第2話 朝の戦い

 冴子は、アパート2階の角部屋に住んでいる。きちんと整理整頓されているから、手狭な空間は広く見える。

 このとおり、冴子はきちんとした人間なのだ。

 そんな真人間は今、頭の包帯を巻き直したあと、鏡の前で脂汗をかいていた。

 なぜなら肉厚なまぶたを押しあげ、ソフトコンタクトを眼球に入れようとしているから。

 目の乾燥で勝手に涙が滲む。四苦八苦しても、濡れたまぶたはツルツル滑ってなかなか開いてくれない。

 ようやく眼球と密着しようという段になっても、ポロッと落ちる。


 グッ、入らねえ……!

 これだからコンタクトは。


 これはもはや戦争だ。

 朝の社畜の一重まぶたVS融通のきかないコンタクト。

 頭の中でイメージする。

 ウーウーと鳴り止まない警報。

 隠れ潜む塹壕で、ババババババと敵の散弾銃を受ける。


 い、痛え……!


 現実でも、コンタクトの丸い縁が目に刺ささり、痛くて痛くてじわっと涙が出た。指が滑ってますます入れにくい。

 負けじとイメージの中でこちらも銃を構え、バババババと敵に撃った。


 指令! 9時までに出社せよ。

 部長ツルピッカの雷被害は甚大であります!


 まぶたをぐぐっと押しあげる。出社時間は刻一刻と迫っている。


 うおおおおぉぉぉぉ!!!!


 ピタッ。

 激戦の末、コンタクトが黒目に張りついた。ほおーっと深く息をつく。

 

「はあああああああ」


 一個しかないメガネだったのに。平日は時間ないし、週末修理に行くまでコンタクトにしなきゃいけないじゃん。

 

 ピーポーピーポーと、外から聞こえるたくさんのパトカーの音が耳障りだ。


 うっせえなあ。立ちこもり事件でも起こったのでもあるまいし。


 ピンポンピンポンピンポーン。

 連続でチャイムが鳴らされ、ドンドンと外から性急にドアが叩かれる。

 びっくりして肩が跳ね上がった。

 ドアの向こうから、くぐもった心配そうな声が聞こえる。


「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」


 怖! なに……?


「『怖い』? やはり不審者ですか? 開けてください!」

「もしもし。A署だが至急応援に来てくれ。銃を持った男が女性宅に立てこもっている!」

 

 一体何のこと? 意味不明だ。

 外のほうから、ざわざわと野次馬のような人の声がする。

 何かと思ってカーテンから外をのぞきこむと、大勢の野次馬がアパート前に集まっていた。

 

「銃声が……」

「雄叫びが……」


 わけがわからない。


 なんか大事になってない?

 なんか対応したほうがいいの?

 でもなに言ったらいいの? 

 どうする私……。

 

 ……いやでも待て。


 こちとら勤め先はブラック企業。フレックス勤務なんて、世間のお会社にあるようなものはない。固定出社時刻9時から1秒でも遅れれば、頭テカテカ部長から雷をくらう。

 秒で頭を切り替えた。




 ドンドンと、ドアは叩かれ続ける。


「石島さん! 開けてください!」


 そんなくぐもった呼びかけとともに。

 玄関前で、覚悟を決めた冴子は頭を後ろでひっつめる。気を落ち着かせるため、ふぅっと息を吐いた。

 気分はスタート地点にいるボルト。

 鍵のつまみとドアノブに指をかける。


「せーの……」


 同時に回して勢いよくドアを開ける。

 外にいた警官や大家が、驚いて飛び退いた。


「わっ」

「石島さん、署で事情を……」

「ごめんなさい!!」


 大声で謝りダッシュする。

 止めようとする警官や大家もふりきる。とにかくふりきる。こういう場合、勢いが肝心だ。

 とにもかくにも、急いでいる。

 ブラック勤めOLは、クソ忙しい朝に不審者だの銃撃だの立てこもりだのなんだの、意味不明なことにはかまけてられない。


 山手線のホームまでダッシュ。

 汗だくだくで、なんとか出社時間に間に合った。




 オフィスに到着すれば、大量の業務を無心でやっつける。

 そのうち、10時になった。

 ちょうどいい時を見計らい、席を離れていそいそトイレに向かう。少し休んでストレッチがしたい。

 頭テカテカ部長は自分の業務で手一杯なのか、パソコンを凝視し、冴子なんか目にもとめていなかった。


 今日は1時間おきにトイレに行けるぞ。今日の弊社はホワイト。ヒャッホウ。


 テンションマックスでいたら、部長がぎろっと上目でこちらをにらんだ。

 見つかった。

 気まずくて、そそくさと逃げる。




 少し落ち込みながらトイレに入ろうとしたその時。

 入れ違いに、キャッキャとうるさい声をたてて、数人の若い派手な女子社員たちがトイレから出た。ブリブリ女横山もいる。

 彼女らは冴子を見るなり、バカにしているのか、ププっと笑った。


「地味子のくせにコンタクトしてる」

「コンタクトでもダッサ。ブス」


 冴子は女子社員たちを上から下までながめた。このソフトコンタクトは、メガネより度数が高い。普段よりクッキリ見える。

 ひとしきりながめまわしてから、心の中でふっと笑う。


 いや、あんたらのほうがダサいでしょ。


「は?」


 彼女たちは、口も目も全開で開けている。


 ブランドで固めてるだけでセンスねえんだよ。成金かよ。その程度のファッションセンスでマウント取ろうとするんじゃねえ。


 かしましい口たちは、めずらしく何も言ってこない。


 つーかてめえら顔の肌ガビガビじゃん。塗り絵のしすぎ。はい、美肌で私の勝ち〜。あんたのほうがブス。


 女子社員たちは、ただ立ちすくんでいる。

 ついで、反応が変わった。

 顔をゆでだこのように赤くする者。

 横山のように、突然わあっと泣き出す者。

 思わぬ反応に、冴子は混乱した。


 え? なんで泣いてんの?


「なんでじゃないよ! そこまで言うことないじゃん!」


 は? なにも言ってないじゃん。


「部長に言いつけてやる!」


 女子社員たちは、互いに背中をなでたり慰めたりしながら、小走りでオフィスへ戻ってしまった。

 冴子は、ぽかんとしながら見送るほかなかった。

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