死花〜検事 棗藤次〜

市丸あや

序章①

夢を見た。


初めて赴任した、福岡の海…


婚約指輪を買いに行く前、立ち寄った小さな海辺の喫茶店で、手切金渡して、ただ一言、婚約解消して別れて欲しいと告げた…九州にしては珍しく雪のちらついた、冬の朝。


どうしてと問う君に、ワシは何も言えず、ただ何度も、頭を下げて、別れて欲しいと言い続ける事二時間半。泣きじゃくりながらも頷いてくれた時は、心底ホッとして、赤い目をして俯く君を助手席に乗せて、家へと送り届けた。


可愛い一人娘やったから、相手の親にも散々怒鳴られ罵られたが、全て甘んじて受け入れて、二度と敷居を跨ぐなと言う念書も書いた。


元婚約者は部下やったし、職場にも言うてもうてたから、段々居り辛うなって、せやけど、結婚するくらいならと耐えて耐えて、半年後…仙台行きの辞令を受けた時は、一人静かに、安堵の涙を流した。


それから、人を愛する事、愛される事から目を背け、逃げ続け、地方都市を転々とすること10年。


生まれ育った京都に根を下ろして5年目の冬やった。


泣かせたあの娘と同じ、真っ白な肌をした君に、巡り会うたのは…




「寝不足?なんか、目が赤いよ。」


「そうか?まあ、こう暑いと寝苦しゅうてかなわんからなぁ…エアコン、取り付け面倒やから買わんといたけど、お前もおるし、ええ機会やから買おうかのぅ…」


…京都の夏はとにかく暑い。


藤次(とうじ)と真嗣(しんじ)の住む京都市は、京都盆地(山城盆地)に位置しており、気候としては瀬戸内海式気候と内陸性気候を併せ持っており、降水量が比較的少なく、夏と冬、昼と夜で寒暖の差が激しい地域である。



狭い路地の片隅にある、築半世紀の長屋に真嗣がやってきて最初の夏。


朝食のだし巻き卵をつつきながらそんな会話をしていると、真嗣のスマホが忙しなく鳴る。


「はい。谷原(やはら)です。あ!これは、大先生。おはよう御座います。…はい。…はい。分かりました。僕の方でクライアントに変更できないか、相談してみます。はい。」


「朝から仕事の電話かぁ。商売繁盛やのぅ。」


「まあね。最近ようやく、新しい事務所にも慣れてきたし…」


「ほぅかほぅか。そりゃ結構。」


大きく頷きながら茶碗の白米を掻っ込むと、藤次は居間の壁掛け時計を見て立ち上がる。


「まあ、あんじょう気張りや。ぎょうさん稼いで、こない古びた長屋街やのうて、下鴨や北山…せや、東山辺りに部屋借りてくれや。」


「しがない雇われマチベンに、そんな大層な期待するなよ公務員。」


「あかんあかん。志は高う持たな、一端のセンセにはなれへんで?ほな、ワシ、もう行くで?」


「うん。僕もこれ片付けたら出るよ。夕飯は?」


「いらん。外で食って来るわ。遅なるさかい、先寝とけや。」


「分かった。気をつけて。」


「ん。」


着倒して草臥れ気味の夏物の上着とカバンを小脇に抱え、そこそこ上等な革靴を引っ掛けて、忙しなく玄関を後にする藤次が、どこか浮かれて見えるのは気のせいかと思いながら、食卓を片付けていると、ふと目に入ったカレンダーの赤丸。


「そうか…今日、面会日か。」


なるほどなるほどと頷き、真嗣はクスリと微笑んだ。





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