第4話



 うるさい人の声も、サイレンの音も、降りしきる雨の音さえも、すべてが意味をなくし、どこまでも遠くに聞こえた。



 彼女から流れる命が、刻一刻と彼女の時間を容赦なく奪っていく。



 俺には何もできない。もう名前を呼んでもあの優しく暖かな声は返ってこない。



 くだらない俺には勿体ないほどに、穏やかで優しい女性だ。



 俺なんかと一緒に居ちゃいけないほど、傷つけてでも別れるべきだった。だから、たくさん傷つけた。傷つけたんだぞ? で? 結局、俺は捨てないでくれと、いつも彼女の優しさに縋りついたんだ。



 別れるべきだと? そんなこと、出来やしねぇだろうが。俺が依存してんだから。



(俺を置いていかないでくれ)



 一目惚れをしたと言って俺に近づいてきた彼女。



 何も変わらない。いつも通りだと思っていた。俺に近づいてくる女は、決まって俺の顔が好きだと言って、ただ隣にいることを強要するだけ。俺に求められてるのは、ただ『自分を気持ちよくしてくれるなにか』であって、俺自身じゃない。



 だから、自分のイメージから少しでも外れると、女どもは途端に俺から興味をなくした。だから俺も『自分が気持ちよくなる』ためだけに彼女らを使わせてもらった。



 それがいつもだ。そんなものだ。だから何も変わらない。そう思っていた。



 だけど、彼女は違った。



 彼女は俺を一生懸命に見ようとしてくれた。俺を知ろうとしてくれた。好きなこと、嫌いなこと、一緒に過ごす楽しさや、嬉しさを教えてくれたんだ。胸のあたりが温かくなったり、酷く、鈍く痛むということも。



 だがこんな俺には自慢できるようなことも、彼女が喜びそうなこともひとつも持ってなくて、彼女の質問には何一つまともに答えてあげられなかった。だって、俺はその答えすら持っていなかったから。



 何よりも俺は、彼女にだけは『本当の俺の姿』を知られたくなかった。本当の俺を知ったら、俺の汚い過去を知ったら、いくら彼女でも受け入れてくれない。誰より俺が自分を嫌いなんだから、当たり前だ。



(もう2度と傷つけたりしない)



 愛しているなんて、俺の口からは言えなかった。信じてもらえないと思ったんだ。



(どうか、連れて行かないでくれ)



 誰かを代わりに抱いても、自分が汚れていくだけだと知った時には、もうすでに手遅れだったし、初めから俺なんて汚物まみれだ。彼女に会う前から俺は汚い生き物だった。だから……だから、なんだよ。



(彼女を取り上げないでくれ)



 救急車に担ぎ込まれる彼女を、俺はただ見送るしかなかった。



(次こそは絶対に、幸せにするから――)







 暖かな光で目を覚ました私は、自分がいつもの寝間着を着ていることに驚いた。夕べはすっかりドレスを着たまま寝てしまった記憶があったのだが。



「手間のかかるお姫様ですね」



 と、カーテンを開けながらエリエスが笑っていたので、なるほどと納得してしまう。



 この有能な侍女は私を起こすことなく着替えさせる術を身に着けていたらしい。魔法を使ったのかもしれないが。



「ではこれから朝食の用意をしてまいります」



 エリエスがそう言っていったん部屋を出ていく。



 私はエリエスを見送ると、一先ず上着を羽織って窓際に置かれている小さなテーブルへと向かい、魔光虫たちのご飯を用意する。ご飯と言ってもただの砂糖水なのだが、彼らも気に入ってくれてる――朝に用意した砂糖水は昼くらいにはなくなっているからたぶん気に入ってると思われる――らしいので、1日3回砂糖水をあげるのが私の日課だ。



 蝶たちのご飯を作り終えると、窓を開けて庭へと出る。するとふわりふわりと私の周りに蝶たちが集まりだした。毎日ご飯をあげる特権だな。なんて、ちょっと得した気分になるが、ご飯を移し替えると私から離れちゃうんですけどね。



 と言うわけで、ひときわ大きな常緑樹に備え付けてあるお皿に、蝶たちのご飯を移し替えようと木に近づいた私の耳に、エリエスの慌てたような声が聞こえてきて。



「お、お待ちくださいませっ!! ユリシエル様はまだお仕度も整ってはおりませんっ!」



 何事かと振り返る。



「いつでもいいと言ったのはそちらの姫だが?」



 あーーこの男の声は……と、声の正体に見当がついたと同時に私の口元がひきつったのが分かる。



「なっ! それでも最低限の礼儀と言うものがございますでしょうにっ!」



 そうだ、そうだっ。もっと言ってやれエリエス! こっちは朝ごはんも食べてないんだぞー! とは思ったものの、このままでは外が騒がしくて仕方ないので、蝶たちにご飯を与える前に、私はまた窓から部屋に踵を返し騒がしい扉まで行くと扉を開けた。



 案の定、朝一番には見たくなかったゼイデン陛下と、それを必死で止めようとするエリエスが急に開いた扉に少し目を開いて驚いて見せた。



「確かに、私がいつでも良いと言ったのです。このような姿で申し訳ございませんが、よろしければお入りになってください。それに、これから丁度、魔光虫たちに食事を与えるところなのですよ」



 と言って、扉を大きく開ければゼイデン陛下は私の右手を取り軽く唇を付けた。いやいや、本来の立場からすれば、私があなたに礼を取らないといけないんですがね。



「それは丁度良いタイミングだった。私の非礼を許してくださった優しい姫君にも感謝しよう」



 わかったからさっさと手を離せ。と心で悪態をつきながらも私は鉄壁の笑みでもってゼイデン陛下を部屋に通した。



「申し訳ございません。ユリシエル様」



 それはとても小さな声ではあったけど、エリエスがそう言って深々と頭を下げるので、こっちの態度にも苦笑いが出そうになる。私が勝手に通したんだから、エリエスが謝ることじゃない。



「大丈夫よ。せっかく戻ってきたばかりだけど、お客様にお茶をお出ししてくれる?」



 私がそう頼めば、エリエスは深く頭を下げ「すぐにお持ちします」と言って、さっと廊下を速足で戻っていった。



 さて、面倒くさいが。仕方ないと息を軽く吐き出し、いったん部屋の扉を閉めると振り返ってゼイデン陛下を見上げる。



「そちらの窓から外に出ますとすぐに『蝶』たちが集まってきますよ」



 そう言うと、ゼイデン陛下は驚いたように私を見つめた。



(なに? なんか変なこと言った?)



「今、なんと?」



 と聞き返され。



(あ……そうだった、この世界では蝶々じゃ誰も分からないんだわ)



 この世界では前世の時と見た目が同じなのに、名前が違うものが結構あり、それを忘れてつい間違えて呼んでしまうこともしばしば。頻度は減ったものの、もっと注意しないとなぁ。



「いえ、魔光虫は外におりますので、そこの窓から外へどうぞ」



「あ、ああ」



 と返事はするものの、ゼイデン陛下は私を見つめたまま動こうとしない。



「魔光虫を見にいらしたのでは?」



 と首をかしげて見せる私に、ゼイデン陛下はどこか気のないような返事で、私に背を向けて窓から外へと出る。私もそれに続いて外に出て、今度こそ蝶たちのご飯を備え付けの器へと移した。



「昨晩は言い忘れておりましたが、実は特別な世話などはしておりません。こうして日に3度、水で溶かした砂糖を与えているだけなのです」



 今日も元気に蝶たちはご飯に群がっているな。うんうん。元気ならいいのだ。



「先ほど君が言った……」



「はい?」



 後ろから聞こえた声に振り替えると、何か複雑な顔で口を開きかけたゼイデン陛下は、軽く首を横に振ると「なんでもない」とすぐに言いなおして、私に作り笑いを見せた。



 何だかよくわからないが、何でもないなら別にいいや。この人のことを掘り下げて聞きたいとはこれっぽっちも思わないし。



「よろしければ、そこの椅子にどうぞ」



 私が笑顔で庭のイスとテーブルをすすめれば、ゼイデン陛下は同じように笑顔で。



「では遠慮なく」



 と答えて自分から一番近い椅子に腰を下ろした。



 着替えてきたいのは山々だが、ゲストを一人で庭に残すのも気が引けるし、せめてエリエスが戻るまではここにいるか。と、私もゼイデン陛下の向かいの椅子に腰を下ろす。



「話に聞いていたよりも美しいものだ」



 虹光虫を視線で追いかけながらゼイデン陛下が言うので、私もそちらに視線を向ける。ほとんどの蝶が今しがたあげたご飯をモリモリ食べていて――飲んでいて?――、蝶たちがひとところに集まっているあたりは、やはりほんのりと光っていて綺麗だった。



「ラベス帝国には、居ないのですか?」



 会話を切り出してくれてこちらとしては大助かりだ。これに乗っからない手はない。



「いや。居ないことはない、と思うが、魔工学が広まって以降、手付かずの自然が少なくなっているせいだろう。まず街中や都市部近郊の林でも確認出来ていないらしくてな」



「そうなのですか? それは少々残念なことですね」



 確かに、虫とかって自然のないところから逃げちゃうかもなぁ。



「ああ、植林などもすすめてはいるが、いなくなった虫や動物たちが戻るのはだいぶ先だろうな」



 へぇ、さすが皇帝だけあって、将来のことも視野に入れたことを既にやってるんだなぁ。なんて感心してしまう。だから、フォローと言うわけではないが、他の話題もふってみることにした。



「ですがラベス帝国の魔工学はすごい技術だと兄さまたちから聞いたことがあります。魔道核と言うものを使って、オートマンと言う兵器? 兵士をお作りになっていらっしゃるとか」



 つい先週、後学のためにと3番目の兄が勉強しに行った時の話を聞いたばかりだ。



 そんな私の言葉に、ゼイデン陛下は少しだけきょとんとした顔を見せた後、テーブルに頬杖をついて面白そうに私を見つめ返してきた。



「姫のような少女に興味を持ってもらえるような華やかさはまるでない物だが、そう言うことに興味がおありか?」



 と聞かれて、なんかその態度と物言いに面白くない気分にはなったが、うまく取り繕って顔に笑みを張り付けて見せた。



「難しいことはよくわかりませんが、興味はあります。魔道核があればオートマンのデザインは無限で兵士だけではなく、他の様々な用途にも応用されているのだとおうかがいしました。私が聞いた中で一番興味を引かれたのはサポートマン、でしたか。簡単な作業を手伝ってくれるオートマンが帝国にはいっぱいいるのですよね? 体の不自由な方々の補助をしてくれるオートマンが居ると聞いた時は本当に感動いたしました」



「他にも、町の至る所の点検や軽度の修復なら出来るように設計されている物もある」



 そう言ってゼイデン陛下は、それは自慢げに話して見せる。でも今度はその態度に嫌な気分にはならなかった。だって、これは確かに自慢していいレベルだし、魔工学については帝国以上に進んだ国はないと言ってもいい。



 事実、私は初めて兄さまから聞いたとき、兄さまを困らせるくらいには質問攻めにしたくらいだ。



「掃除をしてくれたり、建築や運搬の仕事をしてくれる物もいるのですか?」



「ああ、今の課題はオートマンたちに魔法を使わせることだ。そうすれば医療法面でも役に立つはずだ」



「すごいですねっ! 実はそれで気になっていることがあるのですが」



「なんだ?」



「オートマンの稼働時間はほぼ1日とうかがいました。ですが兵士として動かすならば、1日だけのエネルギーでは足りないのではないかと。それに、行動の途中でエネルギーが切れた場合はどうなるのでしょうか? 魔道核がいっぱいあるのですか? それとも魔法士の方々が魔力を補充するのでしょうか? それに魔道核はとても重いものだと聞いたことがあるんです。オートマンたちは自分で使う核を運ぶのでしょうか? それとも――」



「姫様、そのようにたくさん質問なさっては、皇帝陛下が困ってしまわれますよ」



 と言うエリエスの声に、はっとなって私は慌てて口を噤むが、もう吐き出してしまったものは戻らない。やっちまったぁ。とうなだれる私をよそに、エリエスは私たちの前に紅茶を置き、焼き菓子を入れたお皿を置く。



「いや、好奇心の強い姫であることは聞いていたのでな。問題ない」



 ゼイデン陛下はそう言うと、特に気にした様子もなく紅茶に口を付けていた。若干焦ったが、ゼイデン陛下の変わらない態度に一安心だ。これで気分を害されでもしたら、ハリス兄さまとの賭けが初日から終わっているところだった。



「ようございましたね。ユリシエル様」



「まったくですね」



 あからさまに安堵した私の姿が面白かったのか、ゼイデン陛下はくすくすと笑いながら私の質問に答えてくれた。



 国の防衛やらなんやらに引っかかるので詳しくは言えないが、と言うのが前提だがわりと色々教えてくれた。例えば、魔道核はそもそも大きさや重さは自由に変えられることや、魔道核の大きさがエネルギー量とは比例しないことなどなど。





 ひとしきり話をした後、やっと私の部屋から出て行ったゼイデン陛下を見送り、私は着替えを済ませると昼だか朝だかわからなくなった食事をいただく。まったく、不本意ながら大変面白い時間だった。



「なぜか悔しい」



 もしゃっとバターブレッドに噛みつきながら文句を言う私に、エリエスはおかしそうにコロコロと笑って見せる。笑うことないじゃんか。



「大変お優しい方でございますね。少々尊大な部分が気になるところではございますが。あの若さで一国の皇帝ともなれば、必要な尊大さもあるのでございましょうね」



「そうね。代わりは居ないものね」



「ですからお世継ぎが急がれるのでしょう」



 そうだよ。本来の目的は嫁探しであって、魔光虫はそのついでなんだろうから。



「それなら私にかまってないで他の姉さまたちと親睦を深めればいいのに」



「あの方とのお話は楽しそうでいらっしゃいましたのに、お嫌いなのですか?」



「顔が好きじゃない」



「あらっ。まあ。それは見目麗しくていらっしゃいますのに」



「父様のほうが素敵」



「ほほほっ。それは陛下がさぞお喜びになられますよ」



 まあ世のパパさんたちは、娘に「パパカッコいい」って言われたらそれは嬉しいでしょうな。



 彼の声や顔、仕草、本当に似すぎていて気持ちが悪い。我慢できたのは考えないようにしてたから。



 少しでも意識してしまえば、叫びだしてしまいそうだったから我慢するしかなかった。



(楽しいと思った……それが何より気持ち悪い。まだ『好き』なつもりなんだろうか。私は……)



 一番気持ち悪いのは、今でも自分の心に彼を住まわせている自分自身だ。



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