【前編】水の中では、自由になれる

 その日、朝から従兄の元気があまり無かった。いつもならごはんを食べてすぐに始めるゲームにも触れず、居間でダルそうに何かの準備をしていた。 

「どうしたの?」

 私が聞くと従兄は重たい口を開いた。

「今日……どうしても学校のプールに行かないといけない日で……」


 従兄は、運動神経は悪くない。普段は小学校のクラブで野球をやっているおかげか、肩も強いし、足も速い。家の二階の屋根に登って遊ぶような子だし、どちらかと言えば私の方がどんくさいタイプだ。

 でも、ヒトって面白いな、と思うのは、何故か私の周りはそういう“陸上競技”が得意な子ほど“水泳”という種目に弱かった。従兄も例にもれず水泳が苦手で、だから朝からあまり元気が無かったらしい。だけどそれは逆も然りで、私は水泳の方が得意だった。


「えー、いいなー、プール」

 私は元々小さい頃から水泳を習っていたこともあって、プールが大好きだった。遊びに行って浮き輪を付けて浮かんで……というより、コースに分かれて好きなだけ泳げ!みたいな方が特に。泳ぐ距離も学校の授業のプールは物足りなく感じるタイプだった。


「オレと変わってよ……」

 そういう従兄の声はあからさまに元気が無い。私だって代われるならいくらでも代わりたい。むしろ泳ぎ倒したい。……そんな時、後ろから聞こえてきた、まさかの提案。

「今日、おばちゃんが水泳の見守り当番なんだよね。二人とも一緒に行っちゃう?」

 従兄が通っている家の裏の小学校は、夏休みの期間中の水泳の見守りを保護者が交代の当番制だった。その為この日、忙しくて滅多にお休みの無いおばちゃんだったけど、休みを取って見守り当番をするらしかった。


「え、行っていいの!?」

 まさか、こっちに来て学校のプールに行けるとは思ってなかった。こっちにいる間に数回、山の方にある温泉プールに連れて行ってもらうことがあるから、水泳道具自体は持ってきていて、だから行こうと思えば行ける状態ではある。

「あんた一人じゃ、嫌なんでしょ?」

 おばちゃんが従兄に聞くと、従兄は俯いて少し考えてから、『一緒に行けるなら、一緒がいい』と言った。それを聞いたおばちゃんが少し笑って、明るい声で言った。

「よし。そしたら二人とも、準備して行こうか!」


 従兄の小学校はまさに家の裏、道路を挟んですぐにあるので、プールの時は子どもの騒ぎ声が聞こえてくる。遊びに来ている身である以上仕方が無いことだけど、従兄がどうしてもプールに行かなきゃいけない時は、私は他の子たちの騒ぎ声を聞きながら一人時間を潰すしかなかった。それが今日は、プールで泳げるなんて!!


「準備できた!」

 意気揚々、水着を服の下に着ておばちゃんと従兄に声をかける。ルンルン気分で浮かれていると、従兄が小声で話しかけてきた。

「あのさ、嫌なこと言うやつ、いると思うけど。気にしなくていいからね」

 従兄曰く、何かと突っかかってくるクラスメイトがいるらしい。普段は従兄の方が足も速いし、運動神経も負けることはないけれど、夏になるとその立場が逆転する。で、ただでさえ水泳が苦手な従兄は、そのクラスメイトに揶揄われることがさらにプールに行きたくない理由らしかった。

「うん、わかった!」

 そう私は答えた。っていうか、ほとんど気にしていなかった。少なくとも、この時は。


 ――カラン、カラン、カラン、カラン……

 従兄たちの学校のプールは学年ごとに時間が決まっていて、始まりと終わりの合図に鐘が鳴る。着替えを済ませて(他の女の子たちから好奇の目で見られていることは薄々わかっていたけどガン無視だった)プールに向かうと、見つけた従兄の横には知らない男の子。

「おまえ、泳げないのに来るの、大変だよなー」

 そう聞こえて、あぁ、さっき言ってた、って瞬間でわかった。従兄には申し訳なかったけど、こっちの学校のプールのルールがわからない以上、声をかけるしかない。ヒトひとり分以上離れた位置から、少しだけ大きめな声をかける。

「ねー、もう向こう行っていいのー?」

 私が従兄に声をかけると、従兄と男の子がこちらを見る。

「は? おまえだれ?」

 その言葉に、従妹が先に答える。

「あ、従妹。夏休みに、こっちに遊びに来てる」

「はぁ? いいのかよ、学校のプール来て」

「……今日、オレのお母さんが当番だから、いいよって」

「ふーん?」

 そう言ってその子は従兄の横から一歩、二歩と私の方へ向かってくる。

「従妹、ねぇ?」

 上から下まで値踏みされるような感覚。本能的に悟る。この子、私好きじゃない。


 その場はそれ以上特に何もなく、プールの時間が始まった。……と言っても先生たちが居て泳ぎを教える、というようなものでは無くて、6コースあるうち半面の3コースはロープを取り払われて好きに遊べるように。残りの3コースは泳げる子が好きなように泳いだり、隣のレーンと競争したりできるように。保護者はその間事故が無いように見守る、というような緩めのプールだ。それに田舎の学校ということも手伝って、子どもの数は10人ちょっとくらいなので、かなり広々と使えるプールだった。


 泳ぐのが苦手な従兄とそれを知っている私は、好きに遊べる方でフワフワと浮かんだり潜ったり。すると、先程の男の子がちょっかいをかけてくる。

「おまえ、相変わらず全然泳げねーじゃん、ダッサ」

 馬鹿にするような声と目。あからさまに笑っている口元。……いやなやつー……。

 従兄も私も聞こえないふりをしていると、それが余計に気に食わなかったんだろう、その子はちょっかいをかけることを止めなかった。

「従妹も全然泳げねーんだろ。二人そろってダッサ」

 ケラケラケラ。バカにする笑い声。それに先に限界が来たのは私の方だった(何度も言っているが、私はとても負けず嫌いな質だ。加えて“男の子”に負けるのが心から好きじゃない)。

「は? じゃ、あんた泳げんの?」

 まさか言い返してくるとは思わなかったのか、その子は一瞬目を見開いて驚いた顔をした後、すぐに表情を戻して言う。

「当たり前だろ?」

 ……小学生は、良くも悪くも世界がまだまだ狭い。自分の生活圏だけが“世界”だから。

「ふーん? じゃ、勝負、する?」


「じゃ、位置について……」

 誰も泳いでいない3コースのうち2コースを占領して、競争をすることになった。従兄がスタートの合図を出すことになって、私と男の子の二人がスタート体制に入る。

「よーい……ドンッ!」

 その声に二人、ほぼ同時にスタートをした。特に何を泳ぐとも決めていないから、一番泳ぎやすいクロールで。こっちに来てから泳ぐ機会のなかった私は、久しぶりの水泳にテンションが爆上がりだった。


『泳ぐの、きもちー!』

 普段学校のある時、週二日スイミングに通っている私は、個人メドレーで200メートルの基準タイムをクリアすることを目標のクラスにいる。だからタイムを競うほどガチではないけれど、比較的泳げる部類に属していた。

 青く染まる水の中、ほとんど呼吸無しでとばしていく。ぐんぐんと自分の下に見えるレーンのラインが後方に流れていくのを眺めながら、両手を交互に前へと掻いていく。残り5メートルの目印のラインが目に入るとふと思った。

『終わっちゃうの、嫌だなー。……あぁ、そーだ』

「ぷはっ!」

 手をプールの壁にタッチさせて、顔を水面から上げる。そしてそのまま深く息を吸い込んで、そこから体を反転させて、もう一度クロールを始める。

『終わり、にしなきゃいいんだ!』

 今来たコースをもう一度、今度は従兄がいる方へと戻っていく。50メートル泳ぐのは疲れるけど、その何倍も気持ちが良い。思いっきり水を搔いて、水を蹴って。戻りは呼吸が続かないから息継ぎが増える分、プールサイドの外に植わっている木々が後方に流れていくのを冷静に眺めている自分が居て。そのまま自分がスタートした方の壁にタッチして水から顔を上げる。隣のレーンに人の気配が無くて振り返ると、25メートル先に男の子はいた。


「あ゛―……、つかれたー、きもちー……」

 満身創痍。泳ぎ終わって脱力して、ぷかーっと水に背面で浮く。見上げた空がどこまでも青くて、太陽の光が眩しかった。

「すっげ、50メートル泳げるんだ……」

 従兄が横から話しかけてくる。フワフワとした心地よさに身を委ねていた私は、きっと笑っていたと思う。

「勝負前に距離、決めてなかったからねー」

「いや、25メートルの時点で勝ってたよ。全然アイツより先に顔上がってたもん」

「ほんと? やったー」


 その後、プールの時間が終わるまで、その男の子がちょっかいをかけてくることは無かった。だから完全に油断していた。

 ……私は、“水泳だけ”が、得意なんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る