第22話
前世の影響は多大に受けている。だから『ひなた』に惹かれたし、彼女以外の女性はありえないと思った。だが、だからと言って、ユリシエルという少女を蔑ろにしようなどとは思ったこともない。
彼女は『ひなた』でもなり、14歳の少女でもある。『俺』は確かに『ひなた』を追いかけていた。夢の中でも彼女に恋をして、今でも彼女の面影に胸が苦しくなる。
目をつぶれば見える『彼女』の笑顔も、泣き顔も、全てが愛おしく。狂おしいほど恋しくて。
この思いを塗り替えることはきっと不可能だと思った。
だけど今、両目を閉じると見えるのは、まだ14歳の愛らしい少女の顔だった。
私の気持ちは変わっていない。ユリシエルもひなたも同じ記憶と魂を持つ、同じ人物だ。
本当に? 彼女とひなたは同じなんだろうか?
ひなたに許されたかった。それは変わらず俺の中にあり、それと同時に、小さく頼りないあの少女の後姿を思うと、守ってやりたい衝動に駆られる。
結婚をするなら、物静かで頭がいいほうの姉でもなく、気が強く正義感の強いほうの姉でもなく、他の誰でもなく思いかんだのは、まだ成人さえしていないあの少女だ。
ありのまま素直な君に、私は否応なく惹かれた。
そう……『私』は、ユリシエル、君に惹かれたんだ。
生涯を共にするなら、君がいいと、そう思ったんだ。
時刻はもうすぐ夕方になろうとしていた。
色々と考えたり、エリエスに相談したりと、何かやっていたらこんな時間だが、まだ夕飯には少し早いし、大丈夫だろうと、私はゼイデン陛下が居るだろう部屋に向かい、扉の前に立つと大きく深呼吸をして、気持ちを引き締めるとドアを3回ノックする。
しばらくすると、ドアは静かに開き。
「これは、ユリシエル殿下」
そう言って私を出迎えてくれたのは、少し驚いた表情を見せるモーリス様だった。ちょっと気まずい。
「えっと、ゼイデン陛下は、いらっしゃいますか?」
気まずいとはいえ、ひとまず目的を告げなくては話が先に進まないというわけで、私はモーリス様を見上げてそう口を開く。すると、モーリス様はフッと薄く笑みを顔に浮かべて体を横にずらし、扉を大きく開けた。
「もちろん、いらっしゃいます。どうぞお入りください。殿下」
そう言って促されるまま、私は部屋に入った。
あの時見た部屋いっぱいのひまわりはもうなくなっているけど、テーブルに置かれた大きな花瓶にひまわりが3本ほど残されている。
「どうぞ殿下、お座りなってお待ちください。ただいま陛下をお呼びしてまいります」
モーリス様はそう言うと、この部屋のもう一つの扉へと姿を消した。
私はとりあえず落ち着くためにソファーに座ると、目の前のひまわりを見つめる。
何度見てもひまわりはやっぱり綺麗で、色々ぐちぐちと考え込んでいると、言い訳やら自分を守ろうとする言葉を探しそうになる自分が本当に恥ずかしいなと思えてしまう。
傷つくのは怖いし、真実を知るのはもっと怖い。誰かのせいにして逃げられたらとっても楽で、自分を正当化すればきっと気持ちもいいんだろうけど、それはみっともなくて、情けなくて、すごくかっこ悪いことで。
だからせめて、まっすぐに空を見上げるひまわりのように、私もそうありたいと思う。
そうやってひまわりを見つめていれば、扉の開く音が私の耳に入ってきた。布すれの音がこちらに近づいてきて、私の前のソファーがきしむ音に、私は顔を上げた。
「綺麗に咲いているだろう?」
私の目の前には、ゆったりとソファーに座りゼイデン陛下が満足げにひまわりを見つめている姿が見えて、私ももう一度ひまわりに顔を向ける。
「大変だったでしょね」
この世界にない花を作り出すのは、私が想像する以上に。
「私の記憶がよみがえってからだから、十数年か――まあだが、この花を見れば、その苦労も報われる」
「それは……約束のため?」
そう言ってゼイデン陛下に顔を向ければ、彼は私に顔を向けて小さく笑って見せた。
「ああ、当時は贈れなかったからな……」
「覚えてるとは思わなかった……その、ありがとう」
正直に言えば、嬉しかった。本当に。だけど……。
「でも、欲しかったのは、あの時だったんだよ? 今じゃない」
意地悪を言いたいんじゃなくて、約束を守ろうとしてくれたその気持ちは本当に嬉しかったけど、もう過ぎ去ってしまった『ひなた』の時間は、戻らないから。
「そうだな。これは俺の自己満足かも。お前が死んでから、ああ、いや『ひなた』な。居なくなった後に、初めて色々後悔ばっかりしてたから、それをどうにか取り返そうとしてもがいた結果、かもな」
私が死んでから、カイはどれだけのことを考えて、思ってきたんだろうか?
「悲しかった?」
私がそう聞けば、ゼイデン陛下は痛そうに笑って小さく、それでもしっかり頷いて見せる。
「いっそ心が壊れたほうがマシなくらいには」
「そっか……うん。そっか」
少なくとも、あなたの中で『ひなた』が特別になれたことは、嬉しいと思う。
「正直に聞かせてほしいんだけど」
ゼイデン陛下に言葉に、私は彼を見つめ返した。
「ん?」
「俺を許せない?」
彼の顔はやけに真剣で、こっちが少し面白くなる。
確かに――。
「浮気ばっかりだったし、一度も好きとか、愛してるか言ってくれなかったし、花はくれないし、旅行も行かずじまいだったし、なんかいい思い出なんてあったっけ?」
「うぅうん。確かに」
私の言葉に、彼はのどに何かをひっかけるように唸るとうなだれて見せる。だけどね。
「初めて恋をしたあの瞬間から、私はムカついて腹もたったけど、すごく幸せだったなって。今は思えるよ」
ゼイデン陛下は私の言葉にそっと顔を上げて、少しだけ驚いた表情を顔に浮かべた。
そりゃそうよね。さんざん許さないって怒って見せたもんね。だけどさ、気が付いてしまったんだよ。
「愛情の裏返しって、無関心だっていうでしょ? でも、私はどうしたって無関心でいられなかったんだ。だから、やっぱり『カイ』が好きで、一緒に過ごしたあの毎日が、私はたまらなく恋しいと思うんだ」
「ひな……」
「うん。当時カイに詰め寄って、全部を吐かせればよかったんだよ。全部吐き出させてさ、その後どうすればいいかを一緒に考えればよかったの。なのに私は捨てられるのが怖くて、待つふりをして逃げてたんだと思う。カイのこと、責められないよね」
そう思うと、私だって結構ひどい奴じゃない? 彼の抱えてる悩みとか全然聞いてあげようとしなかった。無理にでも聞き出せていたら、私がもっと、彼の中に踏み込めていたら、きっと最後は違う結末があったかもしれない。結果論だけど。
「いや、当時の俺では無理だったんじゃないかな。どうしたって言えないだろ? しかも自分が心底惚れた相手にさ、俺は母親に虐待されてました。なんて。今だから言えるんだよ」
「それはあるかも。でも、私が言いたいのは、私もあなたも、きちんと向き合ってこなかったってこと。今『もしも』を考えても答えは出ないだろうけど、問題だったのは、お互いに逃げることで何かを守ろうと間違った努力をしてしまったってこと、だと私は思うの」
一緒にいるって、きっと想像そりもずっと大変なのよ。頭のうらっかわまで見せられるわけでもないのに、何でも知りたがるのはきっとダメなことで、だけど大事な言葉はきっと何があっても伝えなきゃいけなくて、きっと私たちに足りなかったものって。
「私たちって、圧倒的に『言葉』が足りな過ぎたんだと思う」
会話ならいっぱいしてきた。だけどそれは、たぶん一番大事な部分を伝えない『足らない』会話だったんじゃないかって、今は思う。私はそう結論が出たけど、あなたは?
「そう、だな。俺も、伝えればよかった言葉があいっぱいあった」
私の言葉に頷いて、ゼイデン陛下は私をじっと見つめる。だけど、その瞳が見つめているのは私じゃないとわかる。
「愛してるも好きも、言えばよかった。本当に好きだったんだ」
ゼイデン陛下はそう言って、両手を組むと組んだ手の上に額を乗せる。私からは表情が見えなくなるけど、なんとなく、その声で彼の後悔が見える気がした。
「しわだらけになっても、ずっと一緒に居てほしかった」
「うん」
「置いていかないでほしかった」
「うん、ごめん」
「何度、死ぬことを考えたか」
「うん。それでも、最後まで約束を守ってくれたんだよね」
「それしかなかったんだ。もう、それしか……」
「だから、こうしてまた会えた」
私がそう言うと、彼はハッとしたように私を見上げた。
「ありがとう。会いに来てくれて」
私がそう言って笑って見せれば、彼はポロリと涙を流した。
彼が涙を流す姿なんて、前世でも私は一度も見たことがない。
彼はじっとうるむ瞳に私を映しながら、震える手で私のほほに触れた。大きくて暖かい彼の手のぬくもりは、当時の記憶を呼び覚ます。
「そういえば、一緒に寝るときいつもこうやって私の頬っぺた撫でてたよね?」
私の言葉に、彼が小さく笑う。
「毎回、これが夢じゃないかを確かめてた。目の前にいるお前がさ、本当は俺が作り出した妄想じゃないのかって、不安でさ。くすぐったそうに、俺にすり寄ってくるお前に、安心してた」
今この瞬間にも、本当にいろんなことを思い出す。
「あ、それじゃあさ。いつも電車で帰るとき、ずっと見送ってたのは?」
「お前、一回も振り返ったことなかったろ?」
「電車に乗って窓から外を見ると、帰る途中の後姿は見えてたんだよ。だから、私が改札を通った後もしばらく居るんだろうとは思ってたんだけど、なんでだろう? って」
「あーあれはだなぁ、うん、えっと……恥ずかしいから聞くなよ」
「あー、もしかして、私が恋しくなっちゃったとか?」
「聞くなっ」
思い出せばきりがないほど、当時の記憶は鮮明に、そして切なくも甘い恋の記憶を掘り起こした。
毎日が楽しくて、不安と憤りに腹を立て、彼との何気ない毎日に、私はただ幸せで。
私はゼイデン陛下と、まるで空白の時間を埋めるように、ずっと在りし日の思い出を話し続けた。
お互いの気持ちを確かめるように、当時の絡まった糸を解きほぐすように、嬉しかったことも悲しかったことも全部を混ぜ込んで、室内を照らすオレンジ色があせるまで、ずっと。
許すとか許さないとかじゃなく、互いの思いは確かにそこにあったのだと、確かめるように。
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