第二十二話 自切渡河
途端に、螺旋迷宮の白い床面はラクトの手のひらを起点にして茶色い泥濘に浸食される。
よって
「これは……! くっ、地面が泥沼みたいに」
ラクトのその能力は、他人の足を取ることに特化していた。足を引っ張るのが魂の性分なのだ。
展開された泥は波濤のように地面を覆い、上書きしていく。すぐに永一の両足は泥に埋まり、斜め後ろにいるシンジュも、フキジを抑えていたコハクも彼もろとも泥濘に足を取られてその体をずぶりと沈ませる。
「エーイチ様っ! うぅ、足が……ですが、動けずとも魔術の行使には問題ありませんっ。『血を巡るもの。力あるもの。形を成し、打ち付ける杭となれ』——発動しない?」
その中でシンジュは魔術の行使を試みるも、向けた手のひらからはなにも生み出されなかった。ただ血中の魔力だけが消費される。
「そんなっ、どうして斜月が……詠唱による術式の構築に誤りなんてないはずなのに」
「ハッ、教えてやるよ。おれの
「魔力殺し……まさか、世界には魔力を発散させる物質があると聞きますが……」
「ギルドの訳知り女が言うには、その類だそうだぜ。欠陥魔術だなんて言われちゃいるがオマエらの魔術が侮れねえのは理解した。だがこうして動きといっしょに封じちまえば、オマエらもただの非力な女ってモンだ!」
降伏などするはずもなく、哄笑とともに立ち上がったラクトは、動けない永一たちを満足気に眺めた。だが見るだけで嗜虐心が収まりはしない。すぐにラクトは、動けず魔術も使えない永一たちに必要以上の苦痛を与えようとするだろう。その手にある、武骨な剣で以って。
後方で無理やり泥を脱出できないかともがいているらしく、シンジュの小さな吐息の音が聞こえる。残念ながらそれが無駄な抵抗だと、同じ泥に膝下まで浸かった永一には訊くまでもなく理解できた。
代わりに、ナイフの柄を握る手に力を込めてみる。筋肉に満ちる力は日頃のそれではない。
——片月が効いている。
どうやらシンジュの詠唱を無為にした魔力殺しも、既に作用している強化魔術の効果を打ち消すことは叶わないようだ。
それがわかれば十分だった。
「待って……こちらには……人質が、いる。それ以上近づくなら……この男のひとを、殺す」
「あ? 殺せよ。役立たずのハゲなんざいらねーな。セレイネスの女ども、昨日言った通りなぶってやるよ」
「……あなた、見捨てられた。……とってもかわいそう」
「ラ、ラクトぉ……」
コハクの脅迫も無視し、ラクトは剣を手に泥へ足を踏み入れようとする。中へ浸かればラクトとて動きは制限されるはずだったが、当人の
相手を一網打尽にする醜悪な
「まったく潔いまでのクズっぷりだな。これが同郷だって言うんだからうんざりだ」
だというのに、永一はまたしても、呆れ交じりのため息をついた。
「減らねえ口だなオイ。自分の立場わかってんのか? ああ、そうだった……女をなぶるより先に、オマエに礼儀を教えつけてやるか。減らない上に利き方も知らねえその口、二度と開かねえようにしてやる」
「お前の方こそできることだけを口にすることだ。ただの泥遊びで勝った気でいるなら、笑ってやるよ」
「——? オマエ、なにを」
永一は足元に目をやると、ククリナイフで自身の右脚の膝から下を斬り落とした。
「ぐ、っ」
「…………は?」
ナイフ一本あれば切断は容易だ。普段ならともかく、今は片月の効力がある。破力の向上と保力の低下の両方が、永一の自傷行為を強化している。
勢いをつけて二、三度と殴るようにして刃をぶつけてやれば、骨まで砕いて肉を断ち切ることができる。
そうして泥に浸かった足を切り離し、白い骨が覗く断面から夥しい血を流しつつ、永一は短くなった右脚を伸ばす。そうしながら、今度は自身の首を突き刺した。
「ひっ……!?」
離れて、未熟な魔術者の少女が漏らした恐れの声が永一の耳朶を打つ。
目の前では、さっきまで殺意に燃えていた男が、冷や水を浴びせられたように呆然とした表情で永一の自死を見ていた。
■
「ガッ、ぁ——なんだ。殺す殺すと息巻いておいて、ひょっとして人が死ぬところを見るのは初めてか?」
「再生、した? なんだ、なんだよオマエ。なんなんだよその力」
「なにって、決まってるだろ。お前と同じ
意識が薄れ、急速に再生する。
切断した右足も、今や元に戻っている。ただし、泥に浸かったままその場に立っている以前の足をそのままに、膝とつながる新たな足はその一歩先に。
そう、歩けない泥沼ならば——足を引き抜けない泥濘ならば、そんな足は切り離してしまえばいい。そして前に伸ばした状態で死んで再生すれば、泥の中を実質一歩だけ歩いたことになる。
「泥を出てそこへ向かうまで、もう二歩ってところか。ああ、邪魔したけりゃ好きにしろよ。そっちが来てくれるんならオレも好都合だ」
「
「惜しいな。
ゴンッ、ゴンッ。
骨を打ち付ける硬い音。
左足を切断する。
首を刺す。
■
再生すると、また一歩前に出る。
まるで河を渡るよう。
「アンデッド……なんだ、そりゃ。は、はは……オマエ知ってるかよ、
「はあ。それは知らなかったな、
もはや衝動的な怒りや恨みなど、恐れによって消沈しているようだった。本当の
泥の沼を出るまであと一歩。
足を斬り落とし、首を突き刺す。
■
ラクトを追うようにして一歩進むと、泥を出た。服や靴は再生しないため、ずっと裸足だ。螺旋迷宮の地面はほんのりと温かい。
軽く振り返ってみれば、広がる泥の湖に、膝から下で切り離された足が三本突っ立っていた。ほとんどは泥に埋まっているので、一目でそれが人間の脚部だとは中々気が付かないかもしれない。
しかし一部始終を見届けていた周囲の者は、それがさっきまで永一の歩行を助けていた
フキジは恐れに目を見開き、リンシーは涙さえ浮かべて震え。
コハクは驚きもなく永一を見つめ、シンジュは複雑な表情で永一の助けになれない己を悔やむ。
「そ、そんな
「ああ。そうだな、一度だけ」
今の永一にとっての
つまるところ、永一はあの日やはり死んだのだ。体は無事でも精神が、魂がひしゃげて歪んでしまった。
だから今の永一は、怪獣災害の以前の永一とは別の心を持っている。それが具体的にどのような差異を生んでいるのか、自身で認識することは叶わないが、そう思う。
あの地獄に囚われ続けているからこそ、その体験が
「ひっ、来るな! た、助け……!」
「言ったはずだ、他人の命を奪うつもりはない。今度こそ武器を捨てて……あの泥沼も消せるなら消してもらおうか」
「……っ」
三度の意識を犠牲に泥を出た永一に、ラクトは顔面蒼白で頷き、今度こそ武器を捨てる。
なにをしても無駄だと理解したのだ。なにせ、殺すつもりでかかろうと、相手は不死。殺しても殺しても生き返るのだから、真の意味で殺すことは叶わない。
最終的に勝つ手段など、ラクトにはない。首を刎ねても心臓を刺しても、永一は涼しい顔で向かってくるだろう。そのことに気付いてしまった。
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