第14話 喧嘩

 一曲歌い終え、三月はソファーに腰掛けた明美に視線を送る。彼女の大好きな曲を歌ったのだが、まだ彼女は暗い表情で俯いたままだ。

 三月はぎゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。


『明美、カラオケ行こう! カラオケ。思い切り声出してすっきりしよう』

 そう言って彼女に電話をかけたのは、昨日の夜。明美の告白から丸二日たった後のことだった。



 あの時は結局、まともに彼女を慰めることができず、次の日も明美は講義を休んでしまった。三月はただ心配して待っていることしかできなかった。

 必死でどうすれば良いか、どうやったら彼女を元気にできるのかを考えて、昨夜ようやく明美に電話をかけたのだ。


「このまま家にこもってても辛いだけだよ? ね」

 まだ頼りない声で渋る明美を、半ば強引に連れ出した。あの明るい彼女がここまで落ち込むなんて、相当辛いことなのだろうと思う。

 だからこそ、辛いことは忘れて思いきり楽しんでしまえばいい。

 それが、三月が考えて出した結論だった。



「明美、あの……」

 明美は顔を上げずに黙っている。

「喉乾かない? 何か頼む? 明美、カフェオレ好きだよね? あ、お腹すいてるなら食べる物も――」

「あ、ありがとう。楽しんでるよ。三月って、歌上手いよね!」

 俯いていた明美が、はっと顔を上げて少しだけ笑顔を見せてくれた。三月はほっと息をつく。


「そんなことないよ。明美の方がもっと上手いんだから。次、歌って」

 三月は明美にマイクを手渡す。彼女は迷うことなく曲を選び機械に送信する。すぐに、彼女の十八番であるアップテンポなメロディが流れてきた。

 思わず身体を揺らしたくなるような前奏が終わり、明美が息を深く吸う。


 しかし、そのまま彼女は声を発することなく、すっとマイクを下ろしてしまった。

「……明美?」

 明美が黙って演奏を止める。

 部屋が静かになって、どこかの部屋の盛り上がりが小さく聞こえてきた。


「ごめん。私やっぱり、楽しめる気分じゃない」

 三月にはその声が酷く冷たく聞こえた。

 自分が悪い事をしてしまったような気がして、慌てて言い訳のように口を開いた。


「でも、明美辛そうだったし、元気出していつもの明美に戻って欲しくて。だから、辛かった事は早く忘れた方が良いと思って」

「そう簡単に忘れられるわけないじゃない!? 私がどれだけあの人のこと好きだったかも知らないくせに!!」

 明美の怒鳴り声を聞くのは初めてだった。

 三月は一瞬息を止めた。


「その『忘れよう』って言うのが嫌なの。そう簡単に忘れられる事じゃないのに、私もどうすればいいか分からないのに、そんな風に忘れろ忘れろって、なんなの、どうすれば良いの!?」

 言葉は続く。

 彼女の今まで溜め込んできた想いが、三月を責めるように次々と彼女の口から飛び出す。

 三月は指先一つ動かすこともできず、明美の両目から涙が溢れてくる様子を見ていた。


「三月はいいわよね、幸せそうで。あの先輩と仲良くしてるんでしょ? 本当は私のこと『可哀そう』って思って同情してるんじゃないの? 自分は好きな人と一緒にいられて幸せだから、だから他人のことに構っていられるんじゃないの? 三月が何か言うほど、何かをやってくれようとするほど――腹が立つの」


 それは違う。

 三月はとにかく否定しようと口を開くが、声が出てこない。

 別に神崎先輩のことはそういう意味で好きじゃないのだとか、まして明美のことを可哀そうだなんて思ってないとか。

 そういうことを言いたいのに言えなかった。


 優太のことは別に好きじゃない、彼女を可哀そうだなんて思っていない。本当にそうなのだろうか。

 その迷いが、一度口を噤ませた。


「そ、そんなことない。私は……」

 それからようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど擦れて頼りないものだった。

 明美が勢いよく立ち上がる。涙でぐちゃぐちゃになった彼女の瞳が、三月を恨みがましく見つめていた。


「もう放っておいて! 正直全部、うざったいだけだから!!」

 明美は自分のバッグを掴むと部屋を飛び出した。

 咄嗟に声をかけることも、後を追うこともできず、三月は呆然とソファーに座り込んでいた。




 ありがとうございました、というカラオケ店員の声をどこか遠くで聞きながら、三月は一人店を出た。


 まだ空は明るく、薄い雲がやたらに高く見える。悲しいというよりは、悔しかった。

 どうして、上手くいかないんだろう。自分は友人のことを心の底から心配していたはずなのに。

 どうしてそれをはっきり伝えることができなかったのだろう。


 もしかしたら本当に自分は、心のどこかで明美のことを可哀想だと同情して、優越感に浸っていただけなのだろうか。

 三月は奥歯を強く噛みしめた。そうでなければ、道の真ん中で泣き出してしまいそうだった。


 いつもの商店街を歩く。通行人や買い物客、誰にも自分だと悟られないように、うつむきがちに早足で歩いた。


「……中山さん?」

 こういう時に限って、どうして知り合いに会ってしまうんだろう。

 三月は涙を無理矢理堪え、笑顔で顔を上げた。しかし、自分に声をかけた人物が誰だったか分かると、思わず顔を強ばらせてしまった。


 神崎優太がいつものように微笑を浮かべ、彼女に向かって片手を上げている。

 三月は慌てて笑顔を作り、軽く頭を下げた。

「こんなところで会うなんて、奇遇ってやつだね」

「そう、ですね」

 いつもなら嬉しいはずのこの偶然も、今は心を重くするだけだ。


 三月はなるべく不自然に見えないように、足を動かして、

「あの、すみません。私ちょっと用事が」

 さりげなくその場から立ち去ろうとした。普段の優太ならばそれで無理に引き留めたりはしないはずだった。

 しかし、優太はじっと三月の顔へ視線を送ると、その笑みをより深くする。


「ちょうど良かった。ちょっと僕行きたいところが、あるんだけど、つき合ってくれないかな?」

 何故よりによって、そんなことを。

 なんとか断ろうと、三月はしどろもどろに言い訳を口にする。


「いえあの、誘って下さるのは非常に嬉しいんですけど。私今日は本当に大事な用事があって」

「用事ってすぐ? すぐじゃないなら、この商店街に美味しいケーキのお店があるんだ。でも男一人じゃ入りづらいから、中山さんにつき合ってもらえると嬉しいんだけど。それともケーキ、嫌い?」


「いえ、嫌いではないんですけど、その……」

「この前の美味しいクッキーのお礼にごちそうするから。行こうよ。時間もちょうどおやつ時だから」

 優太が腕の時計をちらりと見せる。時計の針は午後三時を指していた。

 確かに、三時のおやつだ。


 三月は困り果てて、一瞬だけ優太と視線を合わせた。彼は機嫌が良さそうに笑っている。

 笑顔なのが逆に断りづらかった。

 三月は降参して、頷いた。


「じゃ、じゃあ、ちょっとだけなら」

「良かった! じゃあ、行こうか。すぐそこだから」

 余程嬉しいのか優太は無邪気に笑い、先立って歩き始めた。

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