第5話 ルーチェとマイラは研鑽を積む。

 夏の朝の蒸し暑い風が吹き抜ける、メルン領内の丘で、空気がびりびりと震えるような怒号が響き渡っていた。

「左右の均衡を保て!」

「は、はい……!」

「目線を下げるな!」

「はい……!」

「馬にはもっと自信を持って接しろ! 何度言ったら分かる‼︎」

「はいぃ……‼」

 メルン家に仕える小部隊隊員のバリスが、ルーチェに馬術を仕込んでいるのだった。その様子を見に来たマイラは、「ふむ」と腕を組んだ。バリスによる新人の指導はいつも的確だが、とにかく厳しい。細かい指示が矢継ぎ早に飛び、言われた通りに出来ないと叱責の嵐だ。声も大きいので威圧感がある。指導を受け始めてからまだ半刻だというのに、ルーチェは今にも音を上げそうである。

 馬術の訓練を始める前には、ルーチェの魔法が戦場でどれほど使えるか、模擬戦を行なって検証していた。ルーチェの腕前は、改善点はまだまだあるものの、多対一の戦闘でも十分通用するほど器用なものだった。だが、戦場に出すには、致命的な欠点があった。

 ルーチェは馬に乗ったことが無い。

「スーリャ帝国軍に対する最も有効な打撃は遊撃戦ではないか、ということで協力者とは話がついている。よって、能力のある者は馬に乗って素早く攻撃を仕掛け、素早く撤退するという戦法が望ましい。また、長距離移動にも馬は必須だ」

 トゥクは生真面目な顔で言った。

「きみは馬に乗れるようにならなければいけない」

「鍛錬いたします」

 ルーチェは珍しく気張った顔でそう答えていたものだが、彼女もまさかここまでしごかれるとは思っていなかったろう。マイラが見る限り、ルーチェは初めてにしては筋がいい方だと思うのだが、だからといってバリスは手を抜くつもりはないらしかった。確かに、なるべく早く、馬を駆れるようになった方が、より実践的な訓練の時間を取れる。

「バリス、ルーチェ」

 マイラは声をかけた。

「はっ、マイラ様」

 バリスは姿勢を正した。

「マイラ様……わあっ」

 ルーチェの乗った馬が見当違いの方向に歩き始めて、ルーチェは慌てて手綱を握り直した。

「こら!」

 さっそくバリスが叱りつける。

「いかなる時も気を抜くな。戦場では少しの油断が命取りになるぞ!」

「申し訳ございません」

 あはは、とマイラは笑った。

「その調子で二人とも頑張って。わたしはそろそろ屋敷に戻らなきゃいけないから」

「はっ。ありがとう存じます!」

 バリスは礼儀正しく張りのある声を出す。

「承知いたしました」

 ルーチェは今度こそ気を抜かないようにと固まった声で言った。

「こら! 無駄な力は抜け!」

「は、はい……」

 マイラは二人にもう一度笑顔を向けて、古風な白と黒の石造りの屋敷へと戻り始めた。勉強の時間になっていた。家庭教師がお待ちかねである。女物の服に着替えて、勉強部屋に向かわなければ。

 マイラは風起こしが得意だから、本当なら部隊の主力として活躍するために丸一日訓練に参加したいところだ。だが貴族の令嬢としてのマイラの仕事は戦うことだけではない。

 父は、情報の収集、各地の貴族との連携、軍資金や物資の確保など、膨大な仕事をこなしている。マイラにも手伝うべきことは山ほどあるのだ。そのために齢十六のマイラには、勉強が欠かせない。貴族同士の交流には共通の話題が通じないといけない。教養のない小娘は舐められる。それから、音楽のできない者も軽んじられる。

 メルン家が代々受け継いでいる楽器は横笛だが、マイラはこれがあまり得意ではなかった。初老の女性家庭教師は学問にも音楽にも通じた優秀な人材で、こちらもビシバシとマイラのことを鍛える。

 マイラは、神鳥リルを讃える曲を家庭教師の前で披露した。高音と低音の旋律が交互に表れるハルジャの伝統的な曲調で、基礎的な技術も多く含まれる。高い音の部分はリルの高貴さを、低い音の部分はリルの強大さを表現しているとされる。

「そうですね」

 家庭教師は鋭い目でマイラと横笛とを見比べる。

「息使いが大雑把です。息圧で無理に音を当てようとしているのが分かります。しかし綺麗に音を出すには、息を極限まで細くして、なおかつ吹口を正確に狙う必要があります。……前にも言いましたね?」

「はい。ごめんなさい」

「それがまだできていないのは、口回りの筋肉が鍛えられていないこと、また単純に練習が足りていないことの表れです。……武術も結構ですが、日頃から基礎練習を怠らないように」

「はい」

「では練習はここまで。勉強の時間に移りましょう」

 家庭教師がそう言ったので、マイラは木でできた横笛の内部と外部を綺麗に拭いてから、布張りされた木の箱に仕舞い込んだ。

 家庭教師はその間に、分厚い歴史の参考書を棚から取り出していた。

「マイラ様は勉学の方は滞りなく進めていらっしゃいますね。歴史は、ハルジャのものもスーリャのものも、前回までで一通りお修めになられました。復習の課題はなさいましたか?」

「はい、ここに」

 マイラは紙に書かれた家庭教師お手製の宿題を解いたものを、彼女に提出した。彼女はそれにざっと目を通した。

「……結構。満点です。では今日からは、より詳細な歴史について学んでいきましょう」

「はい」

「まずは神代の時代から。建国神話は覚えていらっしゃいますか」

「神鳥リルの話ですか?」

「その通り。神鳥リルと二人の英雄の絆の物語ですが、これについては多くの歌で歌われており、多数の解釈がなされています。……」

 家庭教師は主な解釈について、本を見せながら滔々と語った。マイラは真剣な表情でそれに聞き入り、時折、紙とペンで内容を書き留めた。

 主な論争の的になっているのは、英雄の正体についてだそうだ。伝承を素直に受け取れば、二人の英雄は元からハルジャに住んでいた民ではなく、どこか他の地から来たという解釈が妥当である。だが、リルに悩まされていたハルジャの民自身の中からリル退治に出かけた者がいると考えた方が自然だという意見もある。更には、英雄たちもリルと同じく神のごとき不思議な存在で、だからこそ突如として現れたのだという説まである。

「マイラ様はどう思われますか」

 家庭教師は尋ねた。

「うーん」

 マイラは考え込んだ。それから、以前ルーチェが言っていたことを思い出した。

「関係があるか分からないけどさ」

「何でしょう」

「クナーシュ界にも、金色の不死の鳥の伝説があるんだって」

「……ほう」

 家庭教師は興味深そうに目を光らせた。

「それは、初耳ですね」

「それを聞いてから、ちょっと気になっていたことがあるんだ。リルはハルジャの地に住んでいた。クナーシュ界からの人が現れるのはハルジャの地だけ。そしてクナーシュ界にもリルに似た神鳥がいる。このことは何か関係あるんじゃないかって」

「なるほど」

 家庭教師は頷く。

「面白い観点です。しかし少し論理が飛躍しているようにも感じられますね。まず、両世界の関係性はまださほど明らかになっておらず……」

 その時、ドンドンドンと扉が激しく叩かれた。ただならぬ様子に、マイラも家庭教師もはっと顔を上げた。

「何事です?」

 家庭教師は言った。

「マイラ様はただいま勉学の最中で……」

「緊急事態にございます!」

 召使いの声は緊迫していた。家庭教師はマイラを見た。

「入っていいよ」

 マイラは告げた。途端に召使いは、不躾に思えるほどの激しい勢いで扉を開けた。マイラが驚いたのも束の間、衝撃的な言葉が召使いの口から飛び出す。

「トゥク様が、お倒れになられました!」

 マイラは血相を変え、ガタッと席を立った。

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