序章②
藤次が、京都地方検察庁に配属されたのは、5年前の今頃だった。
元々出世欲も野心もなく、なあなあで検事になったせいか、中央でのゴタゴタした競争社会より、地方でのゆるやかな環境を望み、生家のある関西圏に赴任希望を出していたのが受理され、両親の遺産であるあの長屋を受け継ぎ、週末には趣味の古寺巡りを楽しむ。
それが自分の身の丈にあった人生なのだと、40手前で悟って、振られた仕事には誠意を持って、しかし、粛々とこなしていく。
そんな、公私混同を厳禁に過ごして来た。
あの日までは…
*
「味が濃い…」
「は?」
京都地検…藤次の職場では、正午のランチタイムを迎えていた。
庁舎内に振り分けられた仕事部屋で、いつものように弁当を頬張っていた藤次の発した怪訝な一言に、同席してサンドイッチを食していた、彼の担当事務官である京極佐保子(きょうごくさほこ)は、素っ頓狂な声を上げる。
「朝もそうやった。だし巻き…醤油の味しかせぇへん。出汁の取り方…一から教えなあかんかこりゃぁ。」
「例の、一緒に…住まれてる?」
「せや。まあ、無理強いしとる訳やないんやけど、住まわせてもろとる以上、これくらいって言いよるから任せとんねんやけど…なぁ…」
「で、ででででも!素敵ですよね?その、手作りの弁当なんて!愛がこもってて!」
「アホ良いなや気色悪い。ったく…」
愚痴をこぼしながらも、弁当を平らげていく藤次の姿に、佐保子はにんまりしながら、ポケットからスマホを取り出し、自身のSNSにこう呟く。
イケメン弁護士と同棲中の上司、今日も手作り愛妻弁当なう!
「(次のイベントは、このお弁当ネタで決まりね!!)」
心の中で強くガッツポーズする佐保子は、いわゆるやおいやボーイズラブ(BL)と呼ばれる男性同士の恋愛を扱った小説や漫画などを好む、腐女子と呼ばれるヲタク女子である。
担当事務官になった当初は、藤次の放つ独特の訛りに怯えてビクビクしていたが、最近になり、彼が男性の弁護士と同居を始めたと知るや否や、目の色を変えて彼に色々と探りを入れては、こうして妄想を膨らませている。
そんな佐保子の飯の種にされてるとは欠片も思ってない藤次は、件の弁当を文句を言いながらも完食すると、なにやら忙しなく身支度を始める。
すると、不意に部屋の扉が開き、1人の男性がやって来る。
「いるか棗。」
「ん。なんや楢山か。何の用や。」
特に悪びれる様子もなく迎えて来る同僚に、楢山賢太郎(ならやまけんたろう)は盛大にため息をつく。
「お前が担当した花屋の傷害事件、被害者が告訴を取り下げたぞ。」
「花屋?…ああ!あの花屋の色男店員取り合って刃傷沙汰になった!」
「…身も蓋もない言い方するな。」
「取り下げたっちゅーことは、示談が成立したんやな。良かったやん。」
「お前、この事件追加で警察に捜査依頼したろ?」
「へ?なんや。なんかあかんかったか?」
「………」
検察による取調べは、警察による取り調べ内容のチェックをする機能もあるが、それにとどまるものではない。
警察官と異なって、検察官は法律家であり、事件を裁判にかけて有罪判決を得ることができるか否かという厳密な法律的観点から捜査を実施する。
したがって、警察が取り調べ済みで、既に供述調書が作成されている内容であっても、検察官は独自に取り調べたうえで、自ら供述調書を作成する。
全国、どこの検察庁でも、参考人の待合室には、概要、「既に警察で聞かれたことと同じ内容について検察官から聞かれることがあるが、警察とは別の観点から事情を聞いているので理解してほしい」旨の掲示がなされているのは、このためである。
が、警察にしてみれば、自分たちが汗水流してかき集めた証拠に対してケチをつけられているようで、末端の刑事からは大なり小なり不満があると言う噂もちらほら…
「今日松下さんに会って、イヤミ言われたぞ。こんな小さいヤマにケチつける程、地検は暇なのかって。」
「ありゃ。そりゃあ難儀やったな。すまんすまん!せやけど、あんな若い子をその小さいヤマとかで前科持ちにするんも、後味悪いやろ?後腐れ無いよう納得いくまで話聞いたったらええやん。」
「お前またそんな非合理的な」
「ああすまん!ワシこれから行かなならんとこあんねん!松下の爺さんの愚痴ならまた聞いたるさかい、今日は堪忍な!!」
「おい棗!!」
「ほな京極ちゃん!後頼んだで!!」
そう言って足速に部屋を後にする藤次の背中を見つめながら、賢太郎はまたも盛大にため息をつく。
「いつもこうなのか?」
「いえ。毎週金曜日の2時間だけです。どこに行ってるかは不明です。本人は、聴き込みと証拠集めだって言い張ってますが…」
「不明って、よく度会(わたらい)部長許してるな。」
「噂じゃ、部長直属の密命を処理してるとか…なんとか…」
「アレがそんなタマか?」
「あはは…」
苦笑する佐保子を尻目に、賢太郎は窓を覗くと、息を弾ませながら地検を後にする藤次の姿が見える。
「密命…ね。」
「…気になりますか?」
「一応、人並みにね…」
悪戯っぽく顔を覗き込んでくる佐保子にそう告げると、賢太郎は部屋を後にした。
*
藤次が息を弾ませながら向かった先は、地検から少し外れた、京都市内の病院だった。
受付に行くと、看護師がにこやかな笑顔で出迎える。
「あら棗さん。今日も時間ぴったりやねぇ。」
「当たり前や。大事な日やもん。早よ紙!」
「ハイハイ。」
行って、看護師が差し出した書類に、慣れた手つきでペンを滑らせて行く藤次の嬉しそうな表情に、看護師の顔も自然と綻ぶ。
「笠原さん、ホンマ幸せやねぇ。こんなエエ人いてはって。」
「何やねん急に気色悪い。ホラ、書けたで!」
「ハイハイ。問題あらしまへん。中どうぞ。時期に病棟のもんが迎えにきます。」
「ん!」
言って、窓に映る自分の格好を忙しなく整えていると、通路の奥から別の看護師が現れる。
「棗さん。ほな、行きましょうか?」
毎週金曜日の2時間。それは、藤次にとって一番心躍る、数少ない時間。
看護師に扇動されて向かった先、それは幾重にも鍵のかかった扉の群れで囲われた、小さな世界。
精神科閉鎖病棟。
その鍵の群れを乗り越えてたどり着いたのは、椅子2つを隔てるテーブルと、プッシュ式の電話が置かれただけの、小さな小部屋。
「笠原さん、今日は具合よろしいみたいですよ?朝から髪も自分結えはって、棗さん来るの指折り数えて待ってましたえ?」
「そうですか。なんか、楽しみやな。こないだは、アイツ途中で寝てもうたから、話したりひん言うか…」
「そうでしたね。ほな、帰らはる時は、また電話鳴らして下さいね。」
「ハイ。」
そうして椅子に座って待っていると、看護師に連れられて現れたのは、寝巻きに紺のカーディガンを羽織った、色の白い…儚げな雰囲気を湛えた、1人の美女。
「こんにちは。藤次さん。」
可憐な唇から発せられた音は、1週間ぶりに聞く、優しくも甘美な…愛する人の声。
自然と、藤次の表情も穏やかになる。
「1週間ぶりやな?待っとったで、絢音(あやね)…」
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