Episode1・ゼロス誕生5

「紹介しよう。冥王ゼロスの乳母役だ。経歴、家柄、性格、適正、すべてにおいて申し分のない者を選ばせてもらった」

「初めまして、マアヤと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 マアヤと名乗った女性は優雅にお辞儀しました。

 身のこなしも気品がある女性です。フェリクトールが選んだというなら乳母役としてきっと間違いのない方でしょう。


「魔王様、お初にお目にかかります。この度、ゼロス様の乳母役になるマアヤと申します。若輩の身ではありますが精一杯務めさせていただきます」

「ああ、よろしく頼む」


 マアヤはハウストに挨拶をすると次は私にお辞儀しました。

 私の腕の中にはゼロス。側にはイスラもいます。

 二人の子どもを連れた私に少し驚いたようです。

 高貴な家柄の彼女にとって、王妃が子どもを連れていること自体が有り得ないことなのでしょう。高い身分の者たちにとってそれが常識なのです。

 でも彼女は咎めるでもなく、不審に思うでもなく、ただ明るく優しい表情で私にも挨拶をしてくれます。


「王妃様、この度は魔王様とのご成婚、並びにゼロス様のご誕生おめでとうございます。王妃様のお力になるべく参上いたしました。ゼロス様の健やかな成長の為、乳母として身命を賭してゼロス様にお仕えいたします。どうぞご安心ください」

「……はい。ありがとうございます」


 なんとか返礼を絞り出しました。

 マアヤと名乗った乳母役はとても優しそうな女性です。きっとゼロスは大切に育ててもらえるでしょう。

 大丈夫。私の手元を離れたからといって、私の子どもじゃなくなる訳じゃない。だから大丈夫。

 マアヤはイスラにも挨拶をすると、もう一度私に向き直ります。

 そして優しげな表情で両手を差し出してきました。


「どうぞ、ゼロス様をこちらに」


 促されて、唇を噛みしめる。

 腕の中のゼロスを見つめると、ちゅちゅちゅちゅちゅ、親指を吸いながらじっと私を見上げていました。

 目が合うとゼロスは嬉しそうに小さな手を伸ばしてくれる。


「あーうー」

「ゼロス……」


 名を囁くと、安心したようにまた「ちゅちゅちゅちゅちゅ」と指を吸いだしました。あなた、とても可愛いですね。


「ゼロス様、とても愛らしいですね」


 マアヤが目を細めてゼロスを見つめます。

 それに私も頷いて、抱きしめているゼロスをゆっくりとマアヤの腕にもっていく。

 大丈夫、マアヤはゼロスを愛らしいと言ってくれました。大切にしてくれます。マアヤに任せればゼロスを立派に育ててくれるはずです。

 これは必要なことで魔界の古くからの慣例なのです。だから守らなければならない。

 ゼロスをマアヤに抱かせようと、その小さな体を手放そうとして。


「――――や、やっぱり嫌です!!」


 離れる寸前、ゼロスをきつく抱きしめました。

 突然声を上げた私に部屋がシンッと静まり返る。

 ハウストも驚いた顔で私を見ています。でも構いませんでした。だってやっぱり嫌なんです。

 頭では乳母役に任せなければならないと分かっていても、どうしても心が拒否するのです。私はゼロスを手元で育てたい。絶対に離したくありません。


「ごめんなさいっ、本当にごめんなさい! 身勝手は承知しています、でもどうしても嫌なんです! ゼロスを離したくありません!」


 叫ぶように言った私にマアヤが一瞬傷ついた顔になる。

 でも彼女はすぐに取り繕い、申し訳なさそうに頭を下げてきました。


「申し訳ありません。私ではご不満だったのですね……」

「違います、そういう訳じゃないんですっ! フェリクトール様が選んだあなたの事は信用しています! だから、これは私の我儘なんですっ……」


 そう言って唇を噛みしめ、ゼロスをぎゅっと抱きしめました。

 ハウストが困った顔で私の肩に手を置きました。


「ブレイラ……」

「ごめんなさい、ハウスト。あなたを困らせていることは分かっています。でも、私は……」


 言葉を続けられずに黙り込むと、ハウストが息を吐きました。

 それがため息に聞こえて私の心も体も縮こまっていく。

 これは魔界の王妃として相応しくない事です。きっとハウストは呆れているのでしょう。

 でも。


「悪いがブレイラと二人きりに、いや、イスラも残れ。お前は俺とブレイラの子どもだ」

「ハウスト?」


 はっとして顔を上げる。

 ハウストは人払いを命令したのです。

 しかも部屋に残すのはハウストと私とイスラとゼロスの四人です。


「どういうつもりだね」


 フェリクトールがじろりとハウストを睨みます。

 それをハウストは苦笑して受け流しました。


「許せよ。話しが終わったら呼ぶ。悪いがそれまで下がっていてくれ」

「まったく……」


 フェリクトールは渋面をしながらも部屋を出て行く。それに続いて侍従や侍女も退室し、私の側近女官コレットは「ブレイラ様、扉の外で控えておりますので」とお辞儀して出て行きました。

 そして最後にマアヤも恐縮しきったような、申し訳なさそうな顔で私に深々と頭を下げます。


「王妃様をご不快にさせたことお許しください。それでは失礼いたします」


 そう言って部屋を退室したマアヤに申し訳なさで胸が痛くなる。

 マアヤは何も悪くありません。悪いのは我儘を言ってしまった私です。

 耐えれば良かったのです。あの時、我慢してゼロスをマアヤに渡していれば彼女を傷つけませんでした。

 でも、……両腕のゼロスをぎゅっと抱きしめます。誰を傷つけても離したくありません。


「ブレイラ」

「ハウスト、私……」


 おそるおそる顔をあげました。

 ハウストは苦笑し、ゼロスを抱きしめた私をソファへと促す。


「とりあえず落ち着こう。大丈夫だ、取り上げたりしないから少し肩の力を抜け」

「え、……あ」


 言われて初めて気が付きました。

 私の全身はガチガチに強張って、ゼロスを抱きしめる腕には不要なほどの力が入っていたのです。これではゼロスが苦しいだけです。


「ブレイラ、座って待っていろ。紅茶を淹れてくる」

「そ、それなら私が」

「俺にさせろ」


 ハウストはそう言うと茶葉を選んで紅茶を淹れ始める。

 私は少し迷いましたが、ゼロスを抱いたままソファに腰を下ろす。するとイスラもぴょんと隣に座って、心配そうに私の顔を覗き込んできました。

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