしてて。あと、手を洗ってきてね」
「そうだった。行ってくるね」
洗面所に行こうと振り返ると、写真立てと小さな花瓶に生けられた花が目に入る。壁際の棚の上に置かれた写真立ての中には、ミーコの写真が入れられていた。以前と変わらない
三月は表情を和らげると、写真の中の愛猫に声をかけた。
「ただいま、ミーコ」
「――良かった」
母の声に三月は振り返って首をかしげる。瞳を少し潤ませて、母が感慨深そうにため息を吐いた。
「三月、随分と落ち込んでいたでしょう? その写真を見たら、また気持ちが沈んでしまうんじゃないかって。直前までその写真、片づけるか迷ってたのよ」
そう言えば、ミーコが亡くなってすぐに一人暮らしを始めたのだった。
実は、あの夢のおかげですぐに立ち直ることができたのだが、母はそんなことを知る由もない。定期的にとっていた連絡でも、ミーコの話題が出てくることはなかったが、あれは母が気を遣ってくれていたのだ。
「心配してくれてありがとう。うん、もう大丈夫だから」
そう笑って見せると、母は三月の表情をじっと見つめ、力を抜くように微笑んだ。
「何か、良いことがあったのかしら? またこの後ゆっくり聞かせてね」
「ええ!?」
思わず声が裏返り、三月は大声をあげてしまう。
すると母はクスクスと笑い声を上げる。何もかもお見通しだと言わんばかりの母に、三月は顔を赤くして両手を顔の前で振った。
「ち、違うの! 先輩とは別にそんなんじゃ」
三月の言葉を遮って、バタバタと階段をかけ下りる音がして、勢いよく坊主頭の弟が顔を出した。
「おお! ねぇちゃんお帰り! 久しぶり! 良いなぁ、一人暮らしって自由で。あー、コロッケできてる⁉︎ うまそー!」
「光雪、騒がしいわよ! 階段や廊下はちゃんと歩きなさい!」
相変わらず賑やかな弟である。だが正直、助かった。あのままだと、意外と乙女な母が暴走して、先輩のことを根掘り葉掘り聞き出されるところだった。
コロッケをつまみ食いしようとする弟を横目に、三月はこっそり安堵のため息を吐いた。
相変わらず、母の料理は美味しかった。うっかり食べすぎてしまったかもしれない。
三月は軽く胃の辺りをさする。
あの後、父も仕事から帰り、数ヶ月ぶりに家族揃っての夕飯となった。元気そうな三月の姿に父も喜んでくれたようで、今日は一段とビールが進んでいたようだ。
三月がお酒に付き合ってくれるのは、一年後だなぁなんてことを言いながら。
ここまで賑やかな食卓は久しぶりで、彼女は足取り軽く、二階の自室へと向かう。
扉を開き、壁のスイッチを押すと、電灯に照らされた自室は数ヶ月から時を止めたようだった。ベッドも勉強机も、その隣にある本棚やCDラックもそのままだ。掃除だけはしてくれていたらしく、机の上には埃一つない。
そう言えば、下宿先に持っていかなかったCDがたくさんある。いくつか持っていけば、先輩との話のネタになるかもしれない。
そんなことを考えながら、三月はベッドに飛び乗った。布団も干してくれたのか、温かい匂いがする。このまま眠ってしまいそうだ。
そこで三月は、ずっと携帯電話を確認していなかったことを思い出した。鞄に仕舞ったままなのだ。
彼女は机の上に置いたトートバッグを漁り、携帯電話を取り出す。横のボタンを押してサブディスプレイを点灯させると、封筒のマークがついている。
メールが来ている、もしかして。
心臓を高鳴らせ、三月は携帯電話を開いて届いたメールを確認する。
宛名には『神崎先輩』と記されていた。
『また、ゆっくり話そうね。楽しみにしてるよ』
電車に乗る前、そう言って優太と交換した彼のメールアドレス。彼は早速、メールを送ってくれたのだ。
緊張して震える指を動かして、メールの本文を開く。
『今日はありがとう。いい夏休みを過ごしてね』
件名も顔文字も絵文字もない、シンプルなメールだが、どこか彼らしい優しさがにじみ出ていた。
たったそれだけの言葉なのに、三月の胸はじんわりと温かくなる。
叫びたいような衝動にも駆られて、三月は手の中の携帯電話を胸に抱き、うつ伏せにベッドへ飛び込んだ。
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