第2話 第一王位継承者

 苦戦すること三十分。ようやくそれらしき装飾の施された扉を見つけたアレクサンダーは、膝に手をついて嘆息した。


「なあ、ここ、皇帝の部屋で合ってるか?」


 近くにいた護衛に声をかけると、いぶかしげな様子でアレクサンダーを眺めてきた。


「アレクサンダー・シャッテンか」

「そうだが」

「なぜ案内役がいない?」


 エリスの処遇を想像して、「後でわかる」とあえて言葉を濁した。護衛は眉間に皺を寄せたが、渋々皇帝の居室の扉を叩いた。


「皇帝陛下、アレクサンダー・シャッテンがご謁見に参りました」


 高らかに護衛の男が言うと、自ずから扉が開いた。アレクサンダーは単身で皇帝の居室に足を踏み入れる。


 しかしそこで待っていたのは、空の玉座と、ひとりの男だけだった。彼は儀式用の服に身を包み、ヘルムを深く被って佇んでいた。年はアレクと同じくらいだろうか。


 彼はアレクの姿を認めると、ゆっくりと口を開く。


「お待ちしておりました、アレクサンダー=Kクローネ・ブリッツェン殿下」


 彼の発言に、思わず目を見開く。封じられていた記憶が、突如息を吹き返してアレクの脳内に蘇る。


「ど、……うして俺の名を」


 アレクが本来持つ「ブリッツェン」の姓――それは、ムート帝国の同盟国・ブリッツェン聖王国の王族であることを表していた。


 しかしアレクは七年前、その魔力を受け付けない体質がゆえに、第一王子であるにもかかわらず王室から追放された。そして彼はスラムに捨てられ、その姓を名乗ることを禁じられた。


 シャッテンは共に追放された異母妹の母親の姓だ。本当の母親の姓を名乗ることは、許されなかった。


「あなたの母親であるアンネ・シャッテンから情報を仕入れました。われわれはその見返りとして、彼女に新しい名、新しい身分を与え、亡命を許しました」


 彼は優しく微笑む。アレクにはその笑みが、ひどく残酷なものに見えた。


「売られたんですよ、あなた」


 今まで、何度も裏切られてきた。それでも母親だけは、血のつながりはないけれど彼を守ってくれるような気がしていた。しかしそれは、平和な希望でしかなかった。


 信じていた母親に裏切られたのだと知って、アレクは膝をつく。それでも目の前の男は遠慮なしに、申し出を突きつけてくる。


「僕の名はユリウス・フォン・エーデルシュタイン。この国の宰相です。今日あなたを呼んだのは、どうしても聞いてほしいお願いがあったからです」

「……それを聞いて、どうなる」

「それはもう、何でも好きなものを差し上げましょう。宰相と皇帝の座以外はすべて」


 そんなことを言ってはいるが、先日まで続いていたスラムでの暮らしは二度と戻らないと突きつけられたばかりだ。アレクはたとえ願いを叶えたとしても、何も願わないだろうと思った。


「では、奥へ」


 エーデルシュタインがドアを開ける。


 何も得られるものがないと知っていてもその後についていったのは、きっと、彼についていけばこの最悪の状況が変わると思ったからだろう。アレク自身も自分の感情を整理できないまま、皇帝の居室の奥へ進んだ。


 そこにはたくさんの侍女らしき女性が、天蓋付きのベッドを取り囲んでいた。エーデルシュタインが「謁見いたします」と声をかけると、侍女が彼の前から退いていく。


「この方が第十三代ムート皇帝、ヒルデガルト・アダーリ・フォン・グルック・フルート=ヴィレシュタット……ヒルデガルト二世にあらせられます」


 エーデルシュタインが指示した先にいたのは、ベッドに横たわる若い黒髪の女性だった。


 青白い肌を赤く染め、滝のような汗で枕を濡らしている。見ようによっては煽情的な状態だった。なにか呪いがかかっているらしく、彼女の胸あたりにわずかに赤く光る魔法陣が見えた。


 エーデルシュタインの声に反応してわずかに目を開けると、海のような青い目でアレクを見た。


「ああ、ユリウス。この方が、わたくしの呪いを解いてくださるの?」


 ヒルデガルトはかすれながらも美しい声で、エーデルシュタインに話しかけた。彼はええ、と頷くと、アレクのほうを見た。


「さあ、アレクサンダー殿下。かの国に伝わる魔術〈エリクサー〉を彼女に」


 その場の誰もが皆、アレクのことを期待を孕んだ目で見ていた。


〈エリクサー〉は彼の言うとおりブリッツェン聖王国に代々伝わる魔術で、アレクも幼いころ術式をそらんじるまで教えられた。使ったことはないが万能の治療魔術で、今まで幾度となくブリッツェンの危機を防いできたという。


 しかしアレクは、重たい口を開いて真実を語った。


「……〈エリクサー〉は使えない」


 エーデルシュタインが、驚いて目を見開く。


「どころか俺は、魔術が一切使えない」


 場が一瞬、水を打ったように静まりかえる。


「俺が王室を追い出されたのもそういう理由だ。俺の体は、内外どちらからの魔力も受けつけない」


 魔法が効かないことと魔術が使えないのは功罪のようなもので、それでもスラムでの暮らしでは不自由しなかった。スラムの人間が請け負うような仕事はたいてい肉体を使うものばかりで、魔術を使うようなものはもうすこし学と地位が必要だ。


 魔術は教育されて使えるようになる後天的なものだから、使えるようになるにはそれなりの環境が必要になってくる。アレクはこの先ずっとスラムで暮らしていくものだと思っていたから、自分の体質のことは気にしなかったし、死ぬまで魔術は使わないだろうと思っていた。


「けど、〈エリクサー〉の呪文自体は覚えてる。だから術式をアンタにでも教えれば……」


 そう言って、エーデルシュタインのほうを見るが、彼は苦い顔で見返してきた。


「あなたの魔力じゃないと、駄目なんですよ」


 そう言って、彼はアレクの手を取った。


「魔力は血に混じって流れています。ゆえに魔力は血とともに遺伝し、魔力の特質によって得意な魔術などは決まります。〈エリクサー〉はその極端な例で、ブリッツェン初代国王の血が流れている者しか使えません」


 エーデルシュタインは説明しながら、失礼しますよ、と言ってアレクの人差し指の先をナイフで切った。そしてその血を、侍女に持ってこさせた紅茶の中に何滴か落とした。


「あなたの血が特殊ということをお教えしましょうか」


 アレクは侍女に白いハンカチを渡され、傷口にそれを当てる。もとより傷つけるつもりはなかったのか、それほど痛くはなかったし、血もすぐに止まった。


 エーデルシュタインがティーカップをヒルデガルトに近づけ、侍女が彼女の背中を支える。そして彼女の口にティーカップのふちを当て、ゆっくりと傾けていく。


 ヒルデガルトの白い喉がこく、こく、とゆっくり上下し、やがて紅茶をすべて嚥下する。


 するとヒルデガルトの顔色が多少改善し、侍女の支えなしに体を起こすことができるようになった。


「アレクサンダー様、とおっしゃったかしら。ブリッツェンの血には癒しの魔力があるのよ。ほら、ごらんなさい」


 そう言って、ヒルデガルトは手を広げてみせる。その美しい相貌には少しばかり笑みが浮かんでいる。


「でもあなた様はこの素晴らしい魔力が使えないのよね。残念だわ」


 ヒルデガルトはしょんぼりとしおらしい様子を見せる。自分の血だけで、かなり症状は改善したらしいが、胸元の魔法陣は消えていない。


「あー……俺の血が必要なら、べつにブリッツェンの王族とか、妹とか、分家のやつらとかでいいんじゃないか……?」

「それが問題でしてね」


 エーデルシュタインが割って解説する。


「ブリッツェンの王族にコンタクトを取るためには、遠いブリッツェン城まで行かなければならず、雪の多いこの時期だとかなりの労力と時間がかかります。

 あなたの妹はアンネ・シャッテンの言うとおりにアッヘンバッハ辺境伯に明け渡してから連絡が付きません。分家の線は……」


 そこまで言って、エーデルシュタインは顔を陰らせた。


「ブリッツェンは分家が少ないうえ、王族から離れた場合聖職者になる場合が多いんです。

 聖職者は政治に関われないので、聖職者でない分家となると、……確認できているところだとセイヴァー王国の元王族になります」


 エーデルシュタインが顔を曇らせた意味が分かった。

 セイヴァーは三十年前、絶対王制を敷いていた王が打倒されて共和国になった国だ。


 問題はムート帝国との関係で、十年前の大陸戦争では倒すべき敵とされた。アレクのあずかり知らぬところで大陸戦争は終結したらしいが、それでもまだ対立は続いているらしい。


「なるほど。ブリッツェンの王族でいちばん手頃だったのが俺だったから、母さんから金で買ったわけか」

「申し訳ありません……」

「いや、終わったことは仕方ない。むしろ外れくじを引かされて残念だったな」


 アレクが笑うと、つられてヒルデガルトも笑う。エーデルシュタインは悔しいのか怒っているのか複雑な表情を浮かべる。


「いえ、絶対に魔法が使えないというわけではないようです。現にアレクサンダー殿下の血にはかなりの魔力が籠っているようですし、なんとか魔力を外に出す方法があれば叶います」

「そんな都合のいいことがあるのかしら」


 ヒルデガルトは首を傾げていたが、エーデルシュタインは意地になったのかぜひ見つけてみせます、と胸を張った。当人のアレクはヒルデガルトの発言に完全同意していた。


「いいですか、アレクサンダー殿下。僕が今から、あなたを教育します」


 そう言うとエーデルシュタインは国章の入った黒いマントを翻し、ついてきてください、と言って出口へと向かった。


 アレクはヒルデガルトと顔を見合わせて苦笑いすると、彼の後について皇帝の寝室を出た。

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