第23話
だけど大事なのはここからだ。
室内はすっかり夜色に染まりつつあり、いったん話を中断して夕食を食べた後、私とゼイデン陛下はまた話を再開した。
そしていつの間にやら部屋にはさっきまでいなかったはずのモーリス様と、夕食の片付けを終えたエリエスが扉横に控えている。とはいっても、私とゼイデン陛下の話しに入り込むつもりはないようだけど。
「――やっぱり納得はできないのですけど」
という私の言葉に、ゼイデン陛下は両肩をすくめると。
「もう決めたのだ。変更はない」
そう言って、紅茶の入ったカップに口をつけた。
「私が『ひなた』だからですか?」
それが一番ダメな理由だ。確かにさっき散々『過去』の話をしてしまってはいるが、そこは大事なプロセスだと思っている。お互いが前に進むためには、避けては通れない道だ。
だけどそれを乗り越えれば、もう私たちは互いを無理に引っ張り合うことはないはずなのだ。
それだというのに、こいつはぁ。
「それがないとは言わない。だが、私はユリシエル、そなたに決めたのだ」
「ですから、何でですかっ」
「これは国同士の問題でもある。一度決めたからには、そうコロコロと変更できるものではない」
「それはわかりますけどっ」
「それに、モーリスのやつがすでに『ユリシエル・ファムリシア・ソーデナブル王女との婚約が決まった』と、我が国に一報を送ってしまったのだ」
ゼイデン陛下はそう言うと、頭痛を抑えるように指先で自分の額をコツリと叩いた。
ゼイデン陛下のその言葉に、思わずモーリス様へと顔を向ける私。だが、モーリス様は私の恨めしい視線を全身に受け止めながらも、にっこりと笑顔で返してきて特に気にした素振りすら見せない。くっそう。
「だとしても、ちょっとした手違いで名前を間違えたとかっ。そういう言い訳くらいできますよねっ⁉」
「モーリスが送ったとなると、その言い訳もきかんだろうな」
「どれだけ優秀なんですかっ!」
と私が騒げば、モーリス様が「フッ」と自慢げに笑ったのを私は見逃さなかった。ほめてないっ! 今のは嫌味だからっ!
本当にどうしたらいいのか。
「私、まだ成人もしてないんですけど」
確かに前世の記憶はある。すごく鮮明に今の私が過去の私と重なり、どっちが本当の私かも分からないくらいに混ざってしまって、そのせいで記憶に引きずられて……正直に言えば、何が正しいのかさえ、よく分からなくなってくる。
「未来が見えた。と言ったら笑うか?」
ゼイデン陛下のその言葉にふと顔を上げて彼を見つめた。
両目を細め、柔らかく微笑むその顔に、ほんの少しだけ、私の胸を奥から誰かが叩いたような気がした。
「理由は未だはっきりしない。後悔の念なのか。懺悔なのか――ただ、私の隣で同じ年を重ねて、笑顔で私を仰ぎ見る君の姿が、はっきり見えた。だから、私は君に決めたんだ」
そう言うと、ゼイデン陛下はそっと私の手を握る。
「式を挙げるのは、君が成人を迎えた後でいい。その2年間、私にチャンスをくれないだろうか」
「チャンス……ですか?」
「私が君をどれだけ愛していたか、これからの人生できちんと向き合って愛していけるか、昔も今も、姿かたちが変わっても、私の心はただ君という存在だけを求めているんだといことを、君に信じてもらうために」
ゼイデン陛下の目はとても真剣で、私の胸が激しく反応する。『ひなた』であった時の記憶は否定的であるのに、私自身は一回くらい信じてみてもいいのではないかと思ってしまう。
そう思うと、私は私で、ひなたでもあって、その二人を切り離すことはできないし、そういうことでもないんだろうって、そう感じた。
「成人するまで……」
本当に、信じてもいいの? と『ひなた』は囁く。
私はじっと両目をつぶった。
思い出したのは『彼』と、最初に出会った時の記憶だ。
暖かくて優しい気持ちを思い出して、そして、私は『ひなた』に問うのだ。
あの時感じた気持ちは、どうだった? と。
私の中に暖かい気持ちや恋した時の強烈な思いがよみがえる。そう、彼を想っていたのだ。これが最後の恋だと、あなたに全部ささげてもいいのだと思うほどには……。
だからこそ、最後に一度だけ『彼』を許してあげてもいいのではないかと、やっぱり馬鹿な私は思ってしまうのだ。彼の隣で笑うのが『私』であるならば。
私は両目を開くと、ゼイデン陛下を見上げる。
「2年ですよ」
だけど悔しいから、私はそう言うと口をへの字に引き結んだ。きっとかわいくない顔をしていたに違いないのに、ゼイデン陛下は嬉しそうに笑った。
「十分すぎる時間だろ?」
なんて、私のほほをそっとなでる。
「2年後が楽しみですね」
なんて、嫌みっぽく私が返すと、陛下も『フッ』っと挑発的な笑みで口の橋を吊り上げた。
ほどなく、丸く収まった私とゼイデン陛下の婚約騒ぎもつい数日前のことになったある日の夜に、私は夢を見た。
夢には『ひなた』だった時の成人した私が現れて、こう言うのだ。
『今度は、本気で怒ってもいいよ』
と、笑う。
よく考えれば、私だって悪いところはあった。彼のせいにして自分を正当化するって、どっかで聞いたようなセリフさえ思い浮かんで、私は苦笑いが顔に浮かんだ。
『我慢も無駄な気遣いもいらない。本気でぶつかっていこうね』
ひなたはそう言うと、握ったこぶしを私へと突き出す。私がそのこぶしに自分のをちょこんと当てると、私の心の中にストンと何かが落っこちてきて、気が付けば、ひなたはどこにも居なくなっていた。
そしてふと目が覚めると、私は自室のベッドの上にいて、ゆっくり体を起こし時間を確認してみると、いつも起きる時間より30分ほど早く目が覚めたことに気が付いた。
「我慢なんて、もうしない」
同じ間違いは、もう二度としない。
「で、なんで、もうすぐ帰るって人が私の部屋に来てるんですか?」
朝の日課である蝶たちの餌やりが終わると、いつものように庭の椅子に腰かけ優雅にお茶を飲むゼイデン陛下に、私はじっとりした視線を向ける。
「そうだな。国に帰れば、しばらくは会えないからな」
そりゃ婚約はしたけど、まだ結婚しないんだからしょうがないじゃない。
「今月中にはパーティーの準備とかで私がそちらに伺うことになっていますが?」
そう考えると、私と会えないとは言っても数週間の話だ。何が不満だというのだろうか。
「ドレスは私が贈ろう」
「どうもありがとうございます」
私はそう返しつつ陛下の前に腰を下ろし、エリエスの用意してくれたお茶を飲むためにカップに左手を伸ばした。
「指輪はつけないのか」
私の左手を見つめた陛下が、ふとそう呟いた。
うん。実は私は指輪をしていない。
あの恐ろしい誓いの指輪なんて、2年後どうなるかもわからないのに、つけられるかっという理由で拒否したのだけど、代わりにと渡された普通の指輪があるのだがそれすらもつけていないのだ。つけない理由は特にこれといってないけど、まあしいて言うなら。
「サイズが少し大きかったので」
なにかの拍子に落としても嫌だな。と、思ったのが理由だ。
「サイズならすぐに直せる。持ってきてくれ」
ゼイデン陛下はそう言うと、エリエスへと顔を向けたが。
「いえ、私も成長期ですので、すぐにサイズもピッタリになるのではないかと」
そこに希望的願望が入っているとは言わないでほしい。
まあ、そういうわけで特に指輪をつけていない深い理由と言うのもないのだ。だから気にしないでもらいたいとは思うのだけど、ゼイデン陛下は『ふぅっ』っと、ため息にも近い息を吐き出すと、私の左手を掴む。
「こんなに小さい手がいくら成長しようと、太さが増すわけでもあるまいに」
「どうでしょうか?」
もしかすれば、私やゼイデン陛下が思うよりも逞しくなってしまうかも……なんて一瞬考えたが、さすがにそれはいろんな意味で切ないのでやめておいた。
だけど、指輪をするかどうかって言うのはさほど気になる問題だろうか? と首をかしげてしまう。
「そんなに気になりますか?」
そう思って聞いてみる私に、ゼイデン陛下は少しだけ眉根を寄せると。
「別に……」
そう返事をした。
(ふむ)
別にというわりには、若干顔が不機嫌そうなんですが、何でなんですかね?
その後もじーっとゼイデン陛下を見つめ続ける私だが、とうとう私の視線に耐え切れなくなったのか、ゼイデン陛下はすっとこちらに顔を向けたと思えば。
「嘘だ。すごく気になる」
と、どこか不貞腐れたような顔で、そう言った。そんな彼の態度と言葉に、私は小さく噴き出してしまう。
「自分の気持ちに正直なのはいいことでは?」
「どうだか」
こんな些細なやり取りでさえ、目の前の陛下と『彼』では違う反応をしてくれる。それがたまらなく嬉しいと思えた。
言いたくても言えなかった彼が、努力してくれる姿が嬉しくもあり切なくもあり、変わってしまうことの寂しさもあるが――。
私は席を立ち、座っているゼイデン陛下のすぐそばまで近づく。ゼイデン陛下は不思議そうに私を見上げていた。
そっとゼイデン陛下の両ほほを包むように手を伸ばす。私の手のひらから伝わる体温は暖かくて心地よい。
私は緊張で騒ぐ胸をなだめつつ、ゆっくりと彼の顔に近づいて、そっと触れるだけのキスをした。
ゼイデン陛下が一瞬、強張ったのが分かる。私は緊張で心臓が口から躍り出てきそうだ。
だけど、言葉でも、行動でも、伝えなければ伝わらないと、もう分かっているから。
ゆっくりと唇は離して、私は少し驚いたような顔で私を見上げる陛下に。
「私の初めてをささげるので、許してくださいね」
笑ってそう言った。
初めての口づけはどこかほろ苦く、どこか懐かしく甘酸っぱいものだなぁと、ちょっと照れ臭くなってきた私に、ゼイデン陛下が手を伸ばしてきたかと思うと、私の頭を抑えるように引き寄せて、もう一度、お互いの唇が重なる。
だけど今度は、触れるだけのものではなくて。
唇の間を割って入ってくる異物感に驚いて引こうとする私を、ゼイデン陛下は逃がさないようにと腰にもう片方の腕を回して強く抱きしめてくる。
味わうように交わされる激しい行為に、私の顔に熱が集まるのが分かった。さすがにここまでは求めてなかったんですけどっ! と、ツッコミたくても、口をふさがれている状態では不可能で。
初めてなのに懐かしい感触がして、鼻をくすぐる匂いさえ懐かしくて、だけどこれは私の『ファーストキス』なのだ。
でも初めてをあげるって言っちゃったしなぁ。なんて、互いの柔らかく暖かな感触に、私の背中が粟立つと同時に、怖いような、不安になるような感覚がする。だけど、それは決して嫌なものではなくて、彼の両肩にすがるように抱き着けば、彼は大きな両腕で私をしっかりと包むように抱きしめてくれる。
大丈夫だよと、そう言われているような気がして、苦しくなるような切なさと同時に甘くしびれるなにかが私の頭の中で混ざり合う。
それはとてつもなく気持ちのいい行為だった。私の頭の中身が全部溶けてドロドロになってしまうような感覚だ。
やっと唇が離れるころには、私は全身で彼に寄り掛かるようにしてくっついていて、だけど、この気持ちのいい行為をやめるのは実に名残惜しくて。
「もう、ちょっと」
少しだけかすれる私の声に、彼がピクリと反応した。互いの視線が交わると、彼は私を引き寄せて、さらには深く、激しく私の唇をふさいだ。何度も、何度も。
って、私は別にキスをしたかったわけじゃなくてだなぁ。
「顔がつやつやしてませんか?」
そんな私の言葉に、ゼイデン陛下はにやりと悪そうな顔で笑って見せる。
「『初めてを捧げる』という言葉は、なかなか刺激的なうえに興奮する。ぜひ、他の『初めて』も私がいただきたいものだと思っていたのだ」
「2年後にでも頑張ってくださいねっ!」
指輪の事に関しては機嫌が直ったのでよしとするが、かわいいファーストキスをあげようとしただけなのに、官能小説にでも出てきそうな濃厚なキスをされるとは思ってなかった私としては、恥ずかしさやら何やらと逆に複雑な気持ちになってしまったのだ。どうか察してくれ頼む。
「できることなら、全部自分の色に染めたいと思うのが男という生き物だ。特にベッドの上では」
「そこら辺の本音はオブラートに何十にも包んでから発言してください!」
前世の彼はここまでスケベではなかった気がするのだが、もう早速そのことは頭から追い出したいので思い出さないように細心の注意を払うしかない。
「だけど、変わった。よね」
もちろんお互いにという意味だが、彼は特にと言うか。
そんな私の言葉に、彼はどこか懐かしむような顔で口の端を少しだけ持ち上げる。
「本当は、ひなたと毎日でもしたかったよ」
「え? いや、キスだってあんまりしたがらなかったじゃん……」
と自分で言ってから、はっと気が付いてしまった。彼が幼少期より受けていた母親からの虐待のことを。
「そうだな。俺自身が、自分が汚くて嫌だったんだ。そんな俺が触れてしまえば、お前まで汚れてしまうんじゃないかと、怖かった。今思えば、そんなわけなかったのにな」
「カイ……」
「今だから言えるんだよ。きっと当時では、カイはひなたを幸せになんてできなかったはずだ。触れることさえ恐れていたカイには、きっと」
ゼイデン陛下はそう言うと、なた私のほほに手を伸ばす。優しく何度もなでつけて、切なそうに微笑んだ。
「だから今やっと、俺は『俺』の後悔するすべてを清算して、まともに愛したいんだ」
そう言って私のほほに触れたまま、両目を閉じるゼイデン陛下の姿は、まるで何かを祈っているようにも見えた。
だからと言うわけじゃないのだけど、私のほほに触れる手に、自分のを重ねた。
「隠し事はしないでくださいね」
私がそう言うと、ゼイデン陛下は目を開けて私を不思議そうに見つめ返してきた。
「きちんと言葉を交わしましょう。どんな些細なことでも、時々面倒になったりするかもしれませんが、自分の気持ちをきちんと、私も伝えますから」
それは過去の教訓。出来なかった私たちの課題。そして、これから私たちが越えていかなければいけない問題なのだ。
過去はもう戻らない。だけど、この先は過去の私たちではなくて、今の私たちが作っていくものだから。
私の気持ちが正しく伝わったかは分からない。それでも、ゼイデン陛下は優し気に笑って、しっかりと頷いてくれた。
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