Episode1・ゼロス誕生7

「ゼロス、そろそろこれを食べてみますか? 歯が生えてきましたし、そろそろ噛めますよね」


 ゼロスの小さな口から覗く小さな白い前歯。ちょこんとした愛らしい前歯です。

 歯が生えてきたら柔らかい食べ物から食べさせるように育児書に書いてありました。


「あむあむ」

「そう。あむあむ、ですよ?」


 柔らかいパンをミルクに浸し、更に柔らかくしてゼロスの小さな口に持っていく。

 するとゼロスはかぷりと齧りついて、ちゅーちゅーとミルクを吸い、あむあむと噛み始めました。


「あむあむ」

「上手ですね。この調子なら他のものも食べられるかもしれません。今夜から少しずつ試してみましょうか」

「あむあむ」

「たくさん食べて、いい子ですね」


 ゼロスに話しかけ、側でタルトを頬張っているイスラに目を向けます。


「イスラもいかがですか? ふかふかに柔らかくて美味しいですよ?」

「いらない。ゼロスがたべろ」


 イスラはそう言うと、指についた木の実のジャムをペロリと舐める。

 剣術の稽古を終えたばかりでお腹が空いていると思うのですが、イスラはゼロスが食べているパンには手を付けませんでした。


「いいんですか? あなた、パンは柔らかいのが好きですよね」

「すきだけど、かたいパンもすきだ」

「そうだったんですか?」


 硬いパンも好きだったなんて知りませんでした。以前はミルクに浸しても残してしまっていたのに。

 でもイスラが照れ臭そうに私を見ます。


「ちがう。ブレイラがつくってくれたパンがすきなんだ。ブレイラのパン、おいしい」

「イスラ、あなた……」


 胸がいっぱいになっていく。

 かつての思い出が淡い色彩に彩られていきます。イスラがまだ赤ん坊の頃、私たちには何もありませんでした。干からびた果実と硬いパン、スープはぴちゃぴちゃで具材なんてほとんど見えなかったくらいです。粗末な家での貧しい生活はイスラにたくさんの我慢をさせました。

 でも、その日々一つひとつが愛おしいです。それはイスラが側にいてくれるからですね。


「嬉しいです。またたくさん作ってあげますからね」

「うん!」


 イスラは大きく頷いて動物の形をしたクッキーを頬張りだしました。

 おいしそうに食べる姿に目を細めていると、俄かに東屋の外が騒がしくなります。


「楽しそうだな」

「あ、ハウスト。お疲れ様です」


 ハウストが東屋に姿を見せました。

 ハウストの後ろにはフェリクトールが控え、その後ろには側近や文官たちの姿もあります。


「お前たちが庭にいると聞いて、休憩ついでに来てみたんだ。邪魔してもいいか?」

「もちろんです、どうぞ」

「ありがとう」


 ハウストは東屋に入ってくると私の正面のチェアに座りました。

 私の隣にはイスラ、両腕はゼロスに塞がれています。


「紅茶を淹れましょうか」


 ゼロスを預けて立とうとしましたが、「そのままでいい」とハウストに制されました。


「ゼロスの食事の邪魔はできない。お前の紅茶は夜に、二人きりで」

「はい。ではその時にとっておきを」

「それは楽しみだ」


 ハウストは穏やかに笑うと給仕係の淹れてくれた紅茶を飲みました。

 ゆったりとした時間に上機嫌のハウストでしたが、控えていたフェリクトールが釘を刺します。


「休憩は手短に頼むよ。今日中に片付けたい案件があることを忘れてないだろうね」

「……お前という奴は、ほんとうに」


 人がいい気分でいるというのに、とハウストが苦々しい顔になりました。

 もちろんそれに動じるフェリクトールではありません。眉をぴくりとも動かさず淡々としたままです。

 そんな二人の様子に私は思わず笑ってしまう。


「相変わらずお忙しそうですね。フェリクトール様もここでご一緒しませんか?」

「誘うのか? 甘い菓子が甘くなくなるぞ?」

「こら、ハウスト」


 窘めましたがハウストは悪びれた様子はありません。

 フェリクトールはなんとも嫌そうにハウストを見ましたが東屋に入ってきてくれました。


「冥王はまだ赤ん坊のようだね。勇者の時とは違うようだ」

「はい。イスラはあっという間に成長しましたから」


 そう答えると、ハウストも私の腕の中のゼロスを覗き込みます。

 柔らかなパンをあむあむ食べるゼロスに優しく目を細め、赤ん坊の丸い頬をひと撫でしました。


「イスラとの違いは、おそらく時代の違いだろう」

「時代の違い、ですか?」

「ああ。イスラは時代に成長を急がされていた。早く力を付けなければ身を守れなかったからな」

「たしかに、あの時のイスラは先代魔王に狙われていましたからね」


 先代魔王は神の力を手に入れる為に勇者の力を必要としていました。そんな先代魔王から身を守る為、イスラは成長を急がれていたのです。


「ということはゼロスの成長がゆっくりなのは、もしかして」

「そういうことだ」

「それは嬉しいことです」


 笑みが零れました。

 もちろん普通の赤ん坊より成長は早いですが、今のゼロスに差し迫った危機も憂いもないということです。

 腕の中を見下ろすと、あむあむとパンを咥えているゼロスと目が合いました。

 きょとんとした顔で私を見つめたかと思うと、パンを咥えたまま嬉しそうに目を細めてくれます。

 なんの憂いもなく、孤独もなく、悲しみもない。無垢な蒼い瞳です。

 健やかに成長してほしいと願いますが、もう少し腕の中にいてほしい気もしてしまう。いけませんね、せっかく帰ってきてくれたのにゼロスを困らせてしまう。


「ゼロスにもイスラのような力があるんですか?」


 何気なく聞きました。

 イスラは生後数日で魔力を発動させたり、規格外の運動神経や戦闘力を持っていたのです。それは勇者を冠するに相応しい力でした。

 だとしたらゼロスにもそういったものがあるのでしょうか。

 こうしてパンをあむあむしているゼロスを見ていると、そんな力をまったく感じないのです。


「ある……といえばある、はずだ」

「なんです、それ」


 返ってきたのは珍しく歯切れの悪いものでした。

 ハウストらしくないそれにフェリクトールを見ると、彼まで難しい顔をしています。

 そんな二人の様子に不安になってしまう。


「あの、ゼロスになにかあるのですか?」


 もう一度聞いてみるとハウストが少し困惑しながらもゼロスを見ます。

 無邪気にパンをあむあむする姿を見ながらハウストが口を開きました。


「ある筈なんだ。卵から生まれてきた王であることに変わりはないからな。だが、その片鱗を感じない。俺や勇者や精霊王と並ぶ力を内包している筈なんだがな」

「え、それじゃあ今のゼロスは卵から生まれた王ですが、普通の赤ん坊と変わらないということですか?」

「ああ、それは恐らく冥界が消滅したからだろう。ゼロスが冥王であることに変わりはないが、その王が治めるべき世界がない。その所為で力を感じないのかもしれない」

「そういう事でしたか」


 ほっと安堵しました。

 ゼロス自身にはなんの問題もないのですね、それなら良いのです。

 あからさまに安心した私にハウストが意外そうな顔になる。


「そういう反応は意外だな。王とは力の象徴の側面もあるし、なにより力があれば災厄を自分で払うこともできる。ゼロスが困ることになるぞ?」

「そうですね、力は無いより有った方が良いことに間違いはありません。……でも、私個人としては力がなくても構いません。普通に育てばいいではないですか」


 そう言って腕の中のゼロスを見つめました。

 冥界が消滅した今、世界は魔界、精霊界、人間界の三界で構成されています。

 どうして冥王の卵が出現したのかは謎ですが、今、ゼロスは腕の中にいる。それだけで充分なのです。

 こうしてゼロスの力について話していると、ふと侍従長が近づいて来てフェリクトールに何やら耳打ちしました。

 フェリクトールは書簡を受け取って渋面になる。

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