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右腕でRADIO FLYERを牽き、スマホを握った左手を耳に当てながら麻衣の姿を見つけた敏行が、目を丸くして吹き出した。
「ぷっ・・・ ぷぅあーーーっはっは! 何だよ! あんなに早起きして気合入れてたくせに、結局、ここかよ! わーーーっはっは」
「・・・・・・」
そこはクラブハウスの裏手に当たる、どう見ても劣悪な三等地だった。建物の陰で日も当たらず、タープなど要らぬではないか。店の前は車道ですらなく、建屋の周りを取り囲む通路でしかない。
「しょうがないでしょ~。色々有ったんだからぁ・・・」
「色々ねぇ・・・」
「私、決めたわ。店の名前『ラッキー・ドッグ工房』はやめて『ラッキー・キャット工房』にするわ。いや、いっそのこと『ビート・ドッグス(犬をやっつけろ!)工房』にしようかしら。
もうワンコ柄の生地なんて、絶対に使わないんだから」
ブツブツと呪文のように小言を漏らす麻衣を「くっくっく」と笑いながら受け流すと、敏行はワゴンから荷物を降ろし始めた。
「ワンコでもニャンコでもいいから、タープを張るのを手伝ってくれよ」
「ぶぅ~だ!」
不貞腐れながらもタープ張りを手伝う麻衣なのであった。
*
「オッケー。ザッとこんな感じかな?」
タープが風で飛ばないよう、ロープで押さえつける為の重しの位置を調整しながら敏行が言った。しょっちゅう、こんなことに付き合わされているので設営の手際は良い。
「うん、有難う。後は自分でやるから、早く帰って翔に朝ご飯食べさせてあげて」
「了解。んじゃぁ、折角だから、ブラっとその辺を回ってから帰るよ。どうせまだ開店準備の最中だろうけどな」
「判った。じゃぁ気を付けてね。あっ、お昼ごろ忘れないでね」
敏行は背中を向けたまま右手を挙げ、「了解」の合図を送りながら立ち去って行った。
夫の背中を見送った麻衣は、再び開店準備を始めた。
店の前面に折り畳み式のテーブルを広げ、その上に可愛らしい布であつらえたマットを広げる。そこには、敏行が日曜大工でこさえた小振りの棚を並べ、売り物である移動ポケットや布マスクの他に、ポーチ類(バネポーチ、化粧ポーチ、サニタリーポーチなど)を収納し、行き交う人々の目に留まりやすいように配置するのだ。
タープのフレームには細めのロープを渡し、S字フックを使ってポシェットやキッズエプロンなどをぶら下げる。春の入学シーズンを控えた頃ともなれば、ここに入学セット(上履き入れ、レッスンバッグ、体操着の巾着、給食袋など)がぶら下がることになるが、まだその時期には早いようだ。
そして最後に、タープ正面のフレームに『ラッキー・ドッグ工房』のプレートを下げ ──このプレートとも今日でおさらばよ、などと思いながら、麻衣はそれを引っ掛けた── 簡易店舗の完成である。
麻衣は店の前に歩み出て、少し距離を取ってその全容を確認する。
「よしっ。今日も可愛いぞ」
小さなガッツポーズを決めたところに、何故だか敏行が戻って来た。
「あれ? どうしたの? 忘れ物?」
そう問いかける麻衣に、敏行は少し興奮した様子で語るのだった。
「すっげぇカッコイイ店、見つけたよ!」
「へぇ、そうなんだ?」
「うん。針金で作った車とかオートバイが並んでるんだけど、それがすっげぇ精巧に出来てるんだ! YAMAHAのSRXなんて、めっちゃリアリティがあってさ!」
「そ・・・ それ、買ったんじゃないでしょうね?」麻衣の目がキラリと光る。
「まさか。まだ開店準備中だったし。でも、そこのオヤジと意気投合しちゃってさぁ。今、KAWSAKIのZ-IIを作ってるところらしいんだけど・・・」
「それ、買うつもりじゃないでしょうね!?」
麻衣はつい声を荒げてしまい、敏行は訳が判らず、目をショボつかせる。
しまった。そこまで気が回らなかったのは自分の落ち度だ。車やバイク好きの敏行と、あのオヤジの馬が合うのは必然じゃないか。別に旦那が誰かと仲良くなるのは構わないが、よりによってあのインチキなオヤジかよという想いは捨て切れない。
ただ、それで彼を責めるのはお門違いであることに気付いた彼女は、怒りに似た想いをグッと飲み込んで、自分の大人げない態度を謝るのだった。
「あっ・・・ ゴメン。わ、私・・・」
しかしその瞬間、あの一万五千円の武者人形の姿が頭を過る。それが、あれを大事そうに抱える敏行の姿を勝手に呼び起こし、やり場の無い怒りがムクムクと鎌首をもたげ始めた。終いには、そんな旦那の周りを、頭の悪そうなゴールデンレトリバーが楽しそうに走り回っているではないか!
「あははは。あははは」(←麻衣の心の中に渦巻く、敏行の笑い声)
そして遂に、鎮静化しつつあった彼女の怒りが、瞬時にして再燃する。いや、怒りの弾頭が起爆したのだ。
麻衣は自分の商品が陳列されているテーブルを、バンッと打つ。
「あんな武者人形、買うんじゃないよ、絶対! もしあんなもの買って帰ってきたら、家に入れてあげないからね! 判った!?」
「む、む、武者人形???」敏行は目を丸くした。
まだ開店準備中で、あの人形は陳列されていなかったのかもしれない。しかし麻衣の心中で燃え盛る義憤の炎は、もう後戻りできない程にその熱量を増していた。
男って、どうしてあんな無意味な物に執着するの!? バカじゃないの!? どうせなら、もっと使える物に反応しなさいよ! 例えば私の作るポーチとかさっ!
そもそも、なんで男は犬好きなのよっ! 私は猫が好きっ!
「いいから、あなたはサッサと帰って、翔に朝ご飯を食べさせるのっ! さぁ、行って! 叩くよっ! シッシ!」
野良猫でもあるまいし、旦那に向かって「シッシ」とは酷い仕打ちだが、敏行はコソ泥のように頭を抱え、スタコラサッサと退散したのだった。だって、このモードに突入してしまった麻衣には、もう何を言っても無駄なのだから。
その哀れな後ろ姿を目で追いながら、麻衣は鼻息荒く、いつまでも肩で息をしていたのだった。
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