第3話 一番目と二番目―4

 何気なく流していたラジオから、ある曲が流れてきた。歌詞はなく、ピアノとバイオリンのみのシンプルなもの。ゆったりと水が流れるような静かなその曲は、駄菓子屋を訪れた時のような、どこか懐かしさを感じる。


「いい曲ですね、わたし好きです」

「……」

「フウ先輩?」

「…………坊、ちゃん」


 フウの頬には、すっと一筋の雫が滑り落ちていた。体に染み込ませるように、フウはそのラジオから流れてくる曲を聴いている。ミイは、察した。フウが、行ってしまうのだと。


「フウ、先輩……」


「僕はレコードだった。ある作曲家の新曲を収録したのに、皆に聴いてもらう前に、割れてしまった。坊ちゃんの曲を、届けたかった。それが、ずっと心残りだったんだ。……心残りだったというのに、坊ちゃんのことを今まで忘れていたなんてね」


 フウが、少し情けなさそうに笑った。フウの口にする、坊ちゃん、の声音からとても大切なヒトだったのだと伝わってくる。


 ふと、ヒイの時とは様子が違うことに気が付いた。フウの体が、光っていないし、薄くもなっていないのだ。


「……! フウ先輩、もしかして思い出しても、消えずに済むんじゃないですか……!?」

「いいや、ゆっくりだけど体が解けていくのを感じるよ。消えないわけではないみたいだね。よく分からないけど、時間があるのなら」


 フウは、新しい五線紙を取り出すと、そこへ音符を次々と書き込んでいった。普段の穏やかさは身を潜めて、一音一音への気迫が溢れていた。ミイも、声をかけることが出来なかった。


 書き進めているうちに、フウの体が淡く、月明かりのように光り始めてしまった。フウの体を通して、五線譜が見えるようになってきてしまった。


「出来た……」

 ようやく、フウはペンを置いた。書いていた時間は、十五分ほどだっただろうか。もうフウの体は、ヒイが消えてしまったその時と同じような状態になっていた。ミイは、誰かに心臓をきつく握られているような気分だった。上手く、息が出来ない。


「ミイさん」

「……」

「これを、頼めるかな」


 フウが、書き上げたばかりの五線紙を手渡してきた。フウの“坊ちゃん”の世に出なかった新曲。これがフウにとってどれほど大切なものか、理解していた。


「分かり、ました」

 フウは安心したように笑った。だがすぐに、申し訳なさそうな表情に変わった。


「残される悲しみを充分知っているのに、こんなことを言うのは、と自分でも思う。でも、だからこそ言うね。……僕は思い出せて良かった。この僅かな時間、僕はきちんと僕自身でいられた」

「……」


「あの時、ヒイさんがなぜ笑ったか、分からなかったけど、今なら少し分かるよ」

「フウ先輩、待って」

「ミイさんにも、思い出せる日が来ますように」


 祈りのような言葉を残して、フウは光とともに消えてしまった。


「……っ」

 ミイは膝をついて、俯きながら声を殺して泣いた。預かった五線紙には決して涙を落とさないように、胸にぐっと押し当てて守った。


 ふと、フウがいたあたりに何かが落ちているのに気が付いた。拾い上げると、カラリ、と歪な音がした。それは、鈴守神社の鈴だった。ただし、真っ二つに割れていた。この鈴のおかげで、消えるまでに少しの猶予があったのだと、直感的に分かった。なんと優しく、残酷なお守りだ。



***



「この鈴には、そういう力があるんですね……」

 ムツが、自分のポケットから取り出した鈴をまじまじと見つめている。ミイはもちろんのこと、イツとムツも同じように鈴をいつも身に付けている。


「その頃には、ヨウも無帰課にいたのだけれど、曲が流れてきて、フウ先輩が思い出したその瞬間には、警備課の手伝いで本部にはいなかったわ。だから、ヨウが帰って来た時にはフウ先輩はもういなくてね……」

「ヨウ先輩、か」

 イツが、ぽつりと呟いた。その声には少し寂しさのようなものが滲んでいる。


「ヨウが思い出した時にも、十五分くらい猶予があったわ。鈴の力はほぼ間違いないと思うわ」

「なるほどね。あっ、ヨウ先輩のことは知ってるから、話はしなくていいよ、ミイ先輩」

「私は知らないんですけどー」


 ムツがぷくーっと頬を膨らませている。仲間はずれ感のある状況に可愛らしく拗ねている。おそらく拗ねて見せて空気を和ませてくれているのだろう。ムツは先ほどからミイの表情を窺っている。昔の話をしたミイが気落ちしていないか、気にかけてくれている。それだけで、ミイは心が和らいだ。


「ムツには今度、話してあげるわね」

「ありがとうございます。また今度、ゆっくりと」

「ええ」


 言葉の外で、無理はしなくていいと伝えてくれるムツは、本当にありがたい。でもいずれ、話すつもりではいる。ヒイも、フウも、ヨウも、もういないからこそ、話すことで忘れないでいてくれる人が増える。送り式で口にする、『わたしたちは、あなたを忘れません』、その言葉は無帰課の仲間たちに対しても、同じだ。


「あのさ、ちょっと気になったんだけど、無帰課ってどうやって出来たんだろ。ヒイ先輩が一番目って意味なら、ヒイ先輩が作ったのかな」

「そういえば、わたしも、どうやって出来たのかは知らないわ。でも、ヒイ先輩は確か、名前を付けてもらった、と言っていたから、自分で作ったわけではなさそうね」


 ミイが無帰課に来た当初は、自分のことで精いっぱいだったし、慣れた頃には無帰課はあって当然のものだったから、設立のことは気にしたことがなかった。


「女郎花さんに聞いてみたら、何か分かるかもしれないわ」

「行ってみましょう。私たちの課の始まり、知りたいですし」


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