【後編】陸の上では、絶対勝てる
――カラン、カラン、カラン、カラン……
プールの時間が終わりを告げる。従兄と二人、水から上がってプールサイドを歩いておばちゃんの方へと向かう。おばちゃんは、ことの成り行きは見ていなかった様子で、仲良く競争でもして遊んでいたと思ったらしい。明るい声で話しかけてきた。
「すごいねー!50メートルも泳げちゃうんだ!」
褒められて嬉しくなる。もちろん、お母さんもお父さんもすごいって褒めてくれるけど、やっぱり普段会わない人に褒められるのは少しだけ照れくさくて、それ以上に嬉しい気持ちでいっぱいになる。
その様子を隣で見ていた従兄は、同年代の私が褒められているのを見て少し悔しくなったらしい。小さな声でぼそり、独り言のように呟いた。
「……オレも、悔しいから25メートルは泳げるように練習しよ」
(余談だけど、従兄はこの数年後、ちゃんと25メートル泳げるようになっていた。)
おばちゃんはこの後の時間の子たちの見守り当番も引き続きやるらしかったので、従兄と二人、先に家に帰ることになった。
「更衣室で着替え終わったら、正面玄関のところに集合ね」
従兄に言われて、私は首を縦に振る。スイミングで慣れている私は、さっさと着替えを済ませて荷物をまとめると正面玄関へと向かった。そこにはまだ従兄の姿が無かったので、大人しく玄関の端によりながら従兄を待つ。
不意に後ろから誰かに突き飛ばされて、思いっきり前につんのめってしまう。何が起きたか頭で理解が出来ないまま、後ろを振り返ってみれば、そこにいたのはさっきの
「じゃま。どけよ」
「は? 避けてるじゃん」
咄嗟に口をついて出た言葉。相手の子はその言葉が気に食わなかったらしい。顔を少しゆがめて、今度は肩のあたりをどつかれる。
「おまえ、ムカつく」
だけど減らず口を叩いてしまう私は、ここでも火に油を注ぐことを言ってしまうのだ。
「……ダッサ。さっき、私に負けたくせに」
「はぁ!?」
怒った相手の男の子は、今度こそ容赦なく思いっきり私の事をどついてきた。私は勢いあまって玄関の外、土のグラウンドにしりもちをつく。
「いったぁ……」
ここで私も完全にスイッチが入る。手に持っていた水泳道具の袋の紐部分を強く握りしめて勢いよく立ち上がると、水泳道具の袋を相手に向かってフルスイングでぶつける。それが見事、相手の子の脇腹の部分にクリティカルヒットする。
「……いってぇな!」
「先にそっちがやってきたんじゃん!」
相手の子は私の水泳道具の袋を掴むと、引っ張って私から取り上げようと躍起になる。必死に抵抗したけれど、運悪く水泳道具の袋の中からゴーグルが地面に落ちて、それを取られてしまう。
「なにすんの、返してよ!」
そう言って返してもらえるわけなんてない。その子はそのゴーグルの握りしめたまま、グラウンドの方に走って逃げて行ってしまう。慌てて追いかけるけど、残念ながら私は足が遅い。一生懸命走って追いかけるものの、全然相手の子を捕まえられなかった。
「足、おっそ! ざーこ!!」
ケラケラケラ。嫌な笑い方。だからこういう子、好きじゃないんだ。こうやってバカにしてくる感じとか、止めてって言っているのに止めてくれないところとか。
始めは一生懸命追いかけていた足も、徐々にスピードが落ちてくる。悔しさとやるせなさ。頭に血が上っていた私は一度立ち止まって、後先考えずに水泳道具の袋を抱え込むと相手に向かって思いっきり投げつけた。
ボフッ!っという音がして、それは見事、相手の子にぶつかる。だけど地面に落ちた水泳道具の袋を相手が見逃すはずもなく。相手の子に思い切り蹴っ飛ばされた水泳道具の袋は、土のグラウンドの上、無残に転がった。土で汚れてしまった水泳道具を見て、思わず俯く。
「ねぇ。そのゴーグル。返せよ」
いつの間に来たんだろう。全然気が付かなかったけど。声のした方に顔を向けると、従兄がクラスメイトの男の子の方へ向かって歩いていた。いつも聞いている従兄の声とは違って数段低めのトーンで真顔なのを見て、冷静な自分が『あぁ、珍しいな』なんて思った。
「は? やだねー」
そう言って、馬鹿にしたように笑いながらまた走り始める相手の子。それを従兄は真面目な顔で追いかけ始めた。
最初は結構な距離の間合いがあったはずなのに、だけどその距離を確実に詰めていく従兄。相手の子は一生懸命逃げてフェイントをかけたりしていたけれど、それでも徐々につまっていくその距離。相手の子から、少しずつ余裕の色が消えていくのがわかる。……さすが。足速い。
いよいよ間合いが詰まって、従兄が相手の子の腕を掴む。勢いそのままで二人してグランドに転がって、相手の子の手から私のゴーグルがこぼれ落ちる。従兄はそれを見逃さず、素早くゴーグルを取ると、もう取られることが無いようにしっかりと手で握りしめていた。
「……っ、ムカつく……!」
相手の子の標的は、今ので完全に私から従兄へと移る。もうゴーグルなんてどうでもいいんだろう。相手の子は従兄に掴みかかる。
「おまえ、泳げないくせに!」
だけど従兄も負けじと、掴みかかりながら言い返す。
「おまえこそ、オレより足、遅いくせに!」
そこからの事は、正直あまり覚えていなくて。しばらく二人は揉み合っていたと思う。気が付いた時には、相手の子が捨て台詞に『ばーか!』とかなんとか言いながら、走って帰っていった後姿だけ、私はぼんやりと見ていた気がする。プール終わりなのに、いつも遊んでいる時より土で汚れてグラウンドに転がっている従兄の姿を見て、あぁ、全部自分のせいだ、と思った。
私が、あんなことしなければ。あの時、あんなこと言わなければ。そもそもプールについてこなければ。
後悔の念が押し寄せてきて、その場から一歩も動けなくて。その間に従兄は立ち上がると、取り返したゴーグルと私の転がったままだった水泳道具の袋を拾って、私の方にやってくる。
「はい。これ」
水泳道具の袋の土を払って、ゴーグルと一緒に私の方へと渡してくる。私はぼんやりしたままそれらを受け取って、だけど何故かその場から動き出すことが出来なかった。
「……帰ろ」
従兄はそう言って、動き出さない私の腕を掴んで、家の方へと歩き出す。グラウンドを出て、家の裏手の轍に差し掛かる頃、一度立ち止まった私はようやく小さな声で従兄に言う。
「……ごめんね」
私が立ち止まったせいで一緒に止まることになった従兄は、私のその言葉を聞いて少し困ったように笑った。
「なんであやまるの」
「……私のせい、だから」
従兄が泥だらけになったのも。しなくていいケンカをしたことも。全部私が悪いから。
だけどそれをうまく伝えられない私は、それきり黙ってしまう。従兄は“私のせい”という言葉を、どう受け取ったのかわからないけど。
「でもオレ、今日のプール、楽しかったよ」
そうやって従兄が、本当に楽しそうに笑ったから。
重くなっていた私の心が、それだけで一気に軽くなってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます