第2話

「……どこ、ここ」


 いつもの玄関ドアから出て目に入ってきたのは、古びたアパートと思われる建物が並んでいる知らない通りであった。和奈の住んでいるアパート周辺は、高級ではないがある程度清潔に管理された建物が並んでいるところだった。そも、彼女は二階の部屋に住んでいたはずなのに、今はそのまま通りに出ている。さらに、先ほど時間を見たとおり、もう日の出ているような時間ではなかったはず。だが、太陽はお構いなしに彼女の頭部を焼いている。

 明らかにおかしい状況に今出たドアの方を振り返ると、そこは何かの建物があった。その建物に入るためのドアとは別に、壁の空白部分に飲食店の裏口に使われるようなスチール製ドアだけがついているようで、ここから出てきたらしい。自分が住んでいるアパート前ではないことは明白だった。

 自身のおかれた状況に理解ができないまま、心臓の脈打ちが少しずつ思考を上書きし始める。とっさにドアに向き直り、部屋に戻ろうとする。が、なぜか鍵がかかっているかのように扉は開かない。


「え、鍵かけてないのに」


 理解の追いつかない状況が立て続けにおこり、パニックに陥りかける。とても少ないないものの、この通りを使用しているものはいるようで、歩きながら和奈を少し訝しむように見ている。買い物をするためだけだったので、ゆるい半袖とルーズなズボンの半寝間着姿のままというのも相まった。彼女もそれに気づき、おかげで完全にパニックにならず平静を保てていた。


 しかし、どうすることもできず呆然とその場に立ち尽くしていると、通りを走ってくる音が聞こえてきた。そちらを見やると若い男が彼女の方向に向かって走って来ている。男は明らかに和奈の方を見ており、伺うような様子で近づいてくる。和奈もそれに気づき身構える(護身術ができるわけではないので少し縮こまるだけだが)も、知らない場所故どこに逃げることもできずにそのまま男の方を向いて固まっていた。男は男で和奈がこちらを警戒しているのを察し、少し遠めのところで減速し歩いて彼女に近づいた。男はくすんだ茶髪に青基調の半袖とベージュのチノパンというラフな服装をしており、平均より身長が高めの和奈よりもほんの少し背が高いようだ。


「すんません、そこ使っても大丈夫ですか?」


 様子を見るように一拍間を置いたあと男は和奈に尋ねた。敬語だが、どこか軽さの抜けない声。彼は和奈を妙に感じながらも気の良さそうな笑顔で和奈に接する。和奈も、自分ではなくドアに用があることと、現状を把握できそうなことに少し安心して、質問をした。


「え、あ、すいません。その……買い物に行こうとして家を出たらここに出てて、そしたら知らない場所で、ここってどこなんですか?」


 まとまりのない伝え方に男は困惑しつつも答える。


「えーと、ここはコウジマ市の4丁目ですけど」


 和奈の住んでいる近くで聞いたことのない地名だった。


「……えっと、すいません。知らない地名で。千葉県のどこらへんですか?」


 その質問に男は言葉を探すように返答に困ったが、すぐにこう言った。


「すんません。チバケンってどこですか?」


「…………え?」


 予想もできない返答に和奈はとうとう固まってしまった。今の言葉の意味を理解しようと体は頭に血を上らせる。そのために心臓が固まった和奈とは逆に激しく動き出す。そして頭に血が上ったことで顔や手から血の気が引いていくのを和奈は感じていた。男も自分の予想以上に何かおかしいことが起こっていることを悟る。彼は一瞬思案し彼女に伝えた。


「俺、お手伝い屋というかなんでも屋というかそういうのやってるんですよ」


「え……?」


 思考が止まっていたところに突拍子もないような質問が飛んできて、彼女ははっと我に返る。男はその様子に気づき話を続けた。


「困ってるようなんで、よかったら話聞きますよ。相談だけなら無料なんで」


 男は尻ポケットからカードケースを取り出し、そこから名刺を一枚和奈に渡した。流されるまま和奈が名刺を受け取り目を落とすと、そこには『ご依頼なんでも承ります。灰花事務所。古永空巳。TELL――』と記されていた。

 最初こそ安心した和奈だったが、千葉県を知らないと言ったり、明らかにおかしな状況の自分に相談に乗りますなんて言い出したりする男に、今は正直なところ怪しさを感じずにはいられなかったが、他にどうすればいいか分からないのも事実。名刺と男を一回だけ交互に見ていると、


「あ、それって読みます」


 男は和奈が名前の読み方で悩んでいると思ったのか丁寧に読み方を教えてきた。


「あ、さっき言った相談ですけど、今他のお客さんの仕事中なんでそれが終わってからでいいですかね。すぐ終わるんで。あ、で、そのドア使ってもいいですか?」


「あ、はい」


 ずっと頭を回し続けている和奈はなんとかそれだけ返し、先ほど出てきたドアの前からどく。

 空巳はポケットから鍵を取り出し、ドアの鍵を差し入れ、ひねる。ガチャリという音を聞いた空巳はドアノブに手をかけ、ドアを開ける。一連の動作になんら見慣れない部分はなかった。


(そうだ、警察――)


 が、そのドアの先には和奈の家とは全く違う構造の玄関が居座っていた。開いたドアからはかすかなタバコの臭いが鼻に非現実を伝えに入ってくる。

 今までの生活と何ら変わりないドアを開ける操作に、ようやく現実的な次の行動を思いついた和奈だったが、そのドアの向こうの非現実に、もう自分の現実的な考えでどうにかできる状況ではないことを思い知らされる。

 空巳は和奈の諦めはつゆ知らず、ドアが閉まらないよう手をかけながらその先の玄関を軽く見まわす。背の低い下駄箱の上にビニールが置いてあり、中身を見る。中には数個のタバコが入っているのを確認し、「あ、これか」と中にある煙草を一つ掴み外に出てきた。

 空巳は和奈がいることを確認すると、


「じゃあ、ちょっとついて来てもらっていいですか?」


 と尋ねる。和奈は「分かりました」と答えるほかなかった。

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