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 小学校での店を畳み、商売道具を詰め込んだ軽のワンボックスを駆って自宅に戻ると、家の前で、タイヤをスタッドレスに交換している敏行がいた。その隣に車を滑り込ませ、ドアを開けて降り立った麻衣は、彼の背中に向かって元気よく声を掛ける。

 「ただいまーっ」

 敏行はその手にクロスレンチを握ったまま振り返る。

 「お帰り。売れたかい? そっちの車も交換しちゃうから、キーは付けっぱにしておいて」

 そう言って再び、ホイールのナットを回し始める。

 普段はあまり気に掛けることも無いが、その後ろ姿を改めて見てみた麻衣は、何故だか胸がキュンとしてしまうのだった。今はテレワークで家に居ることが多いが、その仕事中の背中に注意を払ったことなど有っただろうか? いつの間にか、夫が元気で働いていることが当たり前になり、それがとても幸運なことであるということを忘れていた気がする。

 今日、小学校で交わした少年との会話を思い出し、麻衣はついつい優し気な言葉をかけてしまうのだった。

 「あんまり頑張り過ぎないでね」

 普段は口にすることなど決して無い、優しげな言葉に敏行がギョッとして固まる。猫に例えるなら、尻尾がブワッと広がった状況だ。そして恐る恐る振り返る彼の顔には、恐怖とも驚愕ともとれる複雑な表情が浮かんでいた。

 両目を真ん丸に見開いた敏行が、躊躇いがちに問う。

 「だ、大丈夫か?」

 「何が? 大丈夫だよ。中で夕飯の支度してるね」

 最後にハートマークが付いていそうなセリフに、戸惑いを隠せない敏行を駐車場に一人残し、家に入る麻衣。すると翔が、ソファにふんぞり返りながらスマホに熱中していた。

 最近、DTMとやらにハマって、色んな曲を打ち込んでいるのだという。

 「ただいま」

 そう言う母親にも翔は、スマホから目を放すことも無く、「おぅ」と言った様子で片手を挙げるのみだった。

 父親が表で額に汗して作業している時に、その態度は無かろう。「僕も手伝おうか?」の一言ぐらい言えぬものだろうか。麻衣はついつい、いつもの小言を漏らす。

 「あんたさぁ、スマホばっかやってないで、たまには女の子とデートとか、そういうの無いの? もう中学生なんだよ」

 すると翔は、やっとスマホから顔を上げた。

 「女の子ぉ? 面倒臭いよ。だって女の子って、何考えてるか判らないんだもん。急に怒り出したりするしさぁ。意味不明だよ」

 そりゃ、お前がイライラさせるからだろ? と言いたいところをグッと飲み込む。

 小学校で話した男の子との落差を目の当たりにし、息子の出来が違い過ぎると思わずにはいられない。

 「あんたからクラスの女の子に声掛けたりはしないの? 音楽の話とかさぁ。あんた数学とか理科が得意なんだから、その辺のところ教えてあげたりとかさ」

 「するわけ無いじゃん!」

 思った通りだ。それが良いんだか悪いんだか判らないが。あの男の子に持った第一印象のように、チャラチャラと女子のケツばっかり追い回してる男ってのも、考えものではあるのだから。

 まぁ、人それぞれか。翔は中学でブラスバンド部に入部して以来、音楽にドップリと浸かるようになった。音楽に興味を持つことは悪いことじゃないし。父親も大学時代はバンドを組んでいたらしく、息子の音楽への傾倒を、むしろ好ましく思っているようだし。

 「で? そのDTMとやらで、どんな曲を打ち込んでるの?」

 「まだ途中だけど、聴く?」

 「うん、聴かせて、聴かせて!」

 そうそう。こうやってクラスの女子にも聴かせて、「翔君ってすごーぃ!」などと言わせることが出来れば、まぁ合格点としよう。ガチガチのガリ勉でもなく、チャラチャラなチャラ男でもなく、そこそこ勉強が出来て、それでいて取っつき易い。そんな男子になってくれれば、それで良いのだ。なにもジャニーズに入らなくたって、生きていてもいいじゃないか。

 そして翔がスマホを操作すると、今打ち込み中の曲が流れ始めた。


 ♪チャララ チャララ チャララン

 ♪チャララ チャララ チャララン

 ♪チャララ チャララ チャララ チャララ…


 「ちょっと待った!」

 突然の停止命令に訳が判らず、DTMアプリのPAUSEボタンを押した翔が視線を上げると、顔色を失った母がそこに居た。

 「??? 何?」

 「そりゃ、ドラえもんか?」

 「そ、そうだけど・・・」

 静かに問う麻衣に合わせるかのように、翔も静かに答えたが、その言葉が終わらないうちに彼女の怒りが爆発した。

 「あんたっ! 一生懸命、何打ち込んでるのかと思ったら、ドラえもんかよっ!? 私はてっきり、ショパンとかモーツァルトとか、ラフマニフとか、もっと素敵な曲を・・・」

 「ラフマニノフね。そんなん、難しいに決まってるだろ? 言うほど簡単じゃないんだってば」

 「だからって、ドラえもんは無いんじゃないの、ドラえもんはっ!? あたしゃガッカリよっ! あぁ、ガッガリだわよっ!

 そんなもんで女子のハートをガッチリ掴めるわけ無いでしょっ!」

 「だから掴まないって言ってるじゃん!」

 「そんなんでこれから先、どうやって生きてゆくのよっ!」

 麻衣が叫び声を上げた時、タイヤ交換を終えた敏行が、呑気な顔で部屋に戻って来た。

 「あぁ、腹減った~」

 しかし今の麻衣は、空腹の夫の腹を満たしている場合ではないらしい。それよりももっと重大な事案が、正に今、発生中のようだ。

 「チョッと! 知ってた!? この子、ドラえもん打ち込んでんだよ! よりによってドラえもんだよっ!」

 すると敏行はポカンとした顔で、当然のようにこう応えるのだった。

 「ドラえもん? あぁ、知ってたよ。最初っから複雑な曲じゃ挫折しちゃうだろ? だから俺が『先ずはドラえもんとかにしたら?』ってアドバイスしたんだよ」

 その言葉に麻衣の怒りのステージは、第二段階へと移行した。

 「もっとマシなアドバイスしなさいよ! よりによってドラえもんって・・・ この子の将来、どう考えてるのよっ!?」

 「しょ、しょ、将来?」

 話の展開に付いて行けず、敏行は目を丸くした。

 「もう、あんたらの晩御飯はカップラーメンよっ!」

 「えぇ~。なんでだよ~」

 「やったぁ! カップラーメンだぁ!」

 「なんだとぉーーーっ!」第三段階である。

 「バカ! お前がそんなこと言うから、お母さんが怒るんじゃないか」

 「僕は何もしてないよぉ。急に怒り出したんだ」

 「マジか? 訳判んねぇな」

 「ホント、訳判んないよ」

 「あんたらも少しは女心を知れっ!」

 臨界を越えた麻衣の怒りの炎は、当分の間、治まることは無いであろう。

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