第3話 一番目と二番目―2


***


 その日もヒイは植物の世話をしていた。ヒイは大人しいけれど、柔らかな口調でなんだかんだと人に手伝いを頼み、そして引き受けてもらっていた。ミイも、今まさに花壇の雑草抜きの手伝いをしているところだった。この手伝いは、無心になれるから、嫌いではなかった。


 ここへ来てすぐのミイは、空虚だった。何一つ自分のことが分からなくて、怖かった。それを口にしたらもっと強い恐怖に襲われそうで、あてもなくひたすら街を歩いていた時に、女郎花に声をかけられた。そして、本部へとやってきた。記憶がないことを伝えると、無帰課へ案内され、そこには二人の付喪神がいた。


「こんにちは、私はヒイ」

「僕はフウ」


 黒髪の綺麗な女性と、シルバーグレーの男性、どこかアンバランスな二人だと思った。


「今日からあなたは、ミイよ。よろしくね」

「……ミイ?」


 ヒイ、フウ、ミイ、と指を一本ずつ立てて数を数えていき、ね? とこちらに微笑みかけてきた。何が、ね? なのか全然わからず、ミイは無表情のままヒイを見た。


「あれ、伝わらなかったかしら」

「ヒイさん、さすがに端折りすぎじゃあないですか。ミイさん、僕たちは自分が何者か、記憶がないだろう? もちろん自分の名前も分からない。でも、ここで過ごすには名前がないと不便だ。だから仮の名前を名乗る。ただの数字、一番目、二番目、三番目、というね」


「新しく名前を付けてもいいのだけれど、名付けは、二度目の誕生と言われるくらい重要なことだからね。物が作り出されてこの世に生まれるのが一度目、名付けが二度目ね。それをしてしまうと余計に思い出しづらくなるかもしれないって、仮で付けてもらったのよ。同じ境遇の者が自分の前に二人もいると思うと、少し気が楽にならないかしら?」


 ヒイとフウが、交互に説明をしてくれるのをミイは黙って聞いていたが、自分だけではない、という言葉は、空虚な心にも染み込んだ。ミイは、こくんと一つ頷いた。


 祈りを捧げる仕事も、ヒイとフウから教わった。チーフと呼ぶのはやめてやめて、と言われてしまったから、二人とも先輩、と呼ぶことにした。ただ、何かに熱中すると二人とも時間を忘れてしまうため、祈りの時間をきっちり決めたのはミイだった。時間通りに二人に声をかける役割もすっかり身に付いた。


「ミイちゃん」


 ヒイに声をかけられて、考え事に持ってかれていた意識が戻って来た。顔をあげると、風になびいて揺れる黒髪越しの夕日が眩しかった。相変わらず、そのまま夕日に溶けて消えてしまいそうな見た目だ、見た目だけだが。


「ヒイ先輩」

「ありがとう、手伝ってくれて」

「いいえ。この作業は嫌いじゃないので」

「ふふ、それなら良かったわ。ねえ、ミイちゃん今夜時間あるかしら?」


 ヒイが期待に満ちた目をしてこちらを見つめてくる。そんな目で見られたら断りづらいということを、この人は分かってやっているのだろうか。たぶん、分かっていないのだろうなとミイは自己完結した。まあ、特に予定もないからミイは頷いた。


「良かったあ。頑張って育てていた花が咲きそうなの」

「前に言っていた、夜にしか咲かない花のことですか?」

「そうそう。フウさんも誘おうと思ってるわ。どこにいるか知ってる?」


「管理課の手伝いをしてくるって言ってましたよ」

「ありがとう、声かけてくるわね」

 ワクワク感が体から滲み出るままに、ヒイは駆けて行った。



 その日の夜、最低限の明かりだけを部屋に用意して、ヒイとフウとミイの三人は、花が咲くのを待った。少し冷えていたので、フウが温かい紅茶を用意してくれていた。花の蕾は大きく膨らんでいて、今にも咲きそうに見えた。しかし、その日は花は咲かなかった。


「残念でしたね、ヒイさん」

「ええ、また頑張るわあ」


 ヒイは、がっかりした様子だったが、すぐに切り替えて世話を再開していた。植物に関してはかなりの知識を持っているヒイだったから、花を咲かせられなかったのは、少し意外だった。一度にたくさんのものを育てていたし、ヒイでも上手くいかないこともあるか、とミイは少しヒイを身近に感じた。


 何年か経った頃、また例の花が咲きそうだと呼ばれた。同じように三人で夜通し見ていたが、その日も花は咲かなかった。そういうことを繰り返した。ヒイも、この子は咲かないのかしら、と悲しそうに零していた。それでも、世話を辞めることはなかった。ミイも、いつしか咲くことを心待ちにするようになり、しょっちゅう様子を見に行くようになった。


 ある日、雲がなく月の光が窓から差し込む夜。

「わあ……!」


 その花は、ようやく咲いた。


 真っ白な絹が、ほどけるようにゆっくりと花びらが開いた。想像していたよりも大きく、凛とした花姿だった。月明かりに照らされて、幻想的だ。思わず声が零れた。


「綺麗……」

「月下美人。たった一夜しか咲かない花。やっと見られたわ……!」

「ヒイさん頑張っていましたからね。良かったです」


 フウが、自分のことのように嬉しそうに微笑んでいた。ヒイは何度も何度も、角度を変えて月下美人の花を見て、笑みを深めていた。見ているミイまで嬉しくなる。


「本当に、良かったですね、ヒイ先輩」

「ええ。この月下美人が、この世で一番綺麗だと思うわ」


 この世で一番綺麗、その言葉を合図にしたかのように、言い終わった途端ヒイが目を見開いて固まった。そして、ヒイの体が淡く光り出した。


「えっ! 何ですか、それ」

「ヒイさん、大丈夫ですか!」

 慌てるフウとミイとは対照的に、ヒイは静かに答えた。


「私、万華鏡だったの」

「思い出したんですか……!」


 ヒイを包み込む光が徐々に増していく。それに比例して、ヒイの体が薄くなっているような気がした。いや、気のせいではなかった。ヒイの後ろにあるはずの鉢植えが、透けて見えている。


「……!」


「でも、私はとっくに壊れてたの。色とりどりの花の絵が描かれた外側も、中の鏡も、倒れてきた棚に、押し潰された。壊れる瞬間に、あの子がいつの日か言っていた、万華鏡で見られる花よりも、何よりもこの世で一番綺麗な花の話を思い出したの。それを見たいと、強く想ったわ。……もしかして、それで、私は」


 月明かりに負けないくらい、光が増していた。光に溶けるように、ヒイの存在がどんどん薄くなっていってしまう。何も、出来ない。


「フウさん、ミイちゃん、先に行くわね」


 いつものように、からりと笑ったのを最期に、ヒイが光の中に消えてしまった。その場に残った光も、月明かりと同化してすぐになくなってしまった。


「ヒイさん……!」

「ヒイ先輩!」



***



 話を終えて、イツとムツはぼう然としていた。詳しく話したのは初めてなのだから、当然の反応だ。


「……無帰課に来た時、ムツって名前は同じ境遇の人が前に五人いる、そういう名前だってミイ先輩から言ってもらったこと、よく覚えています。ミイ先輩も、言ってもらったんですね、ヒイ先輩に」


 ムツは、それだけ言うと黙り込んでしまった。ヒイのことを想い、気落ちしてしまっているようだ。イツはというと、噛みしめるような表情をして腕を組んでいた。やがて、口を開いてミイに確認をしてきた。


「ヒイ先輩が消えて、そこで初めて僕らは幽霊みたいなもん、って分かったってこと?」

「ええ。わたしたちは記憶がなく、当然自分自身の物も持っていなかったから、最初は物を探していたわ。心臓なのだからそうするのは当然。でも手掛かりすらない状態だから、祈りの仕事をしながら、手掛かりを探していたの。でも、ヒイ先輩が消えて、その時の言葉で、物なんてとっくにないと、分かった。分かってしまった」


「そっか」

「物を探すことはやめて、心残りを探すことにシフトしたわ。でも、そちらも手掛かりなんてないから、あまり日常の過ごし方は変わらなかったわね」


 表向きの過ごし方は変わらなかった。だが、ヒイが消えてしまったことを飲み込むには、自分の物がすでに壊れているであろうことを受け入れるには、かなり時間はかかった。だから、それ以降に無帰課へ来た人には、最初に伝えることにしている。ゆっくり受け入れる時間を作るために。


「極力一人にならない、っていうのは、いつ思い出すか分からないから、っていうのは理解したよ」

「本当に分かったんですか。イツ先輩、すぐ一人でどこかに行っちゃうくせに」

「こ、これからは気を付けるって、たぶん」

「そこで目逸らさないでくださいよ」


 イツとムツは、いつものように、掛け合いをしていた。意識していつも通りをしているのだろうが、二人一緒になら、案外早く受け入れられるかもしれない。


「それで! もう一つの方の鈴は、どういうこと?」

 イツが大きい声と共に話を元に戻して聞いてきた。その流れを予想していたミイは一つ頷いて答えた。


「それは、フウ先輩の消えた時のことを、話さなくてはならないわ」

「聞く」

「聞きます」


 二人は、間髪入れずにそう言った。目は真剣そのもの。話をすることで傷付けてしまうのではないか、なんて、杞憂であったし、二人に対して失礼なことだったと反省した。


 ミイはアイスティーを飲んで、喉を潤した。かつてフウの淹れてくれた紅茶のことを思い出しながら。

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