第3話
そろそろ歩き疲れそうになる程度の距離を歩いたところで男は立ち止まり、
「ちょっとここで待っててください」
と和奈に言い残し、お世辞にも綺麗とは言い難いビルに入っていった。
残された和奈はドアのすぐ横の壁で疲れた足の仕事を背に交代させ、あたりを見渡す。おそらく先ほどまでいた通りよりは大通りになるかと思われる道。しかし、太陽が出ているので昼間の時間帯だと思われるのに大通りにしては人通りが多くはない。都心部ではないかとも彼女は考えたが、それにしては見上げるほどのビルが多い。そしてそのほとんどが、どこか綺麗という感想が持てないものだ。また、先ほど空巳が千葉県がわからないと言ったことから、もしや日本ではないのではないかとも思ったが、あたりの建物には日本語が基本的に使われているし、そもそも空巳も日本語を話していた。
とりあえずは日本ではあるだろうと予測を立てた和奈の頭を次によぎったのは、家に帰れるだろうかという懸念。しかしすぐに、あんなに暇があれば死にたいと思っていたのに結局生きる方法を考えているいつもの自分の思考回路に苦笑する。帰れたところで、何か劇的な変化が起こるわけでもなし、今まで通り死への羨望を抱きながらただ生きるだけである。
和奈の死にたいという想いは本物ではあったが、同時に、死ぬときの苦しみへの恐怖もまた大きかった。未知の苦しみにおびえ、生きるという慣れ親しんだ苦しみに逃げている。というのは和奈自身も感じていた。そしてこの、未知の恐怖からの逃げ道があればどうせ逃げるという自分の思考回路にも諦めがついているのだった。
自分の意志の弱さに愛想をつかし、改めてこれからどうしようかと考えているうちに、和奈の中にあの男への多少なりの不信感もよみがえってくる。先ほどは非現実的な現象に圧倒され流されてしまった和奈だったが、知らない土地、理解の追いつかない現象のおこる場所で初対面の人を易々と信頼していいものかと思わずにはいられなかった。
ぱっと見は日本ではあるようなので、今からでも交番や駅などの信頼できるところに行って状況を確認したほうがいいのではないかという考えに至る。スマホは家に置いてきてしまっていたが財布はある。駅や交番の場所はそこらの人に聞けばどうにかなるだろう。
(もし帰れなかったらホームレスってことか。それはちょっと嫌だなぁ……でも)
空巳が出てくる前に行動を移そうと和奈がよし、と壁から背を離したところで、
「すんません。お待たせしました」
空巳が建物から出てきた。びくりと驚いた和奈は空巳を見やる。
「あー、その、ごめんなさい。やっぱり交番とかに行って自分で帰ります。
あんまり迷惑かけられないですし、お金もちょっとはあるので」
和奈はできるだけ申し訳なさそうにしながら空巳に伝える。不信感を抱かせないようにということもあるが、もし空巳が本当に善意で相談を持ちかけてくれていたのなら、それを明け透けにしては失礼だろうという気持ちも少なくはなかった。
「え、大丈夫ですか? 交番の場所とか」
「は、はい。人に聞きながら行くので」
それでは、と、さっとそれだけを告げて歩き出そうとした和奈だったが、
「あ、それじゃあ」
という空巳の言葉に足を止めた。
「ちょっとさっき渡した俺の名刺貸してくれます?」
まあ、それくらいならと和奈は素直に空巳の名刺を渡す。彼は名刺を受け取ると、ペンを取り出しその裏にすらすらと何かを書き始めた。1分ほどで書き終わった空巳はそれを和奈に返し言った。
「俺の仕事場です。真夜中とかじゃなければいつでもどうぞ」
今まで通りの軽い口調と人当たりのいい自然な笑顔で返してきたその名刺には住所が記されていた。
「あ、どうも。ありがとうございます……えと、それでは」
和奈はそれだけ言うと反転し、歩きながら軽く会釈をしてその場を離れる。空巳はそれに首だけで会釈を返し「お気をつけてー」と気のいい笑顔で声をかけて和奈とは反対方向に歩いて行った。
和奈は一度歩調を落とし、財布の空いているカード入れに名刺を折れないようにそっと入れてから(横向きでは入らなかったので縦にして)、道行く人にとりあえずは交番までの道を聞きながら進んでいった。
空巳と別れてから2時間弱ほど経った今、結論から言うと、和奈は完全に行き詰っていた。
あの後、和奈は適当な人に交番までの道を聞き、向かっていたところ、その途中で偶然駅を見つけることができたため、受付で帰るまでの乗り継ぎを聞くことにした。やる気のなさそうな駅員に自身の住所を伝えたところ、空巳同様「チバケン?」という反応だった。その駅員は、奥にいた駅員に「チバケンって知ってるか」と聞き始め、聞かれた駅員が「犬っすか?」と言い始めたところで和奈は限界になり、逃げるように駅を後にした。
こうなっては和奈も、今いる日本が今まで住んでいた日本とは違う場所だということを信じざるを得なくなっていた。もしやと思い、設置されていた自動販売機に小銭やお札を入れたところ、何度やっても突き返されたのも追い打ちとなった。おそらくこのまま警察へ言っても妄言を吐く不審者として扱われるかもしれないと、和奈はあてもなく歩き回り、今はアパート群の中にある寂れた小さな公園のベンチに座り、今後についての思考が詰まった稲穂を垂れさせていた。
知らない日本で無一文。さきほど考えたことが現実味を帯びてくる。
(ホームレス……でも)
完全に生活していく手段をなくしてしまっていた和奈だったが、それと同時に思い至ることもあった。
(でも、これだけどうにもできなくなればやっと勇気を出して死ねるかも)
今まではなまじ逃げ道があるため、和奈は死ぬ勇気が出なかった。しかし、今はどうだろうか。完全に無一文で帰る場所もない。果てはおそらく戸籍までないのだ。逃げ道は断たれていた。
幸い、この公園はアパート街の少し奥まったところに作られており、遊んでいる子供はおらず、近くを通る人も全くいない。公園の隅にあるベンチにいれば簡単に見つかることはないだろう。
和奈はベンチを軽く払うと、体を横たえ目を閉じた。
ベンチは、日陰にあったからかひんやりと気持ちが良かった。
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