第16話



 不思議と、彼女との思い出は全部覚えている。ああ、もちろんそれ以外の嫌な思い出も全部だが。



 彼女が好きだというものは、何でも覚えていたかった。全部を知りたかった。甘いものが好きとか、桜が好きとか、彼女の好きだった音楽も、映画も、本も全部。



 彼女は様々なことを俺に教えてくれたが、俺が彼女に教えてやれるようなことは少なかったように思う。そもそも俺は、『好きなもの』がほとんどなかったから、教えたくても出来なかったという方が正しい。



 だから、彼女が好きだというものが、俺にとっても好きなものになっていった。同じものが好きだと言った俺に、納得できないような顔を見せることもあったが。



『んーー。でも、カイも好きなんだ。嬉しいなぁ』



 なんて、気の抜けた顔で笑ってくれることが、俺は泣き出したくなるほど嬉しかった。



 そう言えば、たいして長くもない『誡斗』という俺の名前を、彼女はなぜかあまり呼ぶことはなかったな。いつも『カイ』と呼ぶものだから、俺の名前を忘れたんじゃないか、なんてからかったら。



『覚えてますからっ! だってみんな呼び捨てで呼んでるじゃんっ! 私だけの呼び方をしたかったの!』



 そう言って少しだけ、いじけるような顔を見せた。



 そんな彼女が、俺は愛しくてたまらなかった。ああ、いつだってお前だけが特別だよ。それは嘘じゃない。だから俺は言葉の代わりに、彼女をただ抱きしめた。彼女の名前と同じ暖かな陽だまりのような彼女を、俺は抱きしめずにいられなかった。






「まったく、興味深いお姫様だな。ユリシエル殿下とはいったいどういう方なのか、調べれば調べるほど面白い」



 起き抜けに、ベッドから体を起こした俺の目の前に――正確にはベッドの横だが――モーリスが備え付けの椅子に腰を下ろして俺を見ていた。



 今の時間を確認すれば、毎朝ユリシエルの部屋に行く時間より2時間ほど早い。俺は何でこんな早くにたたき起こされたんだ?



「モーリス、せめて顔を洗わせてくれ。寝起きで頭がぼうっとするんだが……」



「たるんでいる証拠だな。ここが前線ならお前は我が軍を危険にさらしていることになるぞ。シャキッとしろ」



 モーリスはそう言うと、軽く俺を見下すように目を細めて見せる。なんなのコイツ。何で朝からお前の嫌味を聞かされないといけないんだよ。軽くイラついたぞ、おい。



「言わんとすることは分かるんだがな、ここは敵地じゃないんだって言ってんだよっ。お前の脳内どうなってんだっ」



「どうって、おかげで目は覚めただろ?」



 俺のイラつきをふまえた上で、モーリスは意味ありげにニヤリと笑ってそう言った。



 こ、い、つ。



「起こし方ってものがあるだろうが、俺は穏やかな目覚めを求めてはいかんのか?」



「俺に添い寝でもしてほしいのか?」



「殴るぞ」



「冗談だろ? 余裕を持てよ」



 なんて、モーリスは楽しそうにくすくすと笑う。こいつと言葉遊びをしても勝てる気がしない。



 俺はわざとらしく大きくため息を吐き出すと、顔を洗うために部屋を移動した。



 この間はうっかり、着替えを手伝うと言ってきた侍女を部屋に入れたせいで大変な目にあったが、モーリスが居るということは多分、侍女を追い返した後だろう。



「変わっているという噂は聞いていたが、聞けば聞くほど不思議な方だな」



 俺が元の部屋に戻ってくると、モーリスがそう話し出す。



「ユリシエルか」



 起き抜けにモーリスが話していたことの続きだろうと、俺は返事をしながら今日の仕度を始めた。



「お転婆といえば、まあ年の近い兄がいるのだから納得もできるのだがな。俺が思った以上に自由奔放な方のようだ……赤い上着を着るなら俺はそっちの白い方がいいと思うぞ」



 黒いシャツを着ようと手を伸ばしかけて、モーリスの言葉で一瞬手を止める。うむ。確かに。



「末子というのもあるんじゃないか?」



 濃紺のズボンに黒のブーツを履き、上着を羽織ると留め具用のピンで迷う。金のやつがいいのか、こっちの月の石が付いたものがいいか、そう思って二つを手に取り、モーリスに見せる。



「それもないとは言わんが、あの方の場合はそう言ったわがままの類とは少し違うように思う……そっちだな」



 モーリスは月の石が付いている方を指さした。



「賢い姫ではある。好奇心も旺盛だ。あの年ごろの娘ならおかしいことではないだろう。まあ、ただアンバランスではあるな」



 ユリシエルは確かに年相応の少女とはいい難い、背伸びをしたい年頃ではあるだろうが、彼女にはそう言った無理やりな感じがない。逆に、何かを抑えているような印象すら受ける。だから少しアンバランスにも見える。



 やっと支度も終わりソファーに腰を下ろすと、モーリスは俺の後ろに立ち、俺の髪を直し始めた。寝ぐせでも付いてたか?



「そう思うのも無理はないだろうな。俺も同じように思う。何しろコナのパイの発案者で、魔光虫の光の原理を独自に調べた方だ。あれは昆虫学者たちが目をひん剥いて驚くだろうな」



 俺の髪を直して満足した様子のモーリスは、やっと俺の向かい側に腰を下ろして楽しそうにクククと笑った。そう言えば、こいつは頭の固い学者連中が嫌いだったな。



「砂糖水を与えるなどとは誰も思いつかないだろうからな。彼女の発想はどこか違う」



 俺がそう返せば、モーリスは一つ頷き。



「そう、まるで『初めから知っていた』ような行動だ。だが、そう考えれば全てに納得がいく。お前が作らせた『水まんじゅう』を知っていたこともな」



 そう言うと確信をもって口角を上げた。



「間違いないと思うか?」



 自分の口から出た言葉に、俺自身がおかしく思った。そんなこと、人に確認するまでもない。



「お前はどう思うんだ。ゼイデン」



「そうだな……聞くまでもないことだよな」



 俺は、やっと見つけられたのだろうか。だが、もしそうだとして……もう一度、彼女が俺を見てくれるとは限らない。



「はぁ~。おいヘタレ。この世の終わりみたいな顔をするんじゃない。子供の時からイカレタお前の妄想に本気で付き合っている俺が居るんだ。お前は『前世』の過ちを清算したいんだろ?」



「……ああ」



「だったら、俺に任せておけ」



 モーリスはそう言うと、珍しく優し気に微笑んで見せた。



 両親にも言えなかった俺の秘密を、モーリスだけは知っていた。もちろん俺が話したのだが、それだけ、こいつはずっと俺のそばに居たということでもあるが、モーリスも俺も一人っ子だったから、自然とそばに居ることが増えたのかもしれない。



 兄弟のように育ち、様々な秘密を共有することで、俺たちはより親密なつながりを持っていった。そのおかげで、『前世』の記憶も打ち明けることができたのだが、最初に俺から話を聞いた時、半信半疑だったに違いないが、見た夢の内容を幾度となく話していくうちに、なぜか信じてくれるようになった。



 しかも彼女を探すのを手伝ってくれるというのだから、意外と人のいいところもあると思ったものだが、こいつの場合、俺がどんな女を連れて来ても首を縦に振らないと見越してのことだろう。



 早く嫁を貰えと城の者たちにせっつかれても、どうしても他の誰かは受け入れられない。どうしようもないわがままを言っている自覚はあった。



 俺が死ぬまでに見つからなければどうするつもりだったのかと、そう責められても何も言い返せない。まあ、最悪はモーリスにさっさと結婚してもらって、その子供を次期皇帝に据えることまで考えていたくらいだしな。



「では早速取り掛かるか」



 突然、モーリスはそう言うとソファーから立ち上がる。



「は? 何を始める気だ?」



「お前はいつも通りユリシエル殿下と親交を深めてくればいい。俺はこれから交渉と、色々準備がある。エリエスだったか……あの侍女を落とすのは骨が折れそうだな……」



 モーリスはそうぶつぶつとつぶやきながらさっさと部屋を出ていってしまう。



「いや、本当にお前、何する気なの……」



 という俺のつぶやきは、静まり返った部屋に寂しく響いて溶けていった。



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