第4話 理科準備室の小枠から
理科準備室の小枠から
「リーダー?」
四人が声をそろえて、言った。すっかり理科準備室がたまり場となってしまったのだが、ここの長は特別文句も言わず、回る椅子に座ってソファは明け渡していた。その回る椅子から、長こと多田羽海はたばこの箱を弄りながら、四人に頷いた。たばこの箱はいつか満田涼が聞いたところでは、お守りなのだそうだ。
「必要なんすか?」
「あぁ、正式に短距離走の中の種目として活動をするなら、必要だ。合宿の話し合いにも出てもらわないといけない」
はい、と巻内健介は声を上げた。誰も指名する者はいないので、続けざまにしゃべり出す。
「俺は、無理。ていうか時間がない」
三年生は八月には引退してしまう。健介の言うことはもっともで、今年はインターハイを見送ってしまったので、すでに引退もして良い。だが進学先でも走るのか、体が鈍るのが嫌だと残っていてくれている。
「俺たち一年は無理ですよね。他に上級生が入ってきたときにまとめきれないです」
秀ももっともらしいことを言う。本当のところ面倒くさいのだろう、とその場の誰もが思ったが、言うことには一理あるので反論できない。
「じゃぁ、もう俺しかいないですね」
やれやれ、と本井亨は言う。いつも通り柔和な笑顔ではあるが、わずかに眉根の下がっているのを、多田は見逃さなかった。それでも彼しかいないのだから諦めてもらうしかない。四人を見ていた多田は、窓辺から外を眺める。そこからはわずかに、陸上部のグラウンドが見えた。ほんの端切れが見えるのだが、四人はいつもそこに集まっていた。第一走がスタートする場所だからだろうか。
多田はその場所を懐かしく思う。
私立みやま高等学校は、十年前に一度、大改築工事をしている。それまで鉄筋コンクリート製だった校舎はレンガ造りを思わせる外装に、真新しいスポーツ設備を整えていたが、教室の配置だけは変わらなかった。多田は深山市の隣、岡田市の出身だがスポーツ、とりわけ陸上をしたくて私立に入学した。まだ校舎は鉄筋コンクリート造りだったが、その当時からすでに私立は将来プロに通じるような生徒を集めていた。
多田も今受け持っている四人と同じように、理科準備室でたむろする学生の一人だった。もう五十近い男性教師がその当時ここの主だったのだが、多田とは正反対に、生徒を過度にかまう質であった。
ぼんやりと校舎の外を眺めていると、さっそく涼と秀がやってきた。放課後誰よりも早く準備を始めることが多い。リレー選手を毎年何名か選出してもらっていたが、とうとう今年は四名ぎりぎりしか出せないと言われた。加えて、本人の承諾がない限りは走らせないとも。
五十余名ほどいる陸上部だ、絶望的な数字ではない。だが多田にとっては絶望的だった。落ちこぼれの吹きだまりと呼ばれていたリレー走には誰も入ってくれるわけがないと、思っていたのだ。だがそこに奇跡のように四人集まった。
多田の心はそれでも踊りはしなかったが、何かの巡り合わせだろうかと、期待しない心はなかった。ドアを三つ叩く音がした。全国総体に出ることのできなかった者たちを集めて、夏合宿が行われる。その話し合いに必要な教員と各種目別のリーダーが集まることになっているのだ。
開きっぱなしの入り口を見れば、そこには亨が立っていた。
「先生、行かないと遅れますよ」
大人しく、穏やかで、あまり目立たない。はきはきと喋る健介に、どこか生意気な秀、そして素直で元気な涼の三人に囲まれると、彼はとたんに影が薄くなってしまう。
だが、三人の輪をまとめているのは彼だろうと多田は思う。必要なときに必要な分だけ声かけをし、意見をする。大事なときには必ずいて、支援や手助けをする。地味だが根性のいることだ。
今も時間の経つのを忘れていた多田を呼びに来た。手はかからない。だが多田にとって、彼は目を引く存在だった。
「多田先生?」
「・・・・・・あぁ、行く」
多田はそう言って、お守り代わりに持っているたばこを白衣のポケットにしまった。戸口を出ると、半歩後ろを亨が歩く。話し合いの会場となるのは、ちょうど理科準備室の真上にある図書室だ。図書室には窓際にカウンターがあり、左奥にロの字型になった長机が並んでいる。
多田と亨が図書室に来たときには、ほぼ全員が集まっていた。あとは今回の合宿で中心となる、監督だけだ。不在は全国総体に出場する長距離部門の生徒リーダーだった。
雑談のなされている中、所定の位置に座ると監督を待たずして、話し合いが始まった。監督は外部の人間だが、ほぼ毎日来ているので、学校の人間と呼んでもおかしくはない。その監督の不在を不思議に多田は思ったが、誰も説明はしてくれなかった。
合宿の話し合い、と言ってもほぼ決まったことを伝えるだけで終わる。つまり合宿について共通認識を持つことが狙いなのだ。各種目別に綿密な計画が発表されていく。多田も亨に計画を立てろとは言ったが、復活したばかりのリレー走だ、穴だらけだろうと、フォローを入れようとは思っていた。
亨の番になると、特に緊張したような様子はなく、あらかじめ用意しておいたのだろう、原稿を読み上げた。それによると、午前八時から十一時の間にリレー走の練習。午後、暑くなった時間に休み。夕方涼しくなってから筋トレなどを行うようで、簡単にまとめてみたが、亨の計画は特に多田のフォローはいらなかった。
合宿地は深山市にある、県内最高峰の山、深山の麓にある自然の家を使う。そこは陸上に必要な設備は一通りそろっていて、毎年陸上部はそこで合宿を行っていた。
多田は数年ぶりに参加する。ここ数年は県総体にでることができても、ぼろ負けすることが多く、夏まで部員が残ることはなかった。合宿期間は、いつも夏休み二日目から一週間。今年は七月二十五日から八月の一日までだ。
多田は白衣のポケットに手を突っ込んで、たばこの箱を弄った。吸っていた時期もあるが、あるときを境に多田がたばこに手を出すことはなかった。
早く練習がしたいのか、亨に続く生徒は早口で簡潔に述べた。教員や担当者も口を挟まない。ただの報告会となった話し合いは、一時間足らずで終わった。
亨の作った資料をコピーさせてもらうために図書室に置いてあるコピー機を使うことにした。亨は律儀に待つようで、練習に向かう様子はない。
「・・・・・・よくできている」
「本当ですか?よかった」
「報告にはなかったが、筋トレメニューが詳しく書かれているし、個人にあったレシピだ。うまい具合に考えたもんだ」
筋トレや体幹トレーニングは、全員同じでも多田はかまわなかった。そこは指導者である多田が細かく指示を出すつもりだったのだが。亨は細かく三人を見ているようだ。微妙に回数や秒数が違う。
「俺が思うようにしてみたんですけど、どうですか?」
おそらく、体幹の弱い秀と健介の体幹トレーニングは多めに設定してある。逆に上半身の筋力の足りない亨と健介はそこに重点を置く筋トレ内容になっている。もともとバランスの良い涼はバランス良く、といった感じだろうか。
「よく見ている」
多田の言葉に安心したように亨は微笑んだ。その瞬間、昔の記憶がよみがえる。懐かしいものを感じて思わず手を伸ばしていた。とっくにコピーは終わっている。本来その手は印刷物を取るための手だった。触れたのは色素の薄い髪の毛だった。
ちょうど真っ黒にしたらあいつと同じだな、と多田は思った。
「・・・・・・すまない」
「あは、多田先生もスキンシップするんですね」
そういうことにしておいて、多田は曖昧に頷いた。
次の日には、亨が作成した資料を基に一日のスケジュールが組まれたプリントがリレー走メンバーに配られた。若干の手直しはあったものの、大きく変わっているところはない。
一年二人は言わずもがな、三年生の健介も、二年生の亨も合宿は初参加であった。健介も亨も毎年二百㍍走と百㍍走で全国総体に行っていたのだ。健介は最後の総体をなげうって、リレー走にかけたのだ。下級生は最初に彼がリレー走を拒んだ理由をこの時初めて知った。
「後悔はしていないから問題ない。総体ならもう二度も出たしな」
スプリントにも出てみたかった、ときっぱりあっさり言ってしまうのは、健介らしかった。
理科準備室は、いつものように騒がしかったが、涼と秀が立ち上がったのをきっかけに、健介も出て行ってしまった。どうやら、昼休み後半を使った講習に出るようだった。この学校は決して文道に秀でいているわけではないが、それでも勉学は学生の本分だ。最低限度の勉強をさせるために昼休みを使った講習だった。
健介は受験の絡む講習だろう。ただ一人、亨だけはゆっくりと弁当をつついていた。この学校には購買しかない。食堂はないので、弁当か買い食いかの二択だ。
亨もきっとすぐに行ってしまうかと思ったのだが、今は小さな肉団子かハンバーグかわからないものを食べている。多田はそれを観察対象として、窓辺の回転椅子からじっと眺めた。
つむじの向きは逆だな、と思った。だが横跳ねする髪の毛や人の良さそうな表情がとても似ていた。昔の友人に。高校を卒業すると進学先が違ったせいで疎遠になってしまい、次に連絡を受けたのは、その友人が亡くなったときだった。
多田はそのときのことをよく覚えている。教員免許を取得して二年目のことだった。県内の他の高校に臨時職員として赴任した四月。友人の母親が震える声で電話をかけてきた。職場の電話だった。どこで知ったかは未だにわからないが、きっと人づてに赴任先を聞いたのだろう。
当時スマホも携帯電話も普及しだした時代で、まだ多田は持っていなかった。葬式には間に合わず、線香をあげに彼の実家を訪れた。悲しみに満ちた一軒家だった。何度も訪れたことがある。彼は深山市の出身だったからだ。
事故死だったという。トラックが歩道に乗り上げ、歩いていた友人は巻き込まれた。一瞬だっただろう、苦痛はそんなになかっただけましだった、そう言って泣き崩れる彼の両親の前で、多田は呆然とするしかなかった。
その友人の名は、今でも図書室の陸上部の記録に残されている。西あかねは第二走を走る多田のすぐあとを走っていた。特別に仲が良かった、その友人の両親から受け取ったのは、投函されなかった手紙だった。
その手紙に何が書いてあるのか、多田は知らない。まだ開封せずに大事に菓子缶の中にしまっている。投函しなかったということは、きっと、読ませるつもりなどなかったのだと、多田は思った。
なぜ、特別ではない亨が、特別に見えるのか、多田はわかったような気がした。
「そういえば、先生はご飯食べないんですか?」
不意に目があっていることに気づいた。いつの間にか亨はご飯を食べ終えて、几帳面に弁当箱を敷物で包んでいるところだった。昼飯は、四人組が来る前に簡易固形食を食べただけだった。多田にはそれで充分だった。
「お前らが来る前に食べている」
「ダメですよ、ちゃんと食べないと」
少しお節介なところも似ているな、と多田は思った。思えば思うほど似てくるような気がして、いたたまれない気持ちになる。早く出て行ってほしかったが、それを直接伝えることは躊躇われる。
そんな心中を見透かしているように、亨はゆっくりと支度をする。時計を見ればもう講習は始まっていた。
「お前、講習はどうしたんだ?」
「俺、専門なんで講習なしですよ」
走らないのか、多田は思わずため息をついていた。私立から専門へ行く人は少なくない。スポーツ推薦の望めない者の中でも勉学が大学レベルに達しない者は一定数いる。決して専門学校が広き門であるとは言えないが、自分に合う専門学校であれば、大学を目指すより建設的だ。
だが、亨はスポーツ推薦でも学力に関しても、申し分ないと言える。少なくとも多田は亨の嫌な噂は聞いたことがない。金か、と多田は思った。スポーツをするだけでも金がかかる。その上大学の費用など、馬鹿にならないだろう。
つい最近までは講習に出ていたので、彼自身は大学で走るつもりだったと思われる。専門学校もところによれば金は入り用となるが、それでも大学に四年通うことを思えば、という感じかもしれない。
良い陸上生活にしてやりたい、と瞬間的に感じた。これもまた、自分の気持ちを満たすため、だろうか。つい数ヶ月前に涼から言われた言葉だ。多田は指導者として失格でも、自分の気持ちを殺して生徒と向き合うことは、できなかった。
これは単純に亨を思ったものだろうか、それとも亨の陰に見えるあかねを思ってのことだろうか、多田は悩む前に思考をシャットアウトした。
「よい、合宿にしよう」
「はい」
心地よい声が耳殻をなぞるように聞こえる。あかねもこんな声だっただろうか、思い出そうとするが、まるで記憶を上書きするように、再生される声は亨のものだった。
月命日の六日は、ちょうど次の日であった。
早朝といえど、すでに日は昇っていて、歩いているとじわりと背中に汗をかくほどには、地表は温められていた。道の脇には朽ちて色の悪くなったあじさいの花が並んでいる。深山市の南西の丘の麓にあるのがみやま墓園であった。土地面積は大きな体育館ほどで、墓石がひしめき合うようにして立っていた。無縁墓石も多いのだが、管理の行き届いた、綺麗な墓園だった。
その墓園を入ってすぐ、右に曲がる通路をずっと歩いたところに、西家の墓はあった。去年墓石を買い換えたらしく、墓石はぴかぴかと早朝の光に照らされて神秘的な美しさをたたえていた。
歩きやすく舗装された道を多田は踏みしめた。四月の六日にも来ていたのだが、その頃とは心持ちが違う。報告したいこともあれば、相談したいこともあった。だが、それがすべてあかねに伝わるわけがなかった。
多田の悲しみはとっくに癒えてはいたが、悲しかったという記憶は薄まることはない。
墓石の前に来ると、多田はそこに花のかわりにたばこの箱を置いた。それは彼が好きな銘柄だ。走ることをやめたあかねはたばこを吸うようになった。それに感化されて多田も吸っていた。好きだとは思わなかったが、同じ銘柄を。彼が死んでから、多田は吸わなくなった。もともとたいして好きなことでもなかったので、やめるに苦労はあまりしなかったように思う。それはおそらく、あかねの死が後押しをしていたのだろう、と今の多田ならわかる。
「今年は四人入った。四人とも優秀で、良い成績も残してくれた」
多田はゆっくりと手を合わせた。安らかに、そう心の中で呟くのが慣例だった。たばこをポケットの中に戻すと、体の向きを変える。多田とあかねは特別仲が良かったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。友達の枠からはみ出さないように、多田が注意をしていたのだ。
多田があかねに恋心を抱いていたのは、高校生活の中でも三年生のたった一年間だ。もう忘れていた、と思っていた心が思い出すように芽吹くのを感じていた。あかねによく似ているから好きになるのか、多田は大きくため息をついた。それは違うだろう、とひとりごつ。
賑やかな理科準備室を思い出して、自分が若返ったつもりかと、自嘲する。生徒に恋をするなんて、それこそ教師として、指導者として失格だろう。
ゆっくりと来た道を戻った。
多田は自分の車に四人が乗り込むのを確認してから、サイドブレーキを外した。隣には当たり前のように亨が座る。合宿地まで車で一時間ほど走る。その間、後部座席の三人は眠ってしまったが、亨は起きていた。
「宿泊所もリレー走メンバーなんですね」
「・・・・・・まずかったか?」
すっかり四人で行動することが普通になっていたので、迷いなく四人部屋に彼らをあてがった。
「いえ、ありがたかったです」
表だってリレー走メンバーを悪く言うやつは減ったが、陰で悪口を言う奴らを多田は知っている。それをメンバーに伝えたことはないが、亨の言葉で気づいている者もいることがわかった。おそらく、健介や秀も察しているだろう。まったく気づいていないのは、涼くらいだと思われた。
彼らが堂々とできるのは、都幾川スプリントで三位表彰台に上ったからに他ならない。競技大会での活躍であらかた黙ってはいたが、公式戦での記録がないことを理由にトラックの使用権を譲れと圧力がかかっていた。多田自身も短距離をまとめる監督からの待遇はあまり良くない。
とはいえ、スプリントに出てからはそんな圧力もなくなったが。今回の合宿でもどれだけトラックを使えるのかによって、その質は変わってくるだろう。もっとも、効率化をはかるために、すでに使用できる時間帯などは決まっているのだが。
「先生の頃も合宿はあったんですか?」
「あぁ、ただし、冬にあった。短距離と長距離でわかれて行っていたしな」
あれからいろんなことが変わっている、としみじみと感じ入る。唯一変わらないと言ってもいいのが、合宿地が自然の家だというところか。だが自然の家も改築したのか多田が記憶しているものとは変わっていた。思い出はいまや美化され、悪いことなどほとんど思い出すことはできない。
多田が赴任してきて初めてリレー走が合宿を行ったときも、雰囲気はそこまで悪くはなかった。成績は残せていなかったが、これから育つと信じて、多田は綿密な計画を練っていた。
だがそれはぶち壊されてしまった。他の生徒からの嫌がらせで、一人、負傷者が出た。当時は全員で八名ほどの生徒を任されていたので、リレーを続けることは問題なかったが、その一件があってリレー走を恐がり練習に参加しない生徒が出始めた。
最初は、落ちこぼれの吹きだまり、ではなく、いじめられっ子の巣窟、という異名があった。もちろん、生徒にはやめるよう強く指導したし、監督にも改善するように求めた。だが、良くなることはなく、リレー走は長くくすぶっていた。
多田が来たとき、すでにリレー走はあってないようなものだったが、多田が来てからは忌み者を扱うかのような対応になってしまったのだ。自分が悪かったのか、と多田は腹の中がよじれるような苦しみを昇華できずにいた。
そんなときに現れたのが車に乗る四人だった。
「・・・・・・亨は、なぜリレー走を選んだんだ?」
少しの沈黙があった。言いづらいことだっただろうか。多田の聞くところによると、涼が見返してやろう、と焚きつけたことが残る理由だったらしいが。最初に選んだ理由は知らなかった。
「・・・・・・俺、ちょうど陸上の成績が伸び悩んでいたんですよ。そんなときに声をかけられたんで、あぁ、落ちこぼれなのかなぁ、て思っちゃったんですよ」
おそらく監督のお眼鏡にはかなってはいなかったのだろう。多田は選んだ覚えはない。監督が声をかけたのだから。大人しく、穏やかな亨だが芯のないことは言わない。監督は極端に強い場合を除いて、たてついてくる生徒を良しとしない。
きっと他の三人もあまり監督からは好かれなかった口だろう。気の毒に思うと同時に、伸び悩んでいるとはいえ、好記録者にまで声をかけてくれたことには感謝したい。
多田の方針、考えて行動せよ、と監督の方針、俺についてこい、には大きな差がある。基本的に生徒を野放しにする多田は規則や規律にがんじがらめにする監督のやり方はあまり好きではなかった。だから、リレー走は他の短距離走とは一線を引いている。
「お、怒らないですか?」
「怒らない。理由はない。今までの生徒が勝手に落ちこぼれた、と言ったらひどいが、まぁ俺がちゃんと導けなかった、とも言える」
落ちこぼれの吹きだまりに来てしまった彼らにには、落ちこぼれというレッテルが自動的に貼られる。それはとても可哀想なことだったが、だからといって、多田がしてやれることなどないと思っていた。
今までの多田は勝手に期待して勝手に失望していたに過ぎない。そういう意味では生徒は道具だったかもしれない。自分の気持ちを満たすためだけの。今も、そうかもしれないと思うが、ことこの四人に関しては、失望することはなくなった。
「先生は、なんでリレーだったんですか?」
すぐにあかねの顔が浮かんだ。それがいつの間にか亨にすり替わる。それを小さくため息をつくことで消した。
「いい先生がいて、いい仲間がいたからだろうな」
多田は中学の頃からリレー走を走っていた。良い人に巡り会えたから、そのままリレー走を続けた。亨たちのように反骨精神は一㍉もなかった。できれば彼らにも、反骨精神ではないもので走ってほしかったが、それは強要できるものではない。
「俺も、続ける理由はそれかもしれません」
横目でちらりと顔を見ると、亨はほんのりと頬を染めていた。見返してやるだけなら、もうやめていてもおかしくないのだ。多田はまた自分勝手に想像していたことを恥じた。
そうか、と一言呟くのを最後に車内は沈黙に包まれた。
合宿二日目。
練習の様子をじっとみている目を多田は見つけた。粘着質な瞳が気になったが、実害がないので放っておくしかない。その生徒の特徴を覚えて、多田は練習に励む四人を見た。
自然の家は第三セクター事業の一つとして作られたのだが、結局公共事業として、市の税金だけで維持されるようになった。市内外を問わず様々な団体が使うことができるのだが、今のところ市内の小中高が主要な使用団体であった。
ホテルではないので、基本的には宿泊施設の清掃などは自分たちで行う。食事だけは提供されるが、生徒の間では不満が噴出している。冷めた料理に薄味で、正直なところ、多田もおいしいとは思わなかった。とはいっても、近場にコンビニやスーパーがあるわけではないので、食べないわけにはいかず、文句を言いつつ食べている。
就寝時間は十一時。それよりあとに起きて勉強をすることは自由だったが、遊ぶなどはできない。もとより一日中何かしら動いている彼らなので、眠らない者はほとんどいないのだが。
多田は午後十一時半に最後の見回りに引率者用の部屋から出た。一階から二階までの廊下を歩く。部屋は四人部屋と六人部屋がある。一階は四人部屋で、二階が六人部屋。廊下はしんとしていて、ときどき寝息かいびきかわからない音を聞いた。
一階の引率者用の部屋は西にあり、リレー走メンバーの部屋は一番遠い場所にあった。二階から降りてきた多田は廊下の窓辺に一人の少年がいることに気づいた。
一瞬ぎょっとしたが、すぐに亨だとわかって気づかれないように息を吐く。そんな多田に気づいていないらしく、亨は窓の外の暗がりをじっと見ていた。何をしているのだろうか、しばらく眺めていたが動く気配がないので、多田が先に焦れてしまった。
「・・・・・・亨。何か、あるのか?」
亨は一驚して、わずかに声を上げた。人が起きるほど大きな声ではなかったが、お互い少しばかり慌てる。誰も起きてこないとわかって安心したのか、亨は小さく息を吐いた。多田はまだ明るい廊下を歩いて、亨に近づく。亨は再び外をじっと見つめた。
「なんだか、眠れなくて、起きてました」
窓ガラスを見ると、そこには自分が写っていた。亨も自分自身を見ているようだった。面白いことは何も起こらない。窓の向こうの自分は、真っ暗な瞳をしていた。それは外が漆黒であるからかもしれないが、多田の瞳がもともと光を映さないからかもしれない。深淵を、と言った哲学者の言葉が思い出される。きっと窓の向こうの自分も多田を見ている。
面白さと言うより、気味の悪さを覚えて、さっと亨に視線を向けた。亨は熱心に自分を見ている。ナルシストである、わけではないと思うが、穴が開くほどじっとしている。
「亨?」
「俺、双子だったみたいです。兄か弟になるはずだった片割れは、俺に吸収されたって、聞きました」
なんと反応するのが正しいのかわからなかったが、亨の見ていたものがなんだったのか、なんとなくわかった。自分の中にいる兄弟を見ていた、のだろうか。
「その上、一人っ子なので両親からは溺愛されてきました。だから、今親権を争っている両親を見るのは、正直つらいです」
聞くところによると、離婚協議中らしい。ごく普通、と言ってしまうと、普通の基準が曖昧になるが、どこにでもありそうな、そんな家族だった、と亨は言う。だが亨の知らないところで、夫婦関係に深い溝ができていたらしく、離婚にいたったようだ。
「大学で走られないのは、残念です。でも、高校の間だけは走ってもいいと言われました。とはいえ、大学で走れないのに、なんのために走るのか、悩んでいるところです」
それを自分の中の兄弟に聞いていたのか。多田はもう一度自分と向かい合う。どこにも多田と亨以外の影はない。不意に窓の中の亨と目が合って驚いた。くすりと笑われてしまう。恥ずかしさを誤魔化すために、咳払いをしてみたが、ますます笑われることとなった。
そしてここにいるのは、亨と多田の二人である、と気づく。亨は独白をした時点で、質問の答えを多田に求めていたのだ。教師、しかも生物の教師のくせに、そんなことに思い当たらないとは、呆れたものだと多田も笑ってしまう。
「・・・・・・おこがましいと涼に怒られてしまうかもしれないが、そうだな、俺のために走ってくれないか」
亨の瞳を横目にそう言った。ちゃんと見なかったのは、彼が頷いてくれる自信がなかったからだ。だが、亨はゆっくりと頷いた。
「それ、いいですね。・・・・・・なんだか熱血教師との熱い約束、みたいな」
熱血なんて、自分とはかけ離れている。だが、多田も昔はリレー走の復活を目指して、熱血教師のようなことをしていた。生徒の悩みにも親身になって答えた。いつからそれをしなくなっただろうか。
今さら熱血を掲げるわけではないが、亨には走ってもらいたかった。もちろん、亨が抜けるとリレー走ができなくなるという事情もある。だが、それ以上に彼をあかねと重ねている。多田は悪いことだと思いつつも、亨が自分を向いてくれることが嬉しかった。
「なんだか眠くなってきました。すみません、見回りだったんですよね?」
今頃、同じ部屋の教員はどうしたものかと焦っているかもしれない。多田は亨に頷いた。謝ろうとするのを、遮って部屋へ戻るように促す。亨が部屋に戻るのを確認して多田が自室へ向かおうと歩き出す。不意に窓辺に自分がいた。先ほどと同じように、じっと多田自身を見ている。
亨の向こうには、誰もいないはずなのにいつも彼は幻影をつれて歩く。その幻影に惑わされ、多田は再び彼に思いを寄せている。せめて亨を好きなら、よかった。彼は生徒ではあるが、生きている人だ。対してあかねはこの世にいない。
報われない。
多田はため息をついて、引率者用の部屋へ戻った。
三日目。
ほんの気まぐれに、自販機で四人分のジュースを買った。好みなんてわからないから、オレンジジュースばかり四本。山麓なので、水道水で腹を壊すようなことはないが、スポーツなど動く活動の団体が多いので、飲み物の自販機はいたるところにある。
多田が向き合う自販機は休憩をしているリレー走メンバーからほど近いところにある。ちょっと離れても彼らの様子がわかった。ほんの数ヶ月であるが、今までのどのメンバーよりも仲間の間の仲が良いことがわかる。だがそこに多田との絆があるとは思えなかった。
このジュースは特に意味はない。ただ、頑張っている彼らに労いの気持ちを伝える手段の一つだった。多田は最後のオレンジジュースを腰を曲げて取り出すと、すぐに視線をあげた。何か怒鳴り声のようなものが聞こえたのだ。
見れば大柄な男子生徒が、リレー走メンバーに何か言っているようだった。清水かえで。彼の名前を知ったのはつい最近だ。だが、その幼さの残る顔つきには、見覚えがあった。多田が赴任してきた頃に、小学生くらいだろうか、男の子がふてくされた顔で高校の前を歩いていたのだ。多田はなんとなくその子に声をかけた。
なんと声をかけたかは、思い出せないでいたが、その後陸上の練習を見ていると、たびたび話しかけてくるようになった。それが清水かえで、であった。
素直なよい子、と言うイメージが強かったが、ここ最近はリレー走メンバーにつっかかっていくところをよく見る。多田はいつもそれを静観していた。生徒同士の問題なら、本人たちに解決させたいし、何かあれば亨がやってくるだろうこともわかっていた。
清水はしたり顔だが、あきらかにリレー走メンバーからは関心が見られない。加えて健介に何か言い返されたのか、得意顔がだんだんひきつっていく。結局しっぽを巻いて逃げていった。
秀と亨はそれでもむっと顔をしかめていた。溜飲は下がらなかったらしい。何を言われたか気になったが、亨は報告する気がないらしいし、他のメンバーもそれをせかす様子はない。
多田は持っていたオレンジジュースの結露が手を伝って落ちたことに気づいて、彼らに近づいた。
「・・・・・・お前ら、水分は、とっているか?」
最初にこちらに気づいた涼に一缶投げ渡す。次に振り返った秀、健介にも投げると、起用にキャッチした。最後の亨には手渡した。もうそれほど距離はあいてなかったからだ。
「先生が先生らしいことしてる」
夏休みになる前は、毎日先生らしく授業をしていたのだが、と多田はわずかにため息をつく。涼はすぐに亨に注意を受けた。
「いい。先生らしいことなんて、してこなかった俺が悪い」
「すみません、ありがとうございます」
亨に続き他のメンバーもそれぞれに礼を述べると、缶ジュースを開けて飲み始めた。誰も苦手な者はいなかったようで、多田はほっとする。今はトラックを長距離選手が使っている。インターバル走をしているようだった。リレー走メンバーとは違う、筋肉のない体が折れそうだ。
猫が地面に爪を立てて伸びをするのと同じように、亨が体をうねらせた。ストレッチを始めたらしい。それに倣って他のメンバーも始める。すっかりリーダーらしくなった背中を見ていると、不意に亨が振り返って多田を見た。
「先生もやりません?」
その顔があかねに見えた。多田は、生ぬるいつばを飲み下して、首を横に振った。ストレッチくらい付き合えば、好感度は上がったかもしれないが、自分の見ているものに恐ろしくなってしまった。多田は建物でできた陰に避難した。
多田は特別指示はださない。必要があれば喋るし、必要になれば生徒から頼ってくる。今年はやけにこの関係に甘えていると、多田は自覚している。もっと関わらなければならないという思いと、煙たがられるのも嫌だと言う気持ちと、そして亨から見えるあかねの姿に戸惑い、結局中途半端になってしまう。
ストレッチを終えたメンバーは空き缶をそのままにジョグをしながらパス練を始めた。きっとあとから片付けるつもりなのだろう空き缶をぼんやりと眺めた。
(俺はあとどれほどのことを教えられる)
秋には新人戦が待っている。その頃には健介はいなくなり、もう一人加入してもらわないといけない。嬉しいことに、リレー走の門を叩く者は何人か現れている。
だが、問題があった。健介がいなくならないうちにリレー走のメンバーを集めたかったが、今年は四人まで、という理屈にもならない理由で監督からは了承がでなかった。つまり健介がいるうちは、リレー走のメンバーを新しく加入させることはできなかった。
だからといって、健介にさっさとやめろと言えるほど、多田も鬼ではないし、馬鹿でもなかった。四人でするリレーの体感を覚えておくには健介が必要だった。第二走を走る彼は、抜けてはいけない穴なのだ。もちろん、第一走だろうが、三だろうが四だろうが、重要性は変わりないが。
健介がやめた後すぐに加入させ、かつ今の仲間たちともうまくやれるやつ。多田は難解なパズルを解いている気分だった。
思案をしながら、練習の様子を眺めていると、不意にまたあの視線を見つけた。それは憎々しく棘のあるもので、多田は胸にさざ波が立つのを感じた。何か悪いことの起きる予兆のような気がしたのだ。
その視線はしばらく四人に降り注いだが、やがてその生徒も練習に戻った。
トラック練習のあとは昼食を挟んだ休憩が入る。一番熱い時間帯を避けているのだ。山麓とはいえ近年の異常気象のせいか、容赦ない太陽の照りが襲う。濃いペンキを垂らしたような青空に、クレヨンで力強く描いたみたいな入道雲が立ち上がっている。
にわか雨が降るだろう、と多田は空の様子を見ながら思った。今は引率者用の部屋にいる。生徒は今死んだように眠っているはずだ。多田も眠たそうにあくびを一つ。あくびをしている場合ではないのだが、どうしたって午後二時を前に眠気がやってくる。いつもなら授業やその準備に追われるが、今はそんなものはない。リレー走希望者のリストを眺めて、どうしたものかと悩まないといけない。
亨のためにも、高校生の出ることができる大会には出してやりたい。そのためには秋の新人戦までに調子を合わせていかなければならない。しかしあの偏屈な監督が簡単に選手を渡すとは思えなかった。
窓辺にグラウンドが見えるように設置された机を占領して、ぼんやりと外を眺めていると、突如、見た顔が窓の前を通っていった。あの生徒を含む三名の生徒と、その後ろを歩いていたのは亨だった。どことなく緊張した様子である。緊迫とまではいかないが、ただならぬものを感じて、多田は立ち上がった。
同僚のどうしたんですか~?という間延びした声には答えずに、多田は部屋を出て、建物の真ん中にある宿舎の入り口へ急ぐ。そこから外へ出たところで、四人が用具室に入っていくのが見えた。バレーでもして遊ぼうなんていう雰囲気ではなかった。嫌な予感がふつふつとわき起こる。本当にボール遊びをするなら多田の杞憂である。
多田が用具室に近づくと、中から怒鳴り声が聞こえてきた。亨のものではない。おそらく亨が怒鳴られているのだ、それに対して亨は何か言ったようだが、それは多田には聞こえなかった。
「うっぜぇ!さっさとリレーなんてつぶれちまえばいいんだよ!」
「めざわりなんだよ」
「競技大会で一位になったとかで偉そうにトラック使ってんじゃねぇ。お前らがいなければ、もっといい練習ができて、今頃全国だったんだ!」
会談は気持ちの良いものではないようだ。あまり放っておいて亨が怪我をするようなことになってはいけない。さっさと割り込んでしまおう。そう思って、扉に手をかけようとしたら、中から金属を引きずるような音がした。
多田は嫌な予感に背筋に冷たい汗をかいた。次の瞬間には、扉をスライドさせ、目の前にいた亨を押しのけた。がつん、という音のあと、数秒してから痛みが襲ってくる。頭は避けられたようだが、金属バットは多田の肩に振り下ろされていた。
「てめぇらぁ、何やってんだぁ!」
痛みにもがき苦しむ前に、亨をかばうようにして三人の生徒の前に出る。鈍痛が激しくなっていき、視野が狭くなっていったが、亨が前に出ようとするのを押さえ込んだ。
突然の教師の怒号に二人は多田を押しのけて行ってしまった。だが、金属バットを持った少年は逃げない。いっそ逃げてくれればいいのだが、亨も動こうとしない。
代わりに激しい怒りを感じる。ずっと多田の負傷した左肩を支えている。じゃりっと音がした。もうほとんど視界のない多田は息を呑む。守らなければならない。その一心で、一歩前に出ると今度は右腕に強い力が加わった。徹底的に多田を痛めつけるつもりのようだ。骨が砕ける音が響き、亨の悲鳴のような声が隣で聞こえる。俺の腰を引っ張って後退させてくれたおかげで、三打目はどうにか逃れることができた。
痛みのせいか、耳まで遠くなっている。もはや亨と金属バットの少年が何を話しているのかわからない。多田はなんとか亨を前に出さないようにすることで精一杯だった。
ざわざわと周囲にノイズが走る。他のものが気づいてやってきたのか、多田の意識はそこでぷつんと途切れた。
アルコールの匂い、それから左腕に感じる引きつった痛み。左手は何かに包まれているようで、温かい。うっすらと目を開けると眩しいくらいの光に目を刺された。静謐とした空間が多田の前に現れた。天国にでもきたのかな、と思ったが、間仕切り用のカーテンは明らかにそこが医療施設であることを示している。
よく聞けば、スタッフの忙しそうな声が聞こえてくる。深山市には深山市真壁病院という病院がある。ちょうど学校から自然の家へ向かう途中にあり、日替わりで他の病院から先生がやってくる、過疎地域にありがちな病院だった。病院長、というよりは主と言った方がいい、老翁が内科を担当している。
外科の医者がいるとも思えず、自分の右腕が気になった。骨が砕けたと思ったのだが、そこは包帯と添え木で固定されているのみだった。それでいいのか、とぎょっとしたのもつかの間。すぐそばの椅子に涼と秀が座って寝こけていた。左を見てみれば、ベッドに突っ伏する形で、亨が眠っている。亨の手が自分と繋がっていることにも一驚した。
左手に感じていたぬくもりの正体は亨だったらしい。腕を引こうにも、点滴と繋がっているのであまり大きくは動かすことができない。いや、それはいいわけで、亨から与えられるものが嬉しいのだった。
健介はいないようだ。窓はなく、外の状況はわからない。もしかしたら、決めていた練習もサボってここにいるのかもしれない。怒る気にはならなかった。多田は咳払いをしてみたが、誰も起きる気配はない。その代わりカーテンの向こう側にいたらしい、陸上部副顧問の教員が顔を出した。
「大丈夫ですか?」
満身創痍なのは見てわかることであるが、わざわざ上げ足取りをしなくても良いだろう、と多田は頷いた。先生を呼んでくる、と言って副顧問は引っ込んだ。
起こすに忍びなかったが、まずは亨を起こすことにした。
「亨。起きろ」
たいして大きな声は出さなかったが、多田の声にぱっと起き上がった亨の目は赤く充血していて、腫れ上がっていた。しかし彼には怪我がないようで、ほっと安堵のため息をつく。
その一方で、亨は目の中に涙を溢れんばかりにたたえていたが、泣かないよう我慢しているようだった。その姿が健気に多田の目に映る。思わず笑いそうになったが、亨は目の前で多田が痛めつけられているのを見ていたのだと思い出して、笑わないでおいた。
「し、死ぬかと」
多田自身も自分が死んだと思った。白い部屋が余計にそう思わせたのかもしれない。固定された右手で亨の頭を撫でた。左手は強く握られている。この泣き方は、あかねとは違う。あかねは静かに涙する。今さらだとは思うが、多田は初めて亨とあかねが違うものだと認識した。いや、そういう認識はすでにあったのだろうが、いつも亨の向こうにあかねがいたのだ。
今は亨を見てもそこにあかねがいるとは思わない。多田の目の奥が熱くなった。あかねがいないことではなく、亨がいることに安堵した。
「・・・・・・無事でよかった」
がたんと椅子が動く音と、カーテンが開く音は同時だった。どうやら、椅子に座る二人は目を覚ましたらしく、カーテンの先には健介と担当の先生が立っていた。その向こうに副顧問がいる。
診察の結果は、右腕にひびが入った他は打撲だけだったらしい。太ももにも打撲痕があったので、意識を失った後も殴られたようだ。骨の一つくらい折れていると思っていたが、頑丈だねぇと医者にも笑われる始末だ。
「あとねぇ、栄養失調だね」
どうやら、左腕の点滴はそのためのようであった。終わったらとりあえず帰って良しと言われた。じとっと亨の視線が刺さる。そういえば、食べているかどうか、聞かれたことがあった。多田は思わず失笑してしまった。
健介の話によると、犯人捜しが行われているようだった。亨は狙われていたということもあって、多田と一緒に病院にいたようだ。ついでに涼と秀と健介もひとくくりにされたらしい。
犯人の生徒はどうやら合宿所からいなくなったようで、付近を学校の教員や保護者を集めて探している。情状酌量の余地はないのかもしれないが、多田はその生徒に同情していた。結果を出すことができなかったのを、リレー走メンバーにぶつけることはお門違いではあるが、行き場のないやるせなさを誰か受け止めてやれなかったのかと、思わずにはいられない。
多田は求められたら求められただけ答える、というスタンスではあるが、道を間違えそうになった生徒に手を差しのばし導く、というのも必要だと思ってはいる。だが、全員にそんなことはできない。だからこそ、この学校の陸上部には指導者が複数人いるのだ。
すべて、指導者側の過失であるわけではないが、暴行にまでいたった経緯を考えると、どこかで誰かが、と思う。そしてその誰かが自分であっても良かったのだと。なぜなら、多田はその少年の鬱々とした表情を知っていたのだ。
「先生、俺は許せないですよ」
もっとも同情すべきは、亨だろう。多田はすぐに思考を切り替えた。副顧問の運転するバンの一番後ろに乗っていた。隣には亨がいる。亨の気持ちはわかるが、監督はきっと内々で終わらせるつもりだろう。亨には被害がない、加害者の彼のこれからの人生を考えて、と多田を言いくるめて。
警察沙汰にはならないだろう。なっているなら、今頃警察も含めた捜索をして、とっくの昔に合宿は終わっているはずだ。だからこそ、多田は亨に同情せずにはいられなかった。目の前で人が殴られているのを見たのだ。精神的被害は大きいだろう。それだけに許せない思いも強い。
外はまだ明るかった。意識を失っていたのはほんの二時間半程度だと聞いて多田は驚いた。午後五時のサイレンが町に響く。亨のやるせない気持ちにどう答えるべきか悩む。
「・・・・・・リレーやめるか?」
それは多田が言える唯一の言葉だった。こんな目に遭ってもまだ自分のためにリレー走をしてくれとは言えなかった。前に座る三人も聞き耳を立てているのがわかった。誰も亨を止めようとはしない。
多田がリレー走を復活させようと奮起していた当時と同じようなことが起きたのだ。トラウマを刺激されて、亨ほど強気ではいられなかった。そんな気持ちを四人は知るはずがなかったが、それでも、車内は沈黙に満ちただけで、多田を責める者はいなかった。
「・・・・・・先生のために走るって、決めたのは俺です」
次に怪我をするのはお前かもしれない、脅しにも聞こえる文句はしまった。前の三人の表情はわからなかったが、隣に座る亨の横顔だけは見えた。いつもは柔和な目元が、意思を強くかためていた。生徒は戦おうとしているのに、自分は避けようとしている。どちらが正しいかは知らないが、多田はとにかく彼らを守らなければと思った。
「走ります。俺は、何があってもあと一年を」
「俺も走る」
「涼が言うなら」
「俺も大学で走ろう」
四人がそれぞれの決意表明をする。ありがとう、が喉の奥に詰まって出てこなかった。彼らは虐げられるだけの存在ではないとわかっていたつもりだったのに、それは本当につもりだったらしい。多田は声を殺してうつむいた。
膝に日に焼けた手が置かれた。亨が慰めるように掴む。その右手を多田は左手を重ねて応えた。
結局、加害者の生徒は学校の寮で見つかった。県外生なので実家に帰るわけにも行かず、かといって他に行くところもなかったゆえに、見つかりやすい寮に逃げ込んだのだそうだ。
監督は予想通り加害者を守ろうとした。全国には行けなくても、彼は次世代を担う優秀な生徒だった。コーチや教師、監督の前で、加害者の三人は審問にかけられている。だが、しばらく謹慎ということで、という監督からの鶴の一声で、その場がおさまりそうだった。
直接の被害者である多田や亨の意見などろくに聞いていない。怪我のなかったというだけで、亨などは意見書を書かせるだけであった。多田には一通りのリスニングは行われたが、謹慎の二文字がその結果だ。
今も生徒はこの場にいない教員やコーチ陣の元で練習を行っている。彼らに多田の怪我は階段から落ちたという説明がされた。もちろんリレー走メンバーは反抗しようとしたが、それを多田が抑えた。
一つだけ、監督と約束したことがあった。彼らを警察に突き出さない条件を提示したのだ。渋々と頷く監督のふてぶてしい顔を思い出して、多田は腸が煮えくりかえりそうだった。だが、リレー走のメンバーの未来を考えてそれを飲み込む。
どうあがいても、リレー走で結果を着実に出していく必要があった。それには人数がほしい。新人戦までに、まずは一人。そして、春の前にはさらに四人。その人数を短距離走の選手の中から選ぶ、権利を要求したのだ。
他のコーチや教員はそのことを知っている。もちろんリレー走のメンバーも。そしてその権利はリレー走のメンバーにも及ぶ。つまり、彼ら四人が勧誘活動を行ってもかまわないのだ。
徹底的に戦おうとする彼らには気の毒な話だ、と多田は思う。だが、リレー走を走るのは彼らだけではない。未来へ繋ぐチャンスだった。多田はそのチャンスのために亨たちの気持ちを押し殺したとわかっていたが、その決断に、四人ともが黙った。
呆れられただろうか、この審問の後に続けざまに辞められる可能性だって残っている。昨日、表明した決意だけを信じて、多田は今動いているに過ぎない。
「じゃぁ、終わりましょう」
その言葉で、加害者の生徒もコーチや教員は解散となった。中には多田をあからさまに睨む者もいたが、問題の矛先が違うと相手にはしなかった。ますます肩身が狭くなるな、と苦笑が漏れそうになるのを我慢する。宿舎の設備としてある小会議室を最後に出ると、そこには亨が立っていた。
時間は午前十一時を少し過ぎた頃。ちょうど朝の練習が終わった頃だった。ランウェアもそのままだ。軽く息を弾ませている。
「多田先生」
辞めると言われるだろうか、多田は身構える。
「ありがとうございました」
どっちだ、と多田は戸惑った。これまでありがとう、なのかこのたびはありがとう、なのか。その戸惑いを悟ったのか、亨は頭をあげて、まだ赤い目元を柔和に細めた。
「俺、今回のこと、納得できてません。でも、俺は先生を信じます」
だって。そのあとにセミの大合唱が廊下に響き渡った。それは充分な間を持って、再び静かになっていく。首筋を煩わしい汗が伝ったが、それを拭えるような雰囲気ではない。言わないでくれ、と思うくらいには望んでいる言葉だと、多田は次の言葉を予想できた。
大きく亨は息を吸う。それがやけにスローに見えた。映画のようだと。一瞬、無音が訪れた。
「先生のことが、好きだから」
意思の強い瞳が多田をとらえて離さない。そこには、嘘も冗談もなく。純粋な好きがあった。それが恋なのかはわからない。応えないでいると、亨はふっと息を吐いて、多田に背を向けた。言いたいことを言って離れていく。
正直になれよ、と誰かが言ったような気がした。
多田が咄嗟に掴んだ手首の体温は思ったより低かった。
「信じている」
今はもう、理科準備室の小枠から覗くことはない。彼を前にして、多田は、憧れる気持ちを、羨望を、隠さずに言った。好きだ。
おわり
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