第13話 失恋

「えっと、ごめん。何とか学園祭には来たんだけど、ちょっと腰を下ろして休憩してたら、寝ちゃったみたいで」

「さすがに少し、びっくりしました」

 ごめん、と優太はもう一度謝った。

 寝起きが嘘のように真剣な顔をしているため、三月は途端に恐縮してしまう。


「い、いいえ! お忙しいところ、わざわざ来て下さってありがとうございます。それに、まだ学園祭は終わってませんから、ね?」

 三月は抱えた段ボールから、なるべく綺麗に作れているクッキーを選び、優太に手渡す。


「はい、これがお約束のクッキーです」

「うわぁ、ありがとう。美味しそうだね」

 優太が代わりにお金を差し出してクッキーの包みを受け取ると、早速食べて良いかと尋ねてくる。


 三月が隣に腰を下ろしながら快く頷くと、彼は目を輝かせて袋を開けた。猫の形をしたクッキーが、あっという間に彼の口の中へと消えていく。


「うん。とっても美味しいよ」

 少し弾んだ声と輝く瞳が、その言葉がお世辞ではないと伝えてくれた。

 幸せそうに笑う優太に釣られて、三月の胸の中が暖かい気持ちで満たされていく。


「喜んで下さって、私も嬉しいです」

 三月が少し頬に熱を感じながら応えると、優太はクッキーを再び口の中に運んだ。軽やかな音が、こちらにまで聞こえてくる。


「甘いものって良いよね。心が満たされるよ」

「そうですね」

 口を動かしながら話す様子は、リスやハムスターのようだ。

 三月は微笑ましい気持ちになって、くすくすと笑う。

 あっと言う間に優太はクッキーを完食し、丁寧に両手を合わせた。


「ごちそうさま、美味しかったよ」

「こちらこそ、そんな風に美味しそうに食べていただけると、作ったかいがあります」

 彼と一緒にいると、時間がゆったりと流れているような気がしてとても落ち着ついた。


 もっと長くこの時間を楽しみたくなって、三月は意を決して尋ねる。

「あの、先輩。夏休みの時、アイスもなかをご馳走して下さいましたよね。今度また一緒に――」


「三月! さぼってないでちゃんと売ってきなさい。もう学園祭終了まで二時間切ったわよ!」

 夢から覚めるようだった。今まで聞こえなかった喧噪が耳に届き、三月は開いた口を閉じる。


「何?」

 優太は改めて続きを促してくれたが、無性に恥ずかしくなってきて、三月は勢いよく立ち上がった。

 男の人を遊びに誘うなんて。


「何でもありません。あの、それじゃあ。クッキーありがとうございました!」

「え、ああ。こちらこそ」

「失礼します」

 そう言って三月は駆けだした。

 ステージのある方へ行く人々に紛れ、少し落ち着きを取り戻す。


 変に思われただろうかと気になり、恐る恐る振り返ると、優太はこちらではなく別の方向を向いていた。


 何かを真剣に見つめているのか、それともぼうっとしているだけなのか、ここからでは分からない。ただ、彼の視線の先には綺麗な女性がいた。

 テレビや雑誌から、そのまま抜け出してきたような人。

 傍から見ると彼は、その女性に見惚れているように見えなくもない。


 思わず三月は自分の格好を眺めた。

 パンプスは爪先が少し泥で汚れているし、スカートやブラウスも、古着屋で買った物を適当に組み合わせているだけ。

 おまけに、ちらちらと視界に入る髪の毛先は、ボサボサだ。


 苦しいような、悲しいような、面白くないような、がっかりしたような。

 霧がかかったはっきりしない想いを抱えて、三月は重い足を動かす。


 楽しみにしていた学園祭は、そんな思い出で終わってしまった。





 講義が終わり、友人たちが教室を出ていっても、三月はボンヤリと窓の外を眺めていた。

 庭の木の葉が散り始めている。ひらりと落ちる木の葉に釣られるように溜息が零れた。


 あの感情を、どこへ落ちつけたら良いのかが分からない。木の葉を眺めたところで、答えが出てくるわけでもないけれど。


 先週、文化祭の時に抱いた感情。

 あれはだと思う。ということは、自分は優太に恋をしているということだろうか。

 でも嫉妬なら仲の良い友人にも抱く感情だし、優太を見ているとまるで、年下を見守っているような気分にもなってくるのだ。

 自分は、優太をどう思っているのか。


 三月の恋愛経験と言えば、小学生の頃にクラスメイトを「かっこいい」と思ったことや、中学や高校の時に部活の先輩を「ちょっと良いな」と思ったこと、その程度しかない。

 そのことで特に苦労をした覚えはなかったのだが、初めて三月は、自分の経験不足を恨めしく思った。


「三月……」

「え、明美。何?」

 ぽそりと呟かれた声に驚き、我に返る。

 いつの間にか机の前に友人が立っていた。考え事をしていたとは言え、まるで幽霊のように気配がなかったのだ。どこか様子がおかしい。


 いつも快活な彼女と同一人物とは思えないほど、その表情は暗く沈んでいる。


「ど、どうしたの?」

 何か深刻なことでもあったのだろうか。三月は友人を気遣いつつも、慎重に問いかけた。


「私……」

 明美は何かを言っているようだが、小さすぎて聞こえない。三月は立ち上がって、彼女へ一歩近づいた。


 今度はその声が、やけにはっきりと頭の中に響く。


「わたし、ふられちゃった」

「え?」

 しゃくりあげるような声で、三月はようやく彼女が泣いていることに気がついた。


「それは、その――」

 それっきり、言葉は出てこなかった。慰めたいのに、何と声をかければ良いのか分からない。


 三月はそのひどく小さく見える背中を、ぎこちなく擦ってやることしかできなかった。

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