第6話 メルン家に危機が訪れる。

「すぐ行く」

 マイラは早足で勉強部屋を出た。召使いと家庭教師を連れて父の寝室に向かう。今朝まで元気だったのに、とマイラは父の姿を思い浮かべた。屋外で真剣にルーチェに助言をしていた父の姿を。……それが、どうしていきなりこんなことに。

「医者は?」

 マイラは胸を覆い尽くそうとする不安と戦いながら、努めて冷静に尋ねる。

「風起こしの得意な者が呼びに行きました」

「ありがとう。……父さんは、どうやって倒れたの?」

「お部屋で書を読まれていた時に、突然椅子から倒れられました。意識をなくしていらっしゃいます。また、高熱を出しておられます」

「……そう。熱ね」

 脳や心臓の急な発作ではないらしい。だが危険な熱病はいくらでもある。特に心配なのは、……マイラは嫌な考えを頭から振り払った。まさか、父さんがそんな不幸な目に遭うはずがない。母さんに続いて父さんまで喪うなんてことが、起こるはずがない。

 寝室の前には、鼻と口を布で隠した召使いが立っていた。彼が差し出した薄布を顔の後ろで結わうのももどかしく、逸る気持ちのままマイラは寝室に飛び込んだ。中では召使いたちが水の入った盥や熱冷ましのための布を持って忙しく立ち働いている。

「マイラ様」

 召使いたちがマイラに気づいて口々に呼ばわった。マイラは食いつくようにして尋ねた。

「父さんの容体は⁉」

「脈は正常でおられます。しかし熱が下がらず、呼吸も苦しそうで……それと、肌に異変が」

 マイラは寝台に駆け寄った。布団にくるまれ、額に濡れ布巾を乗せた父は、別人のように青ざめた顔色をしていた。そして召使いの言葉通り、顔や手が所々、火傷のようにただれている。

「……!」

 マイラは五年前に同じ病状を目にしたことがあった。母が病気に罹り、そのまま亡くなった時のことだ。病名は、風炎病。感染経路が皆目分からず、有効な治療法も確立されていない、難病である。ただ分かっているのは、風起こしの魔法が関係しているということ。患者は漏れなく、体力に加えて風起こしの力を消耗する。また、その致死率は七、八割だ。運よく快復できたとしても、風起こしの能力が戻ることはないし、身体的にも後遺症が残る。

「父さん……」

 マイラは寝台の横に跪いて、呻いた。母を喪った時のことが思い起こされ、絶望に似た感情が頭を支配して、声を出して泣きたくなる。だが、まだ諦めてはいけない。弱みを見せてはいけない。メルン家の一人娘として、しっかりしなくては。……できることは、特にないのだけれど。

 しばらくして、医者が現れた。壮年の男性で、顔には黒い薄布をつけている。彼は急いで寝室にやってきて父の容体を確認すると、沈痛な口調で告げた。

「風炎病でしょう」

 やはりか、とマイラは落ち込んだ。

「助かる見込みは?」

「まだ何とも。ただ、今夜が峠です。……薬は、この壺にいれてたっぷりお持ちしております。まずは解熱に尽力しましょう」

「はい」

「それと……」

 医者はもう一度、父の額に手をやり、胸に耳を当てて呼吸を確認し、手首で脈を測った。

「はい。やはり、お母上の時よりは、状態は悪くはありません。どうか、お気を強く持たれますよう」

「……はい」

 マイラは小指の爪の先ほどの希望を持って答えた。

 マイラはそれから一晩中寝ずに、父の傍で医者と一緒に様子を見続けた。父は苦しそうに息を荒くしたり、悪い夢でも見ているのかうなされたりしていた。マイラは「父さん」と呼び掛けて、父の手のただれていない部分に触れた。

「頑張って、父さん」

 医者はこまめに濡れ布巾を取り換えたり、父の上体を起こして苦そうな飲み薬を飲ませたりした。父は時折「うーん」と意識を取り戻して唸ったが、すぐにまた寝入るように気絶してしまう。マイラはほとんど泣きそうに顔を歪めていた。どうか、どうか、助かって欲しい。祈るように己が手を握りしめる。

 永遠とも思える時間が経過した。

 そして太陽が地平線から顔を見せる頃、医者は額の汗を拭ってふうと息をついた。

「……どうにか、命はとりとめそうです」

 マイラは布団に伏せていた顔を、バッと医者の方に向けた。

「本当ですか」

「はい。熱が下がって参りました。このまま順調にいけば助かるでしょう」

「よかったあ……」

 マイラはへなへなと床にへたり込んだ。

「ただし、肌の炎症の跡は残ります。また、虚脱や倦怠感は数年単位で続くことでしょう。免疫力も下がっていますから、別の病気にも罹りやすい。少なくとも一年間は絶対安静です」

「一年……」

 マイラの脳裏に一瞬、今後のメルン家をどう運営するかという考えが去来した。だが、それは後で考えれば良い。予断は許されないが、今は父の無事を喜ぼう。

「む……」

 父が目を覚ましたようだった。マイラは飛びつくようにして声を掛けた。

「父さん、大丈夫? 体の具合はどんな感じ?」

「……わたしは……倒れていたのか」

「はい」

 医者が重々しく頷く。

「風炎病を発症しておられました。しかし、命に別状はありません」

「……そうか」

 父は呟いた。

「妻と同じ病に、わたしが。……心配をかけたな、マイラ」

 マイラの頭を撫でようして、父は痛そうに手を引っ込めた。

「つっ」

「ご無理はなさらず。炎症は残っておりますので」

「そうか」

「とにかく、生きていてくれてよかったよ。ありがとう、父さん」

 マイラは涙声で言った。

「父さんまでいなくなったら、わたし……」

「すまなかったね、マイラ」

 父は力無く笑った。

「マイラ様は一旦休まれた方がよろしいかと」

 医者は言った。

「一晩中、トゥク様のご容態を見ておられましたから。心身ともに疲弊しておられるはずです」

「そうか、ありがとう、マイラ。部屋でゆっくり休むといい」

「でも」

「わたしは大丈夫だ。……行きなさい」

 父の淡々とした声に背中を押され、マイラは立ち上がった。

「……了解」

 部屋を出ようとするマイラに、後ろから父が声を掛けた。

「風炎病に罹ったのがお前じゃなくて良かったよ、マイラ」

「……」

 マイラは何と言っていいか分からなかった。たまらない気持ちになった。そこで小さく礼をして、部屋を辞した。自分の寝室に行くと、部屋はいつも以上に掃除が行き届いており、寝台は綺麗に整えられていた。その横の机には、柔らかい果物をくし切りにしたものまで置いてある。疲れて戻るであろうマイラを、召使いたちが気遣ってくれたのだろう。マイラはありがたく、果物を口にすると、薄い布団をかぶって横になった。心労がたたったのか、安心したお陰なのか、眠りはすぐに訪れた。深い眠りだった。

 目が覚めたのは昼過ぎだった。マイラは重たい体を引きずって、真っ先に父の様子を見に行った。父は思ったより元気を取り戻しており、小麦を煮詰めた粥を食べているところだった。食欲があるのなら良かった、とマイラは思った。

「来てくれたのか。ありがとう……」

 父は言った。

「昼餉は済ませたのか?」

「ううん、まだ」

「なら、食べてきなさい……わたしのことならばこの通り、心配いらないから」

「……うん」

 父の声に覇気が無いのが気がかりだったが、マイラは素直に頷いて食堂に向かい、パンと乳製品と肉を食べた。食べながら頭の中に再び去来したのは、今後のメルン家についてだった。

 父は一年間絶対安静。風起こしもろくに使えない。となると、これからのメルン家はマイラが主となって取り仕切らなければならない。そして、スーリャ帝国への反乱の準備も、父が中心となって行なっていたものを、マイラが引き継がねばならない。

 とてつもない重責だった。各地の貴族をまとめる求心力が、十六の小娘に果たしてあるだろうか? だが、計画を頓挫させるなどもってのほかだ。ハルジャの復活はみんなの悲願なのだから。

 ……わたしが、しっかりしなければ。メルン家の当主代理として、みんなを引っ張らなくては。

 陰鬱な気持ちで、マイラはパンを口に詰め込み、それを山羊の乳で胃の中に流し込んだ。味付けはいつもと同じはずなのに、いやに重たく感じられた。

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