3
翌月のとある日曜日。遂に決戦の日が訪れた。
「いい? 私は開門と同時に雪崩れ込んで、良い場所を確保するから、パパは後から荷物持って来てね。もし見つからなかったら、スマホに電話して」
たまの休日に朝の五時から叩き起こされて、怒る気にもなれない敏行が欠伸をかみ殺しながら返した。
「あんなに早起きしたのに、もう列の後ろの方じゃないか・・・ どうなってんだ、これ?」
「甘いこと言わないで! 早い人は徹夜で夜通し並んでるんだから。パパにそこまでさせなかったのを感謝して欲しいくらいだわ」
その徹夜で並ぶ仕事が、無条件で自分に割り当てられていることに異議を唱えたい衝動に駆られた敏行であったが、その想いはグッと飲み込んだ。それこそが家庭円満の秘訣であることを、彼は既に学んでいる。
「んで? 設営が済んだら、一旦、帰っていいんだな?」
「うん。冷蔵庫と電子レンジの中に朝ご飯が用意してあるから、翔の分も温めて二人で食べといて」
「ママの朝ご飯はどうするんだ?」
「お握りと水筒がその中に入ってるから、設営が一段落したら食べるよ」
と、敏行が引っ張っているRADIO FLYERのワゴンを指差した。
そこには売り物である布小物の他に、折り畳み式のテーブルや椅子。商品陳列用の小棚に加え、キャンプで使う自立式タープや、その固定に使うコンクリートブロックの重しなど、ありとあらゆるものが山積みになっている。言ってみれば、麻衣の商売道具である。
彼女が何処かのイベントで店を出す度に、この重量物の運搬作業は全て敏行の役割になっていた。
「お昼は?」
「うぅ~ん・・・ さすがに自分のお弁当まで作る時間は無かったんだぁ。お昼ごろになったら、コンビニとかで何か買って来てくれない?
あっ、門が開くよ! じゃぁ、後でね!」
臨戦態勢に入った麻衣は、拳を握って駆けっこの体勢になった。
その姿を見た敏行は、徒競走でスタートの合図を待つ小学生の姿を思い出し、思わず「プッ」と吹き出した。
「んじゃぁ、気を付けてね」
夫の気遣いの言葉を受けてもなお進行方向を見据えたままの麻衣は、小学生的な姿勢のまま真剣な顔で「うん」と頷き返す。
そして号砲が鳴った。いや、
ドドドドドーーーッ! っと駆け出す人々。麻衣はその人混みに飲み込まれながら、必死に走る。アスファルト敷きなので、濛々と砂埃を上げているわけではないが、おそらくその光景は大井競馬場辺りのスタートシーンと酷似していたに違いない。
何処かで大型犬が「バウッ! バウッ!」と吠えていた。この状況で犬を連れてきている奴がいること自体、理解に苦しむが、もうそんなことはどうだっていい。とにかく人通りの多い、クラブハウス付近のメインストリート沿いに場所を確保せねばならないのだ。麻衣は邪念を振り払いながら、周りに後れを取らないよう、なおも走り続けたのだった。
すると、右側から背の低いオバサンが体当たりしてくるではないか。丁度、道の左端を走っていた麻衣を、コース外に押し出そうとしていることは明白だ。
馬鹿にして貰っちゃ困る。こう見えても私は横浜生まれの横浜育ち。結婚前は満員電車に揺られ、毎日、丸の内まで通勤していたのだから、この程度の攻撃など日常茶飯事だ。群馬のオバサンなどに負けてなるものか。
麻衣はグッと腰を落とし、その圧力を跳ね返す。
しかしオバサンも負けてはいない。その反撃を予期していたかのように、今度は麻衣の脇腹に、脂肪で角の取れた肩をザクリと差し込んだのだった。そしてそこは、全ての人間にとっての弱点だ。
「あーーれーーー・・・」
急所を突かれた麻衣は呆気なくコースアウトした。群馬のオバサンを見くびっていたわけではないが、その熟練した一連の動きは見事としか言い様が無い。
麻衣が押し出された場所は、芝生の敷かれた円形のスペースだった。ゴルフ場の雄大な雰囲気を醸し出す為なのか、特に何か植物が植えられているわけでもない。暖かな季節であれば、そこにマットを広げてお弁当でも食べれば、ピクニック気分も盛り上がろうというものだ。
しかし今は、そんな呑気なことを言っている場合ではない。アスファルトから芝へと弾き出された麻衣は、その
この足場は不利と判断した麻衣は、転進してアスファルトへと戻る。そして一気に加速し、憎きオバサンの背中を射程に捉えたのだった。
「浜っ子のど根性をみせてやるわよっ!」
そしてインコースから宿敵に肩を並べようとした矢先であった。何かが麻衣の足元を横切ったのだ。
「バウッ! バウッ!」
何処からか現れたゴールデンレトリバーに足元をすくわれた麻衣は、再びコースを外れた。
「あーーーーれーーーーー・・・」
麻衣はもんどりうって、芝生の上に大転倒した。
大の字になった彼女に駆け寄ってきたのは、茶色い毛むくじゃらの物体だ。その物体にペロペロと顔を舐められながら、麻衣は思うのだった。
「空が高い・・・」
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