第一部〜出会い〜

第1話①

「調子ええて聞いたけど、顔色もまずまずやな。寝れとんか?」


「うん。新しいお薬がよく効くみたい。」


「ほうか…」


言って、藤次は絢音が手にしている本に目を留める。


「なんや。また新しい太宰センセの本、買うたんか?」


「ううん。これはね、借り物。」


言って絢音は藤次に、持っていた本の表紙を見せる。


「なんや…ハーブが育てる健康生活?」


「そう。」


絢音が持っていた本には、ハーブの持つ薬効で精神疾患の症状を和らげようという、いわゆる民間療法の類の内容で、藤次は正直、これが効くなら絢音は入院などしないどろうと心の中でごちた。


「平海さんに借りたの。退院したら色々買い揃えてみようかしら?平海さんね、ご自分でハーブを育てたりもなさってるそうでね…」


楽しそうに話す絢音。


精神疾患は十人十色。誰もが皆、違う症状を持っており、治療法も多岐に渡り、画一されてもいない。


出口の見えない治療生活の中で、少しでもこれがよかったと勧められれば、すがってしまうのも致し方ないことだろう。


しかし、ハーブを主原料としている精神疾患向けの薬は、既に気軽に手に入るご時世。


諄いようだが、これで治るなら絢音はここにいないだろう。


「まあ、ええんやないか…これがその、平海の姉ちゃんに効いた言うんなら、試してみても…」


「あら言わなかった?平海さんは、男の方よ?」


「はい?」


きょとんとする絢音に、藤次は本を脇に寄せて彼女に詰め寄る。


「お、おま…部屋に男連れ込んだんか?!」


藤次の言葉に、絢音はころころと声をあげて笑う。


「やあだ。病室は男女別々だけど、作業療法や自由時間は、男性とも自由にお話しできるのよ?言わなかった?」


言って、絢音はカーディガンのポケットに手を入れる。


「ホラ、これは山根さん。これは秋山さん。こっちの兜は田辺さん…こっちの金魚は桂木さん。皆さんとてもよくしてくださるのよ?」


見せられたのは、色とりどりの折り紙。この数だけ、絢音と親しくしている異性がいるのかと思うと、藤次は面白くないのか眉をしかめる。が、


「でも…藤次さんが一番。会えて嬉しい。」


にっこり笑って、机に置かれた手を握る絢音に、返す言葉も思いつかないのか、藤次は頭を抱える。


「ずるいて、自分…」


「?」


みるみる赤くなる顔を見られたくないのか、わずかに顔を背ける藤次を不思議そうに見つめる絢音。


いつだってそうだ。自分は彼女には適わない。


かぐや姫に恋い焦がれて、ありもしない宝を探しに行った貴族の気持ちが、今ならわかる。


絢音が幸せなら、自分に笑いかけてくれるなら、どんな願いも叶えてやりたい。どんな悪事にでも目をつぶれる。


誰を…世界を敵に回しても構わない。


それ程までに、自分は目の前のこの女性を愛している。


もはや信仰に近い思いが、藤次にはあった。


そんなかぐや姫の可憐な唇が、またも言葉を紡ぎだす。


「先生がね、明日から外泊してみたらと仰るのだけど、どうかしら?」


「が、外泊?!うち、帰れるんか?」


瞬く藤次に、絢音はまたもころころ笑う。


「退院に向けての試験外泊ですって。とりあえず明日から日曜の夕方まで。だから明日、迎えに来てくれるかしら…荷物も少しづつ持って帰りたいし…」


「なに水臭いこと言うてんねん!そんな…家帰れるいうならワシ、なんぼでも迎えに行くで!何時や、いつ来たらええねん!!」


嬉しそうに頬を上気させ詰め寄る藤次を眩しそうに見つめながら、絢音は言葉を続ける。


「10時か11時くらいかな?」


「せやったら、昼は一緒に食べれるな!うわっ…どないしょ。お店どっこも予約しとらんやないか。巽の爺さんとこは昼やってないし…いや、絢音の退院への前祝いや言うて無理くり…でも、ここから距離あるしなあぁ…荷物もあるなら、真嗣に車も借りなあかんし…ああ!!」


何かに蹴られたかのように、慌てて席から立ちあがる藤次の目線の先にあったのは、瀟洒な腕時計の文字盤。


「あかん!もうこんな時間や。戻らな。ほんなら明日の10時、迎えに来るさかい、待っとってや!」


「うん。」


頷く彼女を横目に、藤次はテーブルにあった電話を取り、面会終了の一報を看護師に伝える。


「楽しみやなぁ~週末。どこ行こうかな~」


うきうきと背広に袖を通そうとする藤次に、絢音はそっと寄り添い、袖口に届きやすいようにその手を重ねる。


「はい。お袖をどうぞ?」


「…お、おう。」


久しぶりに、至近距離から見る彼女の姿にドキドキしながら、藤次は上着を羽織る。


「藤次さん。」


「へ?」


ふと留まるように促されるかのごとく名前を呼ばれたので振り返ると、甘い柚子の香りが鼻を掠め、絢音の柔らかい唇が、藤次の頬を優しく撫でる。


「…忘れ物。」


「…っ!!」


恥じらうようにうつむきながら言った彼女が、あまりにも愛らしいので、思わず抱きしめようかと手を伸ばしたが、迎えに来た看護師が扉をノックしたので、それは不発に終わる。


「ほ、ほんなら明日…な。」


「うん。」


手を振りあい、互いに部屋を後にする。


鍵のかかった部屋の奥に消えていく小さな背中を名残惜しそうに見送っていると、看護師が悪戯っぽくその顔を覗きこむ。


「もうちょいゆっくり来たほうが、よろしかった?」


「いや、なんかもう…いろいろあかんから、これでよかった思うことにします。」


耳まで赤くなった藤次の姿に、普段は滅多に笑わないと評判の看護師師長が、声をあげて笑った。

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