第1話②
自転車を走らせ、再び地検の門をくぐると、入り口付近で見知った顔に遭遇する。
「あれ、松下さん?」
白髪混じりの髪を無造作にハンチング帽に押し込んだ初老の男性。
先程賢太郎が嫌味を言われたと愚痴をこぼした『松下の爺さん』である。
「よう。特命お疲れさん。」
「なんのことや。ただの聴き込みや。松下さんこそ、こんな時間からこないなとこで油売っとってええんか?」
素っ気ない藤次の言葉に、松下はクッと喉を鳴らす。
「南部さんが生きてたら、何て言うかねぇ……」
「また親父の話かいな。ええ加減にしてくれんか?ワシ、これから仕事やねん。」
南部さん。その単語を耳にした瞬間、藤次の表情にあからさまな嫌悪の色が浮かぶ。
それが愉快でたまらないのか、松下は更に続ける。
「担当した事件の加害者と、事件解決後も隠れて乳繰り合ってるって知ったら、勘当モンだよなぁ……」
「!」
さすがの藤次も頭に来たのか、歩みを止めて憤慨した表情で振り返ると、松下は満足そうに嗤う。
「花藤(はなふじ)病院……だったかな?逢引き場所にしちゃぁ、近すぎやしないかい?」
「なんのつもりや。事件はもう解決したんや。大体なんやねんさっきから!親父のこともやけど、人のプライバシーにずけずけと……そない松下さんと仲良おなったつもりはないで?」
「俺ぁただ、仲良かった南部さんの、可愛い一人息子に忠告してるだけさ。ああいう女は危険だってさ。」
「意味わからんわ……」
言って踵を返すと、松下は最後に言い放った。
「統合失調症だろ?治る見込みもねぇ病持ちの女に惚れると、苦労するぜ?」
「そんなん、苦労やなんて思うたことないわ。誰の指図も受けへん。ワシは自分の気持ちに、素直でおりたいだけや。」
*
絢音が精神の病を患っていると知ったのは、初めて出会った時……そう、彼女が被疑者として初めて京都地検にやってきた……雪のちらつく冬の日の事だった。
長い黒髪を一つに結わえ、化粧っ気のない顔には、あからさまな恐怖が見て取れ、体も小さく震えていた。
こんな気の弱そうな女が、軽微な事件に使われる在宅事件とは言え、どんな罪を犯してここに来たのか。それが、当時の藤次が抱いた絢音への第一印象だった。
「そんなに緊張なさらなくて大丈夫ですよ。お聴きする内容は、警察と大差ありませんので。但し、質問には正直にお答え下さい。まあ、答えたくない場合は、黙秘権を行使されて結構ですので。…では、はじめます。」
「はい…」
言って、絢音は俯いていた顔を上げた瞬間、僅かに目を見開き顔を強ばらせる。
その視線に気付いたのか、藤次は不思議そうに彼女を見やる。
「なにか?」
「いえ。なんでも、ありません…」
言って、また顔を俯けたので、藤次は特に気にも留めず、佐保子から渡された資料に目を走らせる。
「(容疑は万引き…窃盗か。バラエティーショップでアクセサリー30点。小物で盗り易いとは言え、随分大量やな。…で、店出ようとしたとこを保安員に見つかり、悪質と判断され警察に通報。店でも警察でも一貫して否認。結果送検…なぁ……)」
「わ、私……やってません!!」
「質問に答えるだけで結構ですよ。確かにあなたは、現場となったバラエティーショップの店長にも、警察にも、弁護士にも、そう仰ってますね。ではお聞きします。何故、やってもいないと仰るのに、あなたの鞄から、あなたの指紋のついた未会計の商品が、でてきたんですか?」
突然火が付いたように発した絢音の言葉に、藤次は僅かに目を丸くするも、淡々と言葉を返す。
「分からないんです。気づいたらバッグの中にあって。確かに、触りはしましたが、誓って無断で盗んだりしてません。信じてください…」
薄く涙を浮かべて俯く彼女に、藤次は小さくため息を付き、調書を閉じてメガネを外す。
「分かりました。そう仰るなら、検察としても裏付け捜査を行い、慎重に審議致します。その上で、裁判を開く起訴が不起訴かを判断しますが、素直に罪を認め、弁護士と相談して、お店に謝罪し示談となれば、起訴猶予…不起訴となりますので、今後はよく考えて、発言なさって下さい。」
「だから私、やってないんです…」
…強情な女だ。
眉を顰めて不快感を露わにしながらも、藤次は冷静に締め括る。
「まあ、今日は取り敢えず、これで結構ですよ。後日また確認の為呼び出しをするかもしれませんので、よろしくお願いします。」
「はい…」
涙を流す彼女を冷たく一瞥して、藤次はそばに居た女性警察官に促し、絢音を退室させる。
「……長期戦ですかね?」
「さあなぁ……ま、やってない言うなら、捜査するまでや。どっち道、指紋ついた商品言う証拠あんねん。もうちょい明確な条件揃えて、落としたる。」
佐保子の問いにそう答えると、藤次はロッカーからコートを取り出す。
「とりあえず、これから管轄の警察署行って防犯カメラの画像見せてもらってくるわ。あと、よろしゅう。」
外に出ると、曇天から白い雪がちらほらと舞い始めていた。
「(窃盗罪の罰金相場は10万~30万。前科かてつく。罪認めて、素直に謝ってもうたほうが、なんぼも利益あるやろに……)」
冷える首筋をマフラーに埋めながら、ポケットから自転車のカギを取り出す。
「(だから私…やってません)」
脳裏に、切実に無実を訴える絢音の顔が浮かぶ。
「ま。ワシには関係ないことやけど……」
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