第5話

 空巳の家は偶然にもそこからあまり遠くなく、今の和奈の状態でもなんとか自分の足で着くことができた。そこは、屋根が平たい形の古びたアパートだった。例によって壁には少し黄ばみが見える。外付けの階段を一緒にゆっくりと上り、202の部屋の前まで来た。空巳はポケットから鍵を取り出し、一度鍵の向きを間違えつつ、部屋の鍵を開けた。


「どうぞー」


 彼はドアを開け、支えると和奈に入るよう促す。「お邪魔します」と一言返し、そろりと玄関に足を踏み入れる。玄関の前には廊下が伸び、その片側に台所、その逆に風呂とトイレがあり、廊下の先には畳が敷かれた部屋が開けっ放しのドアから見える。

 空巳に「ちょっと汚いですけど」と招かれ、奥の部屋に入る。開けられた窓からそよそよと吹いてくる風はお世辞にも涼やかとは言えないが、和奈には充分だった。

 


 それから和奈は空巳によって看病され、翌日にはめまいや吐き気はなくなっていた。空巳宅にはなぜか布団がなく、畳の上で寝ることになったのだが、それでも青空ベンチのベッドよりはマシだった。和奈が布団について尋ねると、「いらなくなったので捨てた」とのこと。何があったら布団がいらなくなるのかは甚だ疑問ではあったが、まだ会って1日の彼にそこまで深追いをするほどのコミュニケーションは和奈にはできなかった。

 そして、今、和奈は空巳に「相談」を受けてもらっていた。違う日本があるということを話して、これからどうしようかという相談を。


「その、いきなりこんなこと言われても頭がおかしいと思われると思うんですけど……」


「はい」


 正座をして、目を伏せながら和奈は話し始めるが、次の言葉探しに難儀する。和奈の中では、ここが違う日本だというとこは確定的な事実だが、ここに住む人間からすれば、妄想と取られてもおかしくない内容である。その状況を伝えることへの躊躇いを、太ももの上でしきりに動かしている指からどうにか逃がそうとする。机を挟んだ空巳はそんな和奈をあぐらをかきながら静かに待っている。


「あ、昨日は本当にありがとうございました」


 沈黙と葛藤に耐えられなくなり、一度話題を逸らす。


「ん? あー。いえいえ、大丈夫ですよ」


 空巳はそれに軽く返す。またの沈黙。さて、どう言えば病院に連れていかれないかと再度考えていると、空巳から質問が飛んできた。


「そういえば、最初会ったとき公衆ドアから出てきたって言いましたよね」


「え?」


 突然の耳慣れない単語(いや、構成語句自体は知っている単語だったが)に和奈は思わず聞き返す。


「公衆、ドア?」


「え? はい」


 知らない言葉に対し黙りこくってしまう和奈に空巳も疑問に思い、


「もしかして、公衆ドア知らないですか?」


「あ、えっと、まあ……」

 

一瞬誤魔化そうとするも誤魔化しきれるものでもないと観念し肯定する。


「マジっすか。いや、まあそういう地域もあるのかな……?」


 空巳は自分なりの合理的な結論に至ったようだが、このまま認識がすれ違っていってしまうのはいけないと思い、和奈は当初話そうとしていた話を切り出した。


「あ、いえ。実はその、私たぶんなんですけど、違う日本からこちらに来てしまったみたいなんです、よね」


 空巳の反応を探りながら話したため、おかしなところで区切りが入る。

 空巳はぽかんと口を開ける。和奈もその反応を予想してはいたが、さっと顔から血の気が引くのを感じた。しかし、ここまで話してもう後には引けない。


「最初に会ったとき、千葉県って言ったじゃないですか。そしたら知らないって言われて……」


「あーはいはい」


 とりあえず聞く姿勢に入る空巳に和奈は少し安心し、続ける。


「最初はまさかと思ったんですけど、そのあと偶然見つけた駅で聞いても千葉県が通じなくて……。極めつけに」


 と、和奈は財布から千円札を取り出した。


「これが自動販売機に入らなかったんです」


 空巳は出されたお札を一瞥しただけで異常に気づいたようだった。


「こんなお札見たことないですね。チバケンっていうのも最初聞いたときはチバケン市みたいなどっか知らない市かなんかかと思ったんですけど」


「いえ。これ私の免許証です」


 続けて免許証を差し出す。


「はーなるほど。千に葉っぱで千葉県ですか。確かに俺の知る日本の都道府県には無いですね」


「信じてもらえましたか……?」


 最後に恐る恐る尋ねる。


「まあ、こんだけ色々出されたら信じられなくても信じるしかないですよね」

 その言葉に和奈はひとまずホッとする。


「ありがとうございます。なので、その公衆ドアっていうのも私がいた日本にはなくって」


「なるほど、だから帰れなかったんですね。……ただ、そうなると帰るの相当難しくないですか? これ」


 手を口元に当てながら空巳は言った。それに和奈は「どういうことですか?」と返す。


「あーそうですね。まず公衆ドアについて教えますね」


 と空巳は説明を始めた。


「公衆ドアっていうのは、そこからいつでも家に帰れるドアなんです。それ用の機能がついてる家のドアと鍵がいるんですけど、そうとう安い家じゃない限り基本はついてますね。で、その鍵を公衆ドアに差して鍵を開ければ、対応したドアの先に繋がってそのまま帰れるって感じです」


「あ、そういえばあの時、古永さんがドアを開けたとき私の家じゃないとこに繋がってましたけど、そういうことなんですね」


 和奈が理解していることを確認し、「はい」と答える。


「そっちの……えーっと」


 空巳は和奈が出した免許証に目を移す。


「和奈さんがいた日本には公衆ドアはなかったんですよね」


「はい」


「つまり、公衆ドアで使える鍵を持ってないから、家に帰るのは難しいというか、ほぼ無理そうなんですよね。」


(まぁ、そういうことだよね)


 こちらの日本のことが何もわからなかった今までとは違い、とりあえずは知り得た情報から論理立てた内容だったからか、もうほぼ帰れないと聞いた和奈は意外と落ち着いていた。そもそも昨日の時点で簡単に帰れるとは思っていなかったということもあった。

 空巳は「ただ」と続ける


「ただ、一個気になってて。普通は、逆に、家から好きな公衆ドアに繋ぐってことはできないんですよ」


「え、でも」


 今回和奈は何もしていないのに、家から公衆ドアに出てきた。つまり、この日本の何かしらが原因で和奈の家のドアが公衆ドアに繋がってしまったと考えるのが妥当だろう。

 空巳もそのことは察しているのか、「はい。なので、なんで家から公衆ドアに繋がったかが不思議なんですよね」と首をかしげる。


「あの、基本はそうかもしれないんですけど、家から公衆ドアに出る方法とかってないんですか?」


「あーどうだろう……ちょっと調べてみますね」


 そういうと空巳はポケットからスマホ――のようなものを取り出した。全体的な大きさや形はスマホに似ているが、その上部4分の3ほどが画面になっており、残りの下部4分の1程度には昔の携帯のようにボタンがついていた。和奈としてはその携帯のについても聞いてみたかったが、今は一旦抑える。空巳はそれをよそにポチポチと操作をし、ほんの1、2分ほどで「あ、ありました」と言った。


「調べてみたらそりゃそうかって感じだったんですけど、1人に公衆ドアから鍵を開けてもらえば家に繋がるので、その状態でもう1人が家から出れば家から公衆ドアに出るってことにはなりますね」


「え、ということは、誰かが私の部屋を公衆ドアから開けたってことですか」


「そうなりますね」と空巳は軽く返す。


「家にいたとき鍵は開けられませんでしたか?」


「いえ、家を出る少し前に酔っ払いが間違ってドアを開けようとしただけで誰も入ってきてませんし……」


 空巳はその返答にうーんとうなる。


「ってことは鍵は開かなかったけどドア同士繋がったってことですか。そんなことも聞いたことがないんですけどね……。ただ、公衆ドアを和奈さん家のドアに繋げたのはその酔っ払いで……しょう……ね……」


 考え込んでいた空巳が突然言葉を詰まらせる。和奈が「どうしましたか」と尋ねると、空巳は口に手を当て目線を下にしたまま続けた。


「……すいません。その開けようとした人って家を出る何分くらい前に来たんですか?」


 質問が返ってきて面食らった和奈だが、できるだけ正確に思い出してみる。


「え? えっと、たぶん十数分くらい前で、電話が来たみたいで帰りましたね」


 その言葉を聞いて、空巳は口に当てていた手を移動させ目を覆う。少しの間その状態で固まり、息を長めに吸ってから空巳は口を開いた。


「あぁー……すいません。たぶんそれ、俺です……」

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