復讐編

一章

第1話 喪失と天国

 大陸北部の大部分を占める大国、ムート帝国。


 その帝都グルックリヒに向かって、北から四頭立ての馬車が一台。そしてそれを取り囲むのは、騎士団の一小隊に当たるだろう数の馬。それらが列をして走っていた。


 浅く積もった雪にわだちが残っている。


 騎士たちに守られた馬車の中には、男がひとり乗っていた。深い色の茶髪、爽やかな碧眼へきがんを持つ端正な顔立ちの男だが、その扱いに比べて異様なほどみすぼらしいぼろをまとっている。


 彼は昏睡するように眠っていた。実際昏睡させられていた。


 やがて馬車は、城壁をくぐりグルックリヒ中央部にある皇帝の居城、フルーレ=ヴィレシュタット城で止まった。


 美しい城だ。背景には白く雪が積もった霊峰を背負っている。


 大陸歴八〇三年に建てられた白亜の城は、高くそびえる城壁に遮られ城下からは全貌をほとんど窺えない。見えるのは特に際立って高いひとつの尖塔の先だけだ。


 騎士のひとりが馬から降り、馬車の方へと向かう。


「アレクサンダー・シャッテン、起きろ」


 彼はそう言って馬車の扉を開ける。アレクサンダーと呼ばれた粗末な格好の男は、それでも起きようとしない。


「命令に逆らうな、ヒンメルの貧民が」


 そう言って騎士は、剣の鞘の先でアレクサンダーの肩を強く突く。ようやく起きたアレクサンダーは、目を見開いて馬車から身を乗り出した。


「……どこだ、ここ」


 混乱した様子のアレクサンダーに、騎士は告げた。


「帝都グルックリヒだが」


 アレクサンダーは、しばらく動きを止めてその言葉を反芻していた。

 しかし段々と言葉の意味を理解したのか、いきなり大袈裟に声を上げた。


「は、グルックリヒ? 相当距離あるだろ、いつの間に……」


 騎士に詰め寄るアレクサンダーに対し、騎士は至って冷静に返答した。


「抵抗されると困るので薬で眠らせたが」


 アレクサンダーは眉をひそめ、一瞬考え込んだ。そして、あの飯か、と憎らしげに呟いた。


「どうりでおかしいと……」


 彼は騎士団がムート帝国の最北端の州、アッヘンバッハ辺境伯領ヒンメル州から拉致──もとい連行してきた男だ。


 手口は至って原始的で、路地裏に暮らすアレクサンダーに、睡眠薬入りの料理を渡すよう、隣家の老婆に頼んだのだ。スラムの人間は総じて警戒心が強いのでこの手には乗らないかと思いきや、すんなり成功してしまった。


「よくそんな怪しいものが食えたな」


 騎士は目の前の男の愚かさにほとほと呆れていた。


「……ま、俺をだましたところで、俺には失うものはないからな」


 アレクサンダーはそんな残酷なことをさらりと言った。淡々と彼は続ける。


「母さんも失踪した。妹も半月前、領主にさらわれた。俺はクソ汚いスラムに暮らしてて、金も魔力もない」


 アレクサンダーの青い瞳が騎士を見る。澄んだ瞳だった。邪魔するものも、恵むものも何もない、無為の瞳だった。


「嵌められても美味い飯が食えるし、何も失わない。唯一失うとしたら命だが、まあ、天国の方が良いとこだろうな、たぶん」


 地獄かもしれねえけど、と笑う。

 これが拡大を続けるヒンメルのスラムの現状だ。住人は死さえ厭わない。騎士は残酷な現実を突きつけられたせいか、言葉を失っていた。


「んで、なんで俺はここに連れてこられてるわけ?」


 心当たりはあったが、まさかそんなことはあるまい、とアレクサンダーは心のどこかで否定していた。


 騎士ははっとして自分の職分を思い出す。四日前、騎士団長から告げられたとおりに答える。


「我々にはわからん」


 アレクサンダーは極めて不機嫌そうな低い声で聞き返した。


「皇帝陛下からの直々のお達しだ。理由は述べられていない」

「んだよそれ……」


 アレクサンダーは騎士の胴を蹴った。騎士は後ずさりし、剣に手をかけ、構える。


「母さんも妹も、そいつのせいで居なくなったのか?」

「それはわからん。我々が命じられたのはお前を連れてこいということだけだ」


 アレクサンダーは手詰まりだとばかりに頭を乱暴に掻いた。そして舌打ちをして、騎士から視線を外した。騎士も剣から手を離す。


「本当にそうなら、皇帝陛下とやらに会った時に一発殴ってやる。顔を」

「やめておけ。最悪死刑だ」


 そう言うと、アレクサンダーは騎士の方を向いた。酷薄な殺意に満ちた視線を向けてくるので、思わず背筋が冷えた。


「別にいい」


 この世界に根付いた身分制度は、一部の人間の地位を高めるために用いられる。しかしそれはときに、その一部の人間の立場を揺るがす。──非常に皮肉なことに。



 いずれ訪れる大反乱の嚆矢こうしが、その日グルックリヒで穿たれた。



 時は変わって、アレクサンダーは抵抗もすべなく城に入れられた。


「ご案内を担当させていただきます、エリスと申します」


 案内役の女性はそう言って、深々と礼をした。問答無用で城の三階まで上り、そのあと長い廊下を奥まで進む。


 宮殿ではないので横に広い構造はとっていないはずだが、部屋の数がどうも多い。それが何階層にも連なっているのだから、城全体は相当に広いだろう。そんなことを考えながら、アレクサンダーは廊下を進んでいった。


「なあおい、どこまで行くんだ」


 アレクサンダーは怖くなって、城の案内役の女性に声をかける。彼女はちらりと後ろを向き、感情のない瞳で告げる。


「皇帝陛下の居室まで、ですが」


 また出たか、と思わず渋面を作る。理由を尋ねたいところだが、どうせ彼女も騎士団の人間のように知らぬ存ぜぬを貫くのだろう。


「…………そうか」


 城に着いたときはあれほど息巻いていたが、いざ対面するとなるとその威勢は全て削がれていた。皇帝までの道筋が長すぎて、疲弊したのもある。


 逆らってもどうにもならないこともある。それを知らないほど、アレクサンダーは愚かではなかった。


「お望みならば、皇帝陛下の居室までお送りいたしましょうか」


 近道でもあるのか、とアレクサンダーが訊くと、案内役は得意そうに微笑んだ。


 彼女はフードを脱いで、とみにこちらを振り向いた。


「ええ。わたくしが直々に送って差し上げますわ」


 長い前髪の隙間から、暗い青の瞳が覗いた。


 瞳がひときわ輝く。首筋に桜の柄の青い紋章が見える。何より、目の前に展開した魔法陣に古代魔術語でこう書いてあった。


『術師エリス、魔族の苗裔に誓う』


 確信した。

 彼女は魔族の血が入った人種、トイフェル人だと。



 ──この大陸は、その昔魔族に支配されていた。


 それが約千年前、大陸に上陸した人間によって力関係が入れ替わり、今では人間が文明を手に入れている。


 彼らは魔族に由来した高い魔力を持つ。魔力が活発化した時に瞳孔と身体の一部にある紋章が輝くのも、彼らの特徴と言えるだろう。

 彼らはある国では力を持つものとして称えられ、ある国では本能的に暴虐なものとして蔑まれる。


 そして――ムート帝国は合理的かつ実力主義の大国だが、ある一点で非合理的だった。


「トイフェル人を"人として"認めない」


 憲法にはそう書いてある。反魔族主義の台頭たる存在、それがムート帝国だ。

 だから当然、その象徴たる皇帝もそういう態度を貫いている。


 それなのに。


「──なんで、トイフェル人が皇帝の居城に」


 女の瞳には怒りが滲んでいた。静かで悲しい怒りが。

 彼女は詠唱で展開した魔法陣をさらに組み立てながら、アレクサンダーに嘲りの目を向ける。


「自分の立場がわからないの?」


 女はつかつかとアレクサンダーに歩み寄り、ついには彼の首に手を当てた。


「あんたはどう考えても賓客。ここであんたを倒せば、皇帝に一杯食わせてやれるわ」


 そしてそこからさらに魔力を流し込んでいく。魔法陣がアレクサンダーの首筋まで移動する。彼は目の前の状況より、術式に目が行っていた。


「相手の脳信号を一部作り変え、思いどおりに操る……死霊魔術の発展版みたいなところか? 術式が似てるな」

「あら、無詠唱でわざわざ解析? 随分と余裕ね」


 通常、古代魔術語は記号のようにフレーズ丸ごとを暗記し、組み合わせることで用いられる。ゆえに古代魔術語を理解していない者にとっては、わざわざ翻訳する魔術を使う必要がある。

 しかしアレクサンダーは違う。幼少期から受けてきた”教育”のおかげで、ほかの外国語と同じように読み書きができる。世界にとってはそちらのほうがイレギュラーだ。


 女は得意げに術式を書き終えたのち、術名を唱えて魔法を発動させた。


「奪え、〈ネクロ〉」


 ──だがしかし、何かを感じとったのか女は目を見開き、とっさに首から手を離した。


 その瞬間、アレクサンダーと彼女の手の間で魔力が爆散した。爆風でアレクサンダーは目をしかめるが、被害はそれだけだ。


「……ど、どういうこと?」


 女は無傷。それは当然のことだ。自分の魔法で術者が傷つくことはない。


 問題はアレクサンダーだ。彼も無傷で、その上魔法をはねのけたように見えた。そうとしか言いようがないのだ、あの物理現象については。


「多分お前が思ってることと同じだ。信じられないとは思うがな」


 トイフェル人の女の首筋に浮かんでいた紋章が、ゆっくりと消えていく。


「俺の身体は魔力を受け付けない」


 それは、魔術に支配されたこの世界に対する、この上ない反抗だった。


「エリス!」


 遠くから護衛が駆けつけてきた。無理もない、爆音はかなり大きかったのだから。


 やがて女は捕えられた。魔力を制御する手枷てかせで両手を縛られ、もはや逃げられない状態になっている。


「とりあえず一番高い塔に行ってみる。じゃあな」


 アレクサンダーは軽く手を振って、その場を去った。トイフェル人の女は、その背中を最後まで憎らしげに睨んでいた。

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