2

 店を彼女に託した麻衣は、煙の流れてくる方に向かって鼻をクンクンさせながら歩いて行く。

 だが考えてみれば、その姿はどう見たって犬そのものではないか。空港の麻薬探知犬さながらに、空中を漂う匂いを伝って歩く自分の姿に思い至り、麻衣は一人でクスリと笑ってしまうのだった。

 「ケバブか。悪くないわね」

 確かに串焼きなどは脂身が気にならないでもないが、ケバブと言えばヘルシーな赤身のイメージだ。三時のおやつとしては、こちらに軍配か。

 多様な店が軒を連ねるスペースから、少し離れた所にピンク色のキッチンカーを認めた麻衣は、雑踏を離れて足早に近付いた。「私の鼻も、まんざらではないわね」などと思いながら。

 そして、オーニングを張り出したキッチンカーの前に立ち、脇に掲げられた立て看板のメニューを確認する。そこには、見た目は日本の串焼きのような物から、トマト、香草と一緒に焼いたもの、或いはパンでサンドイッチにしたものとか、野菜炒めのようなものまで、様々なタイプのケバブ料理の写真が貼り出されていた。

 その中でもとりわけ、麻衣の食いしん坊センサーに強く反応したのは、ピタパンを開いて生野菜と一緒にケバブを挟み込んだ一品だ。これなら野菜も一緒に採れて、食べ応えも有りそうじゃないか。

 しかし、肝心の店主がいない。注文しようにも、店の人がいないのではやりようが無いではないか。

 「お手洗いにでも行ってるのかしら?」

 赤地に白の星と月が描かれた国旗の小旗が立つ注文口の前で、麻衣は暫く待ってみる。しかし人が戻ってくる気配は無さそうだ。仕方なく、今度は声を掛けてみる。オズオズと。

 「あのぉ~・・・ すいませ~ん・・・」

 すると注文口の陰から、ゴソゴソと物音が聞こえたかと思うと、中東系と思しき男が顔を出した。

 「なぁんだ。いるならそう言ってよ。私、誰も居ないのかと思って・・・」

 人種的なものだろう、褐色の肌を持つ男は「ゴ、ゴメンナサイ」と日本語で謝りながら立ち上がった。しかし直ぐにまた、ヘナヘナと崩れ落ちるようにして、注文口の陰へと消えてしまったのだった。

 「あ、あの・・・ チョッと! 何? どうしたのよっ!?」

 注文口に取り付いて、中を覗き込みながら叫ぶ麻衣の声にも、男からの反応は帰ってこない。

 目を丸くした麻衣がキッチンカーの裏手に回って中に入ると、なんと男が床に倒れているではないか。そして駆け寄って揺すり起こす彼女に、うっすらと目を開けた男はこう言った。

 「オ・・・ オナカガ スイタ・・・」

 「お・・・ おなか・・・ お腹が空いた? 今、お腹が空いたって言ったの!?」

 「オナカガ スイタ・・・」

 男は麻衣に抱き起されながら、また同じことを言った。

 それを聞いた麻衣は、なんだか腹立たしくなって、抱きかかえていた男を放り投げたのだった。

 「馬鹿じゃないの! 食べ物屋やってるくせに! 周りに幾らでも食べ物が有るじゃない! それ食べればいいだけの話じゃないの! 心配して損したわよっ!」

 放り出された男の後頭部は、床にぶつかってゴンと鳴った。その頭を押さえつつ、上体を起こした男が言う。

 「イテテテテ・・・ イマハ ラマダン ナノデス」

 「ら、らまだん?」

 麻衣は両目を瞬いた。

 「ソウ。イスラム ノ オシエニ シタガイ ヒルハ ミズシカ ノンデハ イケマセン デス」

 彼のたどたどしい日本語を頭の中で「イスラムの教えに従い、昼は水しか飲んではいけません」と再構築した麻衣は、ポカンと口を開けながら納得の表情を浮かべた。

 「あぁ~・・・ そういうやつね」

 確かに、そういう話は聞いたことが有る。それがイスラム教だったかヒンドゥー教だったかは定かではないが。

 麻衣自身、全くもって信心深いわけではないが、そういった信仰上の事案は、信ずる者にとっては如何なるものより大切なことなのであるということは理解しているつもりだ。

 「なるほど、判ったわ。ごめんなさい、放り投げたりして。頭、大丈夫だった?」

 心配そうに覗き込む麻衣を制するように、男は片手を挙げた。

 「ハイ モウ ダイジョウブデス」

 「大変ね、あなたたちも。私は仏教徒で良かったわよ」

 そう言いながらも、自分が仏教徒らしいことをどれ程やっているのかは、怪しい限りであると思わずにはいられないのだが。

 「ゴチュウモン ハ ナンデシタ デスカ?」

 「あぁ、注文ね。もう、何だったか忘れちゃったわよ。もう一回メニュー見るから、ちょっと待ってて」

 そう言ってキッチンカーを出た麻衣は、表の注文口にまでグルっと回る。そしてメニュー表を指差しながらこう言った。

 「あっ、そうそう。この『ケバブと生野菜のピタサンド』を一つ下さいな」

 男は元気よく応えた。

 「ピタサンド ヒトツ デスネ! ショウショウ オマチクダサイ!」

 その時であった。遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえたのは。

 振り返ると、こちらに向かって誰かが駆け寄って来るのが見えた。よく見ればそれは、あの『魔法の杖』の女性ではないか。彼女の方を見ながら、怪訝そうな顔で麻衣が言う。

 「あら? 何かしら?」

 ケバブ屋の男も首を伸ばし、注文口から顔を覗かせた。

 「サア? ナンデショウ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る