第3話 つなぐ
つなぐ
岡田市の東に位置する、深山市もまた海沿いではあるが、土地面積の広さは県内一、山がその三分の二を占める、田舎町だ。人口は、一万人ほど。鉄道は通っているが、船の寄港場はなく、小さな漁港がいくつかある程度だ。民間バスが市内を巡っているが、時に二時間に一本ほどしか便がないこともあるので、市営バスがそれを補うように走っている。県内全域の田舎に言えることではあるが、少子高齢現象と人口流出と鳥獣被害が課題となっている。
駅前には岡田市とは対照的な寂れた商店街があるが、高校と中学校が近いせいか、食べ物屋を中心にシャッターは下ろされていない。しかし、活気はなく、人通りの少ない日中はJ-popが静かに流れている。自転車が乗り込んでも誰も文句は言わなかった。
その百㍍ほどの商店街の先に、私立みやま高等学校はある。広い運動場が二つと大きな体育館が二棟、剣道部と柔道部のために造られた道場も二棟、テニスコートも存在する。深山市の人口に反比例して、みやま高校の生徒数は三百六十人と多い。しかし市外生が多く、逆に市内の学生は同じ校区内にある県立深山高等学校へ進学する。深山高校の生徒数は百を下回っている。
みやま高校、通称、私立は市外、県外から多くの学生を受け入れている。校風は武道を重点に置き、スポーツが盛んである。二つある大きなグラウンドのうち、一つは陸上に特化した施設となっていて、校門の正面に位置する。もう一つのグラウンドはサッカー部と野球部が合同で使っているが、面積は陸上のグラウンドよりも広い。校舎の裏側に位置しており、表、裏と教師や生徒の間では呼ばれている。
校舎は二棟あり、特別棟と教室棟でわかれている。レンガ造りをイメージした外装は、まるで大学のようである。三階建てだが、二階中央部分と一階東部分に二棟をつなぐ渡り廊下はあり、表の方を教室棟としている。生徒たちは東回りに表の競技場を歩き、東側の昇降口へむかうこととなっている。その東側に道場が並んで二棟。離れた西側にテニスコートと体育館が並んである。
迷子になりそうなほど広い敷地だが、いたって単純な造りになっている。教室の場所さえ覚えれば、早々迷うことはなかった。しかし誰もが整列をしている第一体育館(バレーとバドミントン用)にたどり着けずに、途方に暮れている者がいた。
満田涼。体育館は特別棟二階の渡り廊下から行くしかない。ギャラリーから入る仕組みになっていて、また第二体育館もギャラリーから入ることになっている。入学式のお知らせにもきちんと地図が書かれていたが、涼はすっかりその地図の存在を忘れていた。
教室棟一階西は行き止まりだ。その壁に直面して、涼は頭の中がパニックになっていた。ただでさえ、電車の遅延により間に合わなかったのに、さらに学内で迷子になったのだ。頼みの友人は今頃入学式だ。どうすることがベストなのか、考えたあげく、涼は自分の教室に向かうのが良いと思った。一年教室は三階だ。昇降口に階段があったのを覚えている。
涼は振り返ると、さらにぎょっとした。白衣を着た一人の男が立っていたのだ。隆とした体つきをしていると、服の上からでもわかる。眠そうな目がじっと涼を見ていた。
「・・・・・・お前、授業は?」
太く低い声が朗、と廊下に響く。二年教室の廊下側の生徒とわずかに目が合った。しかし関わりたくないのか、すぐにそらされた。涼は再び目の前の男に視線を戻す。まるで教師には見えなかった。無精ひげがそうさせているのかもしれない。
「ま、まいご、です」
「一年か」
涼は首を何度も縦に振った。男の視線がわずかに下に向けられる。そこには陸上用のシューズやウェアの入った鞄がある。
「いい、体をしている」
そんな世辞よりも体育館に案内してほしかった。涼の口が開ききる前に、男は背を向けて歩き出した。きっと案内してくれる、そう思ってついて歩いた。男は特段、遅れてきたことを責めることはなかった。だから大丈夫だと思っていたのだが。
ついた場所は、特別棟の理科準備室だった。一階の東側にあって、もっとも体育館とは離れている。そんなことなどわかりもしない涼は、準備室の前で呆然と立ち尽くした。
「・・・・・・お前、何してんだ?」
いぶかしげな瞳が、涼をとらえる。隣にある道場のせいで、日当たりが悪くなっているそこは、薄暗く、いろんな物質のにおいがした。きっと教師だろうが、なんだか怖さを感じた涼は、頭を一度下げてその場から逃げ出した。
男は止めることもしなければ、追いかけることもなかった。
「怒られてたな」
ははは、と乾いた笑いが涼の鼓膜を心地よく刺激した。登校初日にして大遅刻をかました故に、担任の教師からはこっぴどくしかられ、それを見ていたクラスメイトからは冷ややかな視線を寄越されていた。いっそ笑ってくれた方がよかった、と思っていたら、後ろの席に座る中学時代からの馴染みである美土里秀は笑ってくれた。
担任は電車の遅延証明書は受け取ったが、入学式に間に合ったのにでなかったことについて、怒り心頭だった。そんなに大事だろうか、涼は思う。もしそこに兄である琉がいたら、壁を突き破ってでも行っただろうが、ただ教師と来賓の偉い人が来ているだけの場所に、そんな気概はもちあわせていなかった。
「最初から出られんのに、半端に出る意味があるんか、わからん。偉い人の高尚な話しかないのに」
どうせ聞くなら、授業だろう。学生の本分である勉強なら、琉にもいくらかその意味合いは理解できる。人の話は時に心を動かすことがある。だが、今のところ、そういう式典でそういうことは起きたことがない。抽象的で、かつ正義感に溢れた、高尚なお言葉。
「同意。出なかった涼は正しいよ」
「ちっとも思ってないじゃろ」
ザッツライト。秀は笑みを深めた。少しきざで、表向きは大変穏やかであるが、その実心の中では何を思っているかわからない。中学一年生の時を思い出して、涼はむっと眉間にしわを寄せた。素直すぎる涼と癖のある秀が衝突しないわけがなかった。
その当時どこか斜に構えた秀は、涼の素直で元気、言い換えれば暑苦しい様を見下していたし、嫌われているなと思って避けようとするのに、何かと突っかかってくる秀を、涼は面倒くさいと思っていた。。
一年の夏。秀は熱中症で倒れた。そのときに献身的に看病したのが、涼だった。涼の将来的な目標は走ることではなく、走ることを教える側だった。そのために必要であろう救護の知識をその当時すでに得ていたのだ。それから、秀は涼に一目置くようになった。
とはいえ、根本的な秀の面倒くささというのは直っていないらしく、涼にだけは意地悪なこともたまに言う。それが嫌なものではなくなったのは、中一も終わろうとした冬だ。風邪を引いた涼を看病したのが、秀だった。その頃になると、実力差によって涼は部内で孤立しがちだった。選手として有能だった彼を妬んだり、僻んだりする部員が出てきたのだ。風邪をきっかけに涼も秀に心を開くようになった。そうして二人は仲良く同じ高校を受け、クラスメイトとなった。
「怒るなよ。本当にたいしたこと言ってなかったし」
秀の大きな手が、涼の頭をなでる。秀はスキンシップが多い、と涼は思う。周りにどう思われようが、気にしていないのか、肩を組んだり腕を組んだり、頭をなでたり頬をつねったり。子ども扱いされているような気分になることもあるが、最大限の好きが伝わる行為を、やめろとは言いづらかった。
「怒っとらん」
「なら良い」
垂れ目がぐっと垂れる瞬間が、涼は好きだった。
不意にがらりと音を立てて教室のドアが開いた。それと同時に、チャイムが鳴る。涼は前に向き直って、きちんと席に着いた。
放課後の部活。
涼と秀に限らず、ほとんどの生徒はすでに決まっている部活に春休みの頃から顔を出していた。馴染みの先輩もでき、輪がすでに形成されていた。陸上部も例外ではない。様々な競技を専門とする生徒は、輪を作り、または輪の中に入り、人間関係を構築する。全国クラスのトップ選手だけを集めた輪や、下位選手で集まる輪など、多岐にわたり、時に団結したり、時に分裂したりする。その中に、四人だけの輪があった。
『リレーに出てみないか』
百㍍走の選手だった涼にそう声をかけたのは、短距離を担当する監督だった。千六百㍍リレー走と四百㍍リレー走がある。百㍍走の涼に話しかけたと言うことは、四百を四人で走る四百㍍リレー走だろう。涼は悩むまでもなく、出ると言った。
他に集められたのは、巻内健介、本井亨、そして美土里秀だった。巻内健介は三年生で、背が高く全体的にひょろりとしている。本井亨は、穏やかな人柄で、優しい。美土里秀は先述したように、少し天邪鬼な部分がある。
個性それぞれでぼんやりしている健介に、始終にこにこしている亨、少し斜に構えた秀に、元気な涼という、まとまりを感じさせない。基本的には他の短距離選手と同じメニューをこなす。体全身の強化、体幹の強化。スプリントは下半身の力だけではこなせない。上半身の力と、体のバランスがよくなければ良い姿勢は保持できない。短い時間の中で、どれだけ良い姿勢を保ち、良い走り方ができるか、それが大事だ。
筋トレや体幹トレーニングを終えると、それぞれの種目練習に入る。春休みの間は百㍍走の練習をしていた涼たちだが、今日からリレーの練習をすることになっている。
涼はリレーに出たことがない。教える側に立つのなら、経験しておいて損はないと、そういう具合で出ることにしたのだが。なかなか監督する人は現れない。すると健介は小さくため息をついて、健介が集合をかけた。
「あの人、来るつもりがないと思うから、勝手に始めていよう」
「え、いいんすか?」
亨もため息をついて、健介に同意する。この二人もリレーは初めてだという。指導者がほしかったが、先輩の言うことには逆らえずに涼と秀も走る前のストレッチを始めた。
「何も知らない一年生を加入させるのは、さすがに賛成できないな」
不意にいつもぼんやりとしている健介が言った。今からでも撤回してもらおう、とまで言うのだから、涼と秀は顔を見合わせて首をかしげた。リレーは個人種目の多い陸上の中でも、団体競技と位置づけられる、花形競技でもある。だが、先輩二人は光栄なこととは思っていないようだ。
「何かあるんですか?」
秀が問いかけると、健介は眉間にしわを寄せた。
「落ちこぼれの吹きだまり」
健介の言葉にはとげがあった。涼はすぐには言葉の意味を理解できなかったが、それが戦力外通告なのではないかと考えた。だが、自分はともかく、秀を戦力外にするのはおかしい、と涼は思った。彼は高校生の中ではトップクラスの選手だからだ。
秀の成績は十秒三〇。落ちこぼれ集団に入れておくには惜しいはずだ。涼も十秒四九。こちらも遅いわけではない。亨は十秒五五。健介は十秒五九。全員が十秒台で走ることができる。他の選手よりも速いくらいだった。
だから余計に涼はわからなくなって首をかしげた。故障をしているわけではないし、練習をサボったわけでもない。練習前に渡された明るい緑色の筒を手にとって、ぎゅっと力強く握りしめる。逆なのではないか。むしろリレーで最強軍団を作ろうとしているのではないか。
「そんなに強く握るもんじゃない」
涼の後ろから不意に声がかかった。聞いたことのある重厚感のある声に、素早く振り返ると、そこには今朝一階の廊下で出会った、あの教師が立っていた。
「かといって、握らずにすっぽ抜けていくのは論外だがな。すまない。遅くなった。先生にも日直があってね」
妙な沈黙が降りる。白衣を着てサンダルを履いているその男は、ストレッチを続けるよう促した。指導者、だろうか、涼は戸惑いながら、、健介の声に合わせてストレッチを続けた。
ストレッチを終えると、四人はその音この前に立った。無精ひげをおもむろに撫でながら、男は多田、と名乗った。生物の教師でリレー専門だとも。弱冠高校生にして、色んな指導者を見てきたが、初めてのタイプだ、と涼は思った。やる気があるのか、それとも実は心の内に熱い炎をともしているのか。
「全員リレーは初めてだろう。だから、まずはパスの仕方について、教える」
普通にパスしてみろ、そう言って涼の手にバトンを渡した。先頭には秀がいる。走ってきたつもりで、右手で上を向いている左手にバトンを渡した。体育祭などでよくするバトンパスだ。特別変わったことはない。
「それはオーバーハンドパスという」
ごく一般的なパス方法であり、距離を稼ぐことができる。オリンピックなどで行われるリレーでも多くの国が採用しているパス方法らしい。
「次に、美土里。お前、手のひらを下にしろ涼は手のひらを上に」
秀と涼は言われたとおりにする。涼は多田に目配せをされたので、秀の手にバトンを渡す。
「これがアンダーハンドパス」
日本代表はアンダーハンドパスで、距離が稼げない代わりにスムーズな加速ができる、らしい。
「好きな方を選べ。一長一短だ」
大きく口を開けて、多田はあくびをした。多田が決めるわけではないのか、と涼は他のメンバーを見た。頭の中で想像を膨らましているのか、誰もが発言しようとしない。そこで思い切って涼は口を開いた。
「アンダーがええと思います」
「どうして?」
亨が優しく問う。なんとなく、という言葉を飲み込んだ。涼は元気で素直だが、言い換えれば愚直なところがある。フィーリングで物事を決めてしまう癖で、なぜと言われたときに正しく答えることができない。そんな癖を秀に指摘されてきたので、なんとか言いとどまったのだ。
「俺たち、そがぁに遅ぉないから・・・・・・」
遅くないからたぶんアンダーが良い、と言ってしまいそうになって、また口をつぐむ。なぜその方がいいのかよくわからないのだ。
「なるほど。ベストが出せるなら、距離を伸ばすより加速を重視した方がいいか・・・・・・」
秀が言葉を繋ぐ。先輩二人も納得したようで、頷いていた。ただ、慣れていないアンダーハンドパスは難しそうだと、涼は直感した。自分と相手のトップスピードでバトンの受け渡しをスムーズにかつ正確に行わなければならない。それはオーバーハンドパスでも変わらないが、肉薄する距離感が違うので、それに慣れなければならない。
「考えない馬鹿はいないみたいで安心した。じゃぁ、アンダーで決まりだな」
すぐに落ちこぼれ集団と言われている所以がわかった。記録会や大会の記録を見ると、他の種目は入賞やときに表彰台に上るほどなのに対して、リレーの成績は芳しくなかった。
秀につれられてやってきた図書室にある『陸上部の記録』という本を何冊か見てみたが、予選落ちしていることが多い。そのリレーに出ている個人の記録を見ると、落ちこぼれと言うほど遅いわけではなかったのが不思議だった。
図書室は理科準備室の真上にあるが、スポーツ高であるが故に蔵書数は少なく、スポーツ関連の書籍ばかりが集められていた。人が出入りする形跡はほとんどなく、昼休みの今も、閑散としている。
涼は、この学校の希薄な部分をすでに見つけていた。だれもがライバル、そんな雰囲気が漂っていて、とても仲良しこよしはできなかった。その中で、秀は涼の拠り所となっていた。元来人が好きな性分の涼は、クラスの刺々しい雰囲気が好きではなかった。
リレーに出る健介と亨は学年が違うが、二人を対等な人として扱う。中学の頃は、先輩の身の回りの世話を下級生がすることになっていたのだが、涼はそれが嫌だったので、断っていた。それを続けると、なぜか下級生からも嫌煙されるようになっていき、仲が良いと言えるのは秀しかいなかった。
リレーメンバーに関しては、それがない。自分のことは自分でする。だが、他の種目を見ればやはり慣例のように下級生が上級生の世話をしているのだった。
もしかしたら、リレーに選ばれたのは、そんな環境から取り残された人なのかもしれない、涼はそんな気がした。
「やっぱりパスか」
秀が呟く。涼も首を縦に振る。健介や亨に話を聞くに、今までリレーに選ばれた人たちは、それが嫌で短距離の練習にも参加していたという。そのぶんバトンパスの練習がおろそかになったのだろう。
リレーとはなんぞや、と一応の勉強した涼は、リレーの肝はバトンパスだとわかった。実際二日間パス練習を行ったが、今のところ、五十㍍の直線をひたすらバトンパスする練習だった。走る練習なんて少しもしていない。そのかわり、体と体幹のトレーニングは他の選手よりもみっちりとさせられた。
不思議なことは、誰も短距離に戻りたいというメンバーがいないことだった。涼はリレーを経験とするつもりだったし、秀も走る舞台があればいいと考えているようだ。何より、先輩に気を遣わなくてよいことが大きいのかもしれない。
健介と亨が何を考えているかは計り知れないが、きっと本気なのだろう、と涼は思っていた。
アンダーパスを体にしみこます練習は、しつこく行われた。練習の内容は、五十㍍のバトンパスに加えて、ジョグをしながらのバトンパス。二人一組になってのバトンパスだった。
高校生のリレーのベストタイムは三十九秒一六。順当に走ればその記録に迫る走りはできるかもしれない。しかし、誰も文句を言わない代わりに、誰も意見を交換することはなかった。静か練習風景だった。
これでいいのだろうか、という疑問が涼の中に生まれるのは早かった。もっと意見を交換してパスの精度を上げるべきではないのか。監督である多田もじっと見ているだけで、何も言わないのだ。自分たちで考えないと行けない。
練習の合間の休憩で、ついに涼は口を開いた。
「あの、俺のパス、どうすか?」
秀意外の二人は漠然とした問いに首をかしげた。相変わらず愚直なまでにまっすぐな自分に恥ずかしくなったが、涼は諦めないで、口を開いた。
「とりにくいとか、タイミングが悪ぃとか、えっと、そういうのないんすか?」
そこでようやく、健介はおかしそうに笑った。亨は困ったように眉根を下げている。何かおかしなことを言ったかと、涼は不安になった。秀を見ると、彼も先輩たちの反応をいぶかしんでいるようだ。
「俺たちが出るのは、大会じゃないんだ」
健介は大きくため息をついた。だが、公式記録には大会の様子が記載されている。その疑問を悟ったのか、亨が続きを引き継いで口を開いた。
「出ている年と、そうじゃない年があっただろ?あれは、出てもいいって判断されたチームだけが出られるんだ」
その判断材料はなんだろう、と涼は少し離れたところでたたずむ多田を見た。多田はたばこでも吸いたいのか、口元で手を前後に揺らしている。
「競技大会のリレー部門で、一位にならないと、出られないんだ」
競技大会とは、所謂体育祭のことだ。球技や陸上など、各種の競技を部活単位で競うもので、GWの前半、二日かけて行われる。もちろん、少人数の部活もあるので、合併などする。そしてその競技の中に四百㍍リレー走がある。
ろくに練習もしなかったら一位になる可能性は低くなる。それは明白の事実だった。そこまで考えて、涼はこの先輩たちがその競技大会で手を抜くつもりなのだと気づいた。恐ろしいものの片鱗を見たような気がして、涼は言葉が出なかった。陸上を本気でやらないという選択肢は彼にはなかったからだ。
「何でですか?そこで一位になれば、記録会でも大会でも出ることができるんですよね」
涼を代弁するように、秀がきつい口調で言った。
「そこでは一位になれてもね。記録会や大会の記録も見たんだろ」
普段おっとりしている健介が、いやに苛立ちを見せ始めて、涼はわずかにひるむ。だが秀はそれでも引き下がろうとはせず、前のめりになった。大きな体がずい、と前に出てきて驚いたのか、健介もわずかに顔色を曇らせる。亨はどうしていいのかわからないのか、口論をじっと見守っていた。
「そいつらが練習しなかったのが悪いんでしょ。俺たちまで一緒にされたくはないです」
「そうだ」
不意にまた、後ろから声がかかった。見上げるとそこには多田が鋭い視線を投げかけていた。それは彼が初めて見せる監督然とした姿だった。涼はじっとその瞳を見つめた。深淵を映したような黒い目だった。その奥に熱量のようなものを感じて、涼は腹の底が熱くなるのを感じた。
ろくに読んだこともないが、漫画のような展開だと思った。やる気のない先生かと思ったら、熱い心を持っている、なんてかっこいい。涼はそこに憧れをしっかりと抱いた。
「練習しない奴らが悪い。リレーも陸上競技の一つだ。考えないやつは、結局短距離に戻っても、考えない」
それだけ言うと、多田はまた元の位置に戻った。多田の言う、考えろとはなんだろうか、涼は疑問に思う。短距離は一瞬だ。駆け引きはなく、自分の全力をぶつけるものだろう。最初は少し遅く入って、最後はラストスパートを、などと考えている場合ではない。爆発的なスプリント、大地を踏み込み、上体を使って走る。それは練習の時に、染みついたもので構成される。
涼はわからないでいたが、それは他のメンバーも同じようだった。
「本気で走らないなら、やめてください」
秀ははっきりとそう言った。
「・・・・・・わかった、やめる」
健介はそれだけ言うと、さっさと更衣室に向かって行ってしまった。勢い、涼は飛び出そうとする。それを秀は腕を掴んで止めた。亨は止まってくれるのか、動かなかったが、始終困った顔をしていた。
「秀、なしてあんな、こと」
「本気じゃないのにメンバーにいてもらっても困るだろ。俺は本気で走りたい」
秀の気持ちはわかる。だが、三人では走ることはできないのだ。涼は多田を再び見やったが、我関せずだ。さきほど感じていた憧れがとたんにしぼんでいく。
だが、そのときになって、考えろ、という多田の言葉を思い出した。中学まで顧問や監督、コーチの言うことを素直に従ってきた。だからついこんな時でも多田を見てしまったのだ。
(違うんだ、自分で、いや自分が考えないといけない)
その日の練習は結局三人で行った。欠けた一人という穴は、あまりにも大きかった。
三年一組は、二階の東側にある。階段と二組に挟まれている。巻内健介はその教室の窓側に座っていた。涼はその姿を認めると、健介の名前を大声で呼んだ。さすがに、避けられないと感じたのか健介は大人しく、涼をつれて三階へあがる階段のそばに来た。
昼休みを謳歌する生徒で溢れた廊下は騒がしい。涼は静かに話したいと思ったが、健介に逆らってまで静かなところへ行こうとは思わなかった。健介も話の内容はわかっているのだろう、眼鏡を押し上げて涼を見下ろした。背丈が大きいだけに、迫力が出る。
それでもひるまず、涼は健介に頭を下げた。
「リレーに出てください!」
「断る」
素気なく言われた涼は、それでも諦めないで上体を起こすと健介にすがりつく。さすがにぎょっとしたのか、健介はふりほどくことを忘れていた。代わりに後ずさりをしてすぐ後ろの壁にぶつかる。
「なんで嫌なんじゃぁ」
「ぎゃ、逆に聞くけど、なんでリレーしたいんだよ」
面白そうだから、という言葉を飲み込む。それだけでは健介は納得してくれそうにないからだ。実際、面白そうなのは事実だった。兄の琉が駅伝を走ることを聞くたびに団体競技への憧れが募っていた。それで迷いなくリレーへの出場を決めたのだ。
「たとえば、ただ走るんなら、簡単にできると思いません?サッカー部にもバレー部にもでちゃう。でも、リレーは、本当に速いリレーだけは、考えながら練習しないと、走れん。先代のリレー選手にできんかったことして、みんなを見返してやる、それは面白そうじゃないですか?」
他の競技、特に最初にいた短距離走の選手からは、ほとんどいないものと見なされていた。マネージャーが用意するボトルはリレー走の涼たちにはない。支給されるはずのタオルなどもなぜか回ってこないのだ。いじめに近いほどの嫌がらせを受けている、と涼は感じている。
涼でさえ感じていると言うことは、他のメンバーはもっと感じていることだろう。涼は愚直な上に鈍感なのだ。だから秀しかいなかった中学時代の孤独にも耐えられた。
だが、今回は涼だけの問題ではない。今さら健介がリレー走をやめたとして、短距離走に居場所があるか、である。過去の資料を見たが、リレー走をやめた後、部活自体をやめてしまう人が何人が見られた。健介がそうなるとは限らないが、せっかく二年続けてきた陸上の時間を簡単に投げ出してしまう可能性だって、あった。
「俺たちは、実際速いじゃんか。落ちこぼれを集めるんやったら、もっと遅い選手はおる。監督はただ落ちこぼれを集めたんじゃない。戦力外通告を受けたんじゃない。リレー走を復活させたいんじゃないんかな」
「リレー走、の復活?」
それは健介にも聞き覚えのない言葉だった。だが尋ねる前に、顔の両横に手が勢いよく、押しつけられた。涼もろとも抱え込むようにしたのは秀だった。
「リレー走は実際二十年前くらいは、この学校のお家芸だったみたいですよ」
図書室の資料を片っ端からあさったのだ。そして発見したのは、二十年前のリレー走の記録だった。より速度化した今よりは遅いのだが、大会では一位をとっていた。そして、見つけたのはその記録だけではなかった。名前の欄には、第二走に多田羽海と書かれていたのだ。
「あの先生、ただの先生じゃないみたいです」
健介は険しい表情をとかない。まだ考えたいのだろう、涼はそう判断して、秀と健介の間から抜け出す。そのタイミングで秀も壁から手を離した。考えることは大事だ。その材料を渡したのだから、もう、あとは健介次第だった。
涼と秀は二人そろって、階段を上っていった。
その日の放課後。
誰よりも先に競技場に出た、と涼は思ったが、そこではすでに亨が準備運動をしていた。昨日も残りはしたが、乗り気ではなかったと思われる彼が意外で、涼はそばに寄った。
さして驚くこともなく、亨は笑った。涼はすぐにこの人はやる気なのだとわかった。嬉しくて、にこりと笑い返す。
「亨さんも離れていくと思ってました」
秀が意地悪に言う。だが亨はそんな秀にも笑いかける。それ以上の意地悪を言わなかったので、秀も嬉しいのだろうと、涼は判断する。
「考えながら走る、団体競技、リレー走の復活、全部面白そうだと思ってね」
どうやら、本当にやめるかどうかを相談しに健介のいる二階へ上がるところで、たまたま三人のやりとりをきいてしまったらしい。それで即決したのだという。優しそうな見た目にそぐわず、即断即決の男らしい。
「実は言っていなかったのだけど」
亨によると、リレーには他の陸上競技部の即席リレーもあるらしい。つまり陸上部からは二組出ることになっているのだ。各部活二組まで出せるので、他の部活からも余力があれば二組出るらしい。
「何組出ても俺らが一位になればええんじゃ」
「最近走っているのを見ないけど、それでも勝てるのかなぁ」
目の前に短距離走の男が一人立っていた。人数が多いので、涼には名前がわからなかった。それは二年目の亨も同じで。もしかしたら一年生なのかもしれない、と涼は彼を無視して準備運動を始めた。
「清水の口が二度と開かないほどにこてんぱんにしてやるから、期待していてくれ」
後ろからも声がかかって、見てみればそこには健介が立っていた。清水と呼ばれた男は苦虫を潰したような表情で、その場を去って行った。なにやら因縁がありそうだ。
それよりも、涼はランウェアを着てやってきた健介に顔を向ける。眼鏡を外した健介はまっすぐな涼の顔を見て小さく笑った。それから三人に向かって頭を下げる。
「すみません。もう一度、一緒に走らせてください」
涼はすぐに健介に向かって両腕を開いた。さすがに頭を上げた健介はそれには戸惑っていた。彼にハグの習慣はない。代わりに秀が涼の腕の中に収まる。それは涼や秀にとってはいつものことだったが、他の二人にとっては驚きだった。
「お前じゃねぇよぉ」
「いや、これは俺だけの特権だね」
くつくつと笑い声がどこからともかくあがった。騒がしくなりそうだった。
「走順を決める」
多田は、まず涼をみた。それから健介、亨、そして最後に秀。それだけ伝えると、いつものように練習が開始される。手にバトンの感触をなじませるように、相手の手へと渡るように、まるで精密機械を扱うように慎重にバトンを手渡す。
しかしある程度スピードが出てくると、タイミングが合わない。それを解決しようと、喧々諤々としたリレー走のメンバーは、不意に視線を感じた。そのちらを向くと、多田のぼんやりとした目とあったように涼は感じた。
まったくあらぬ方向を向いているのだが、なぜか見られていると思ったのだ。走順にも意見があった。一番速い秀が最後をつとめることは、容易に想像できたが、秀がわずかにそれを嫌がったのだ。ゴールを決める花形だ。涼は秀が喜ぶかと思ったのだが、どうやら彼はバトンを誰かにパスしたかったらしい。
「渡されるだけってのもなぁ」
「一番速くそれをゴールに持って行ってくれないと困るから、こればかりは譲れないよ」
亨がきっぱりと秀の気持ちを切り捨てる。だが秀はそれには反抗しなかった。一番速いと認めてもらえたからだ。第一走の涼はスタートダッシュに長けている。第二層の健介はひょろりと長いので重心の傾くコーナーよりも直線を。そして安定した走りが持ち味の亨がコーナーを走る第三走となったのだ。それぞれがちゃんと自分の特性に合った場所にあてがわれた。それにより、多田への信頼が増す。
四月二十日、木曜日。入学式から十一日が経とうとしている。
涼は特別棟を歩いていた。社会科の教材を取りに来たのだ。緑色の床は社会科の準備室まで一直線に伸びている。昼休みだが、生徒はあまり特別棟には来ないので、今、そこには人が誰もいなかった。教師がうろうろしているから、という理由で誰も来ないことをいいことに、涼はおもむろにクラウチングスタートの姿勢をとった。床がゴム材でできているので、あまり滑らない。
実際に走るつもりはなかった。なんとなく、直線を見て体がうずいたのだ。実際、リレーで走るのは、コーナーだが、元は百㍍走の選手だ。最近になってやっと、百㍍を走り出したのだが、まだコーナーを走る練習はしていない。
この調子で大丈夫なのか、と正直涼は思っていた。百㍍が単純に速いだけでいいなら、おそらく涼たちは一位になれるだろう。だが、リレーはそれだけではない。そろそろ、四百㍍トラックを使って練習をしたかった。
不意に後ろ足に何かが触れた。驚いて立ち上がろうとした涼に、重厚な
声が届いた。
「向こうの端まで走ってみろ」
涼は教師から直々に出たお許しに、すぐにカウントを始める。ピストルが鳴るタイミングで、ぱっと走り出した。狭い空間だからだろうか、いつもより速く感じられた。ランウェアでもなく、シューズも上履きなので、それはあり得ないのだが。
廊下の先の壁にたどり着いて、後ろを振り返ると、多田が立っていた。涼は呼ばれているような気がして、社会科準備室に入り、地図を持ち出すと急いで多田の元へ向かった。
今度こそ多田は涼が来るのを待って歩き出した。ついたのは理科準備室だ。そこに入ると、多田は入り口から右側にあるソファに腰を下ろした。向かい側のソファに涼も座る。黒いソファはふかふかとしていて、あまり人が使った形跡はない。対して、多田の座るソファは使い古されているようだった。
「ここはあまり変わらない」
「先生もここの生徒だったんすよね?」
多田は小さく頷いた。薄く笑うと、光のない目が涼を映す。
「俺が走っていたのは知っているんだろ?」
今度は涼が頷いた。
「赴任当時はリレーが落ちこぼれの吹きだまりだと知って、ショックだったよ。リレー選手を任されてからも、成績は伸び悩むだけ」
涼は多田の心境を想像して、胸が重苦しくなった。指導者になりたい、と将来を考えている涼にとっては他人事ではない。強い選手ばかりではないのだ。中には弱い選手がいる。そんな選手をどう導くのか。きっと多田が苦心していることを涼は感じ取った。
「問題提起はいつもお前がしているな」
「そうんなんすかねぇ」
それは涼が意識していなかったことだった。いつも我慢ができなくて口が動くのだ。それを暑苦しいと言わなかった今回のリレーメンバーは、いい人だと涼は思っている。
「いいことだ。それで、俺にも何か言いたいことがあるんじゃないか?」
ずばり、心の中を見透かされてしまって、涼は心が波打つ。今まで指導者側に立つ人間に意見したことはなかった。言っても良いものか、答えあぐねていると、多田は、頷いた。
「あの、本番、間に合うんかな、って思っとります」
多田はもう一度頷いた。間に合うのか、と安心した瞬間、いや、と否定された。
「そろそろトラックを使いたいんだが」
なかなか使わせてもらえない事情があるらしい。やはり、成績を残しているところからトラックは分配されるのだという。さらに残念なことにリレーは四人しかいない。たった四人のためにトラックを明け渡すことは躊躇われるようだった。
「一つのレーンだけでも難しいんすか?」
多田のため息でわかってしまう。
「じゃぁ勝負して俺たちが勝ったら、っていうのはダメなんすか?」
お前らがそれでいいなら、と多田は言った。おそらく、陸上部内の生徒間の確執をわかっているのだろう。さすがに涼の一存では決められなかった。三年生はともかく、二年生と一年生はこの先もずっとリレー走をしてくのか、という問題にあたる。
涼は三年間、やってみたいと思い始めていた。多田のように何かに特化した指導者、というのも面白そうだと。現にフィールド競技はもうできない。短距離走全般と言っても理科の中の生物や化学などと細分化されている。もちろん、百㍍走の選手が二百㍍走を走ってはいけないルールもないし、むしろ掛け持つことが一般的だ。
だが、殊、リレー走に関しては、それ専門の指導者が必要ではないか、と涼は思うのだった。単純に繋ぐだけのリレーなら未就学児にもできる。涼が求めるのはその先だった。そしてそれは多田も同じなのだと、実感した。
だから、涼は殴り合うように、競ってもかまわなかった。でも、それは涼だけに言えることではない。秀はまた短距離走に戻りたがるかもしれないし、亨だって見返してしまえば、それで終わりかもしれない。
「先生、みんなで考えていいですか?」
その言葉に、多田は目を見張ったがすぐにまた黒い目に戻った。そして頷く。解決法は、探せば出てくるのかもしれない。そう思って、涼は理科準備室を出た。
放課後の競技場。
「え?それで解決じゃね?」
きっと反対されるだろうと思っていた涼の提案をその場にいる三人は容易に肯定した。それになぜか涼は焦った。
「じゃ、じゃけど、負かしたら、みんなと仲悪くなる、かも・・・・・・」
今でもそんなに仲は良くないので今さらだな、と涼は思った。
「俺は三年だから、あんまり意見にはならないかもしれないけど、このまままトラック練習ができないのは、厳しいと思う。それで本番、負けたら元も子もないだろうし」
亨がそれに頷く。みんなが納得してしまったので、涼は多田の元へ報告をしようと立ち上がる。その瞬間、真後ろで低く響く声が聞こえてきた。
「その必要はなくなった。急いで準備しろ」
全員が戸惑っていると、多田は珍しく笑みを浮かべた。それはとても不気味であった。
「県立が貸してくれる」
県立深山高等学校にも、陸上部は存在する。生徒数が少ないので、文化部か陸上部しかない。その陸上部も今は長距離選手しかおらず、グラウンドを使わないときに使用していいと、許可が出たのだそうだ。
涼は自分で提案しておいて、それが通らなかったことに安堵していた。やはり人が好きな涼は誰かと対立することを好まない。必要とあれば、折れることも辞さない。
とはいえ、多田のファインプレーがなければ、折れるわけにはいかなかった。県立は少し山に入ったところにあり、中心地からは外れている。多田の黒い乗用車に乗り込んで向かった。
ついた頃には、ちょうど陸上部が外を走っていた。私立ほど整ったグラウンドではないが、ないよりはましで、誰も文句は言わなかった。さっさと靴を履き替えて、初めてのリレー走を行うための準備をする。
涼は妙な緊張感を抱いていた。最初だからうまくいかないだろうことは容易に予測できる。だが、それをこれから可能にしていくのだと思うと、胸がはち切れんばかりに高鳴る。
右手で持ったバトンに自然と力が加わった。このチームで集まって最初にかけられた言葉が、力を入れすぎるな、であった。涼はそれを思い出してもう一度、バトンを握る。わずかだが、リラックスしたらしく、胸の鼓動が静かになる。スターティングブロックに足をかけた。
誰もが、涼を見ているのを感じた。窓の中から文化部だろうか、県立の生徒が覗いているのも見える。だんだん冷えていく頭の中に、これまでしてきたバトンパスのイメージが膨らむ。あの反復練習は無駄ではなかったのだと感じた。
多田が、やる気があるのかないのかわからない声で、位置について、と合図する。フラッグを用意していたらしい、どん、と言うかけ声とともにそれが下げられた。
スタートダッシュは涼の得意なところだった。前へ前へと進みたがる足を、まっすぐと下ろして大地を蹴るようにかける。
結果。バトンは最後まで繋がった。しかし、誰もが納得した顔をしていなかった。誰もトップスピードには乗れなかったのだ。繋ぐことを意識しすぎている。
「いや、いい。これでいい。まずは初めてでも成功したことを喜べ」
だが、多田の目標は果たしていたらしく、初めて褒められた。喜べと言われて他のメンバーは喜んでいられないのか、困ったような顔をしたが、は素直ににんまりと笑顔をみせた。
「何しに来た」
「弁当食いに来たんすよ」
三年一組の教室に、涼と秀と、連行されてきた亨がやってきた。事情を知っている健介のクラスメイトはクスクスと笑っている。リレーメンバーが何かしているぞ、と嘲りまじりに笑っているのだ。
それが恥ずかしくて、健介は大人しく席を立った。涼はそれを見て、すぐに歩き出す。四月二十九日まであと二日とせまっていた。陸上競技のうちリレー走は予選が初日にあり、決勝が二日目にある。今年はバレー&バスケ部、サッカー部、野球部、テニス部、道術部、そして陸上部がそれぞれ二組ずつ出場する。予選で、半分。その予選でまず結果を出さなければならない。
いまだ、トップスピードでのバトンパスは成功していない。後一押し、というところなのだが、打開策が見つからないのだ。そこで、多田に走っているところをビデオカメラで撮ってもらった。今日の昼休みはそれを見るために、涼が三人を理科準備室に集めた。
理科準備室には古いブラウン管テレビがある。デジタル放送になって、アナログ対応しかしていないこのテレビはただの置物であったが、撮影したビデオを見るだけなら、問題ない。どうやら、秀はともかく、亨や健介も理科準備室には始めて入るらしかった。
いつもは薄暗い理科準備室だが、今日は電気がつけられていた。それでも薄気味が悪いと思うのは、人体模型などが置いてあるからだろう。恐れを知らない涼と、物怖じしない秀はさっさと入っていってしまう。亨と健介は一瞬躊躇って、顔を見合わせた。だが、行くしかないと腹をくくって中に入る。
中には生徒が使う机が一つ、向かい合うソファの横に用意されていた。涼は多田を手伝って大きなブラウン管テレビをその上に乗せる。多田に譲られたソファにそれぞれが腰掛けると、テレビはついた。
クラウチングスタートをしようとしている、涼が映し出された。カメラをまわす多田の代わりに県立の教師がスタートを切ってくれた。スタートダッシュは悪くない。だが、問題はすぐに明るみになった。バトンをパスする瞬間のかけ声が遅かった。それにより次の走者である健介はわずかにバトンの方を見たのだ。
それにより加速が妨げられ、本来のトップスピードまでもっていけないのだ。涼の声かけのタイミングで次々とバトンがパスされていき、結果それなりに速くはあるが、物足りない走りとなっている。今のままでも、きっと決勝には進むことができるし、一位もとることはできるだろう。素人がみればコンビネーションはよく見えるかもしれない。
だが、四人が目指しているものは圧倒的速さだった。嘲笑する奴らを見返すことのできるような。そして、その次を、目指していた。六月には都幾川スプリントがある。県主催で行われるそれには、私立みやま高等学校の生徒が高校生部門に招待されている。
そこになんとしても、ねじり混む必要があった。エントリー期間は五月のGWが明けるまで。涼は今すぐ見つかった改善点を直しに、グラウンドへ飛び出したかった。
「多田先生、気づいていたんでしょ」
「あぁ。わざと言わなかった」
それもこれも自分たちに考えさせるためだ。秀の指摘にそう涼は思った。
「まだ、お前らを信用できねぇからな」
だが、涼の思いを裏切るように多田はきっぱりと言った。指導者が信用できないような走りをしているとは、涼には思えなかった。誰もが真剣に悩んでいたし、それに応じてスピードもあがってきてはいる。それに、褒めてくれた。涼はその感触を忘れられないでいる。
確かにリレーは長い間スランプ状態だった。それはどちらのせい、というわけでもなく、仕方がないことだったのかもしれない。そのときに味わったものを八つ当たりしている、涼はそう思った。
多田の目はいつもこちらを見ない。黒く沈んだ目の色をしている。涼は初めて、それが拒絶の色なのだと知った。今もまだ信用されていないのだ。指導者からの信用がないという状況は、涼にとって初めてだった。
「・・・・・・お前のために、走っとるんじゃない」
滅多に火のつかない導火線に炎がともった。長い導火線を素早く焼き尽くして、そして、涼の中で爆発した。
「自分の気持ちを満たすための道具に選手を使うなや」
涼は食べかけの弁当を閉まった。他のメンバーもそれに倣って、片付け始める。
「そんでも俺は、走る。でもそれはあんたのためじゃねぇ」
肩を怒らせて、理科準備室を出る。
元来、怒りは続かない方だ。次へ進むために怒りは直接的な効果を生まないのを知っているからだ。それに加え、大きな声を出したことで、怒りは自然と収まった。多田から信用がなくても走ることはできる。それにやはり、褒めてくれたこと、またグラウンドを用意してくれたことが、忘れられない。あれは、自分たちのためであった、間違いはない。
「多田、怒ってもう練習につきあわんゆうたらどうしよう」
涼の心配はそこにあった。啖呵は切ったものの県立に行くためには多田の支援が必要だ。また、カメラもまわしてほしい。
「そこまで薄情ではないと、思いたいね」
亨が言う。
「でも正論だ、先生には反省してもらわないと」
健介も涼を責めない。秀は涼の頭を撫でて慰めた。大丈夫、ここには四人がいる、涼は心強い仲間に、安堵した。
多田は教員駐車場にちゃんといた。相変わらず何を思い、何を見ているかわからない目だが、それでも指導者をつとめる気概はあるのか、黙ったまま車に乗り込んだ。
車内で多田に話しかける者は誰もいなかった。
県立につくと、すぐに出迎えがあった。文化部の生徒が飲み物や塩飴などを用意してくれているのだ。本気で走る彼らを見て感化されたらしい。フラッグを下げたり、タイムを計ったり、マネージャーのような仕事を率先してやってくれる。リレー走の仲間はそれをありがたくちょうだいした。何もかもを自分たちでやっていると、時間だけがなくなる。応援は喜んで受け取る。
そのかわり、約束事もあった。都幾川スプリントに出ることだった。競技会は部外者が見に行くことは躊躇われる。一方都幾川スプリントは観覧を広く募集していた。それに見に行くと言ってくれる。
涼たちは俄然燃えるような心持ちであった。動画で見たものを反芻して、反省点をどう直していくのか、あの後話し合った。最初は二人で二百㍍を走ることになった。一、二走。二、三走。三、四走。どのタイミングでかけ声をかけるか、客観的にも見てみようという作戦だ。
「多田先生、どう思うっすか?」
もちろん速く走るためには、指導者の力も必要だ。涼は、躊躇いなく多田に声をかけた。ぎょっとした多田を見て、涼はにっと笑ってみせた。
「絶対に、先生のために走らんとは言っとらんすよ」
それに多田は小さくため息をついた。涼の愚直さは、負の気色も吹き飛ばす。何かを手放したように、多田は声を出し始めた。
競技会当日。
『リレー走に出場の選手は、陸上トラック、昇降口側に集合してください』
涼と秀はすでにそこにいた。いつでも走られるように、準備運動をしていたのだ。亨は救護係だったので、直前まで動くことができない。健介は直前の百㍍走にも出ている。それは二年間やってきたことのけじめをつけたいという本人からの要望だった。
決勝に出る人が多ければ多いほど、ポイントに有利になるので、短距離の監督はオーケーを出した。健介は遅い選手ではないからだ。リレー走のメンバーも反対しなかった。やはりけじめをつけたいという健介の気持ちがわからないではなかったからだ。
続々と集まる選手は、やはり鍛える場所が違うので、体型もそれぞれだった。みんな走りには自信があるのか、不安そうな人はいない。涼は心臓がばくばくと音を立てているのを感じた。ほどよい緊張感に包まれている。手足に充分に血液が回るように、体を動かし続ける。
「涼」
秀が試合の前になると、緊張しすぎるのを涼は心得ている。だから一人にはしなかった。
「俺たちは一筋の川じゃ。流れるように走れ」
涼が秀の右手を握ると、左手で覆い被すようにして握る。その上から涼ももう片方の手を乗せた。秀の手は冷たかった。それを暖めるように、涼はぎゅっと握る。涼の高い体温がだんだん伝播していくのか、それとも過度の緊張からとけたのか、秀は指先から温かさを取り戻していった。
「涼とずっとこうしてたいな」
「・・・・・・頑張る」
何を頑張ればいいのかはわからなかった。ただ、目の前の目標に向かって走ることが、未来を繋ぐのだと思った。
「お前のそういうところが、好きだよ」
ゆっくりと手が離される。掛け違えたボタンのように、気持ちがすれ違っているのだろう、と涼は思った。でもお互い掛け直そうとは思わない。掛け違えている今が、とても自然体でいられるのだ。今は平行線でも、きっといつか交わると信じている。
「すみません、遅くなっちゃった」
亨と、その後ろから健介がやってきた。走ってきたのか、亨も体は温まっているようだった。ストレッチをしながら、体が冷めないようにコントロールを続ける。リレー走メンバーは予選Bだった。大して陸上部の即席メンバーは予選A。
『選手の皆さんは、所定の位置につき・・・・・・』
放送で促されたとおり、それぞれの持ち場に集まる。すぐに始まった。大きくなるピストルの音と同時に、スタートした。涼が見る限り、スタートダッシュは全体的に悪かった。おそらく慣れないスターティングブロックに姿勢を崩されたのだろう。陸上部の即席メンバーが頭一つ飛び抜けている。
第二走に渡されるとき、どのチームもオーバーハンドパスだった。技術的にも難しくなれないアンダーハンドパスをするリスクを追うようなまねはしない。賢明だろう。直線に入ると、サッカー部が強いのか、陸上部に迫る勢いだ。
第三走。テニス部がバトンパスに失敗した。落とさなかったが、大幅にスピードを落とす。コーナリングがうまいのは、野球部だった。失速したサッカー部の隣に並んで陸上部にも追いつく。
第四走、ついに最後の選手だが、オーバーハンドパスのおかげか、パスミスはない。サッカー部は第二走にエースを置いていたらしく、第四走では野球部に抜かれた。結果、陸上、野球、サッカー、バレー&バスケ、道術部、テニスであった。
とんとん、と胸を軽くたたいた。この予選がうまくいかないと、決勝に出ることはおろか、その先もない。リレー走の面白さは第一走で勝負が決まらないところだ。スタートダッシュが決まらなくても、次に走る人が巻き返せばいい。だが、涼はそれでは満足できない。わずかのミスも許さないほどの闘争心。
選手紹介の後、スターティングブロックに足をかけた。例年よりも熱い太陽に照らされて、地面付近は陽炎が立ち上る。それを吸い込むように、涼は大きく息を吸って吐いた。トップスピードでのバトンパスは何度か成功した。確率は百%にはならなかったが、今はそれを出せるように、走るしかない。
ピストルの音ともに涼はかけだした。前傾になっている体をだんだん垂直にしていく。直線の百㍍を走るように、足を前に出す。隣を見ている暇などない。景色は涼をかすめていった。
カーブを曲がると、次の走者が待っている。涼と健介のバトンパスはうまくいった。走り終わってみると、涼は他の走者をぶっちぎっていた。健介も先に百㍍を走ってきたとは思えないほど快調で、他の選手を寄せ付けない。
第三走の亨にもバトンがわたった。わずかに失速して見えたが、安定した走りで亨も走りきり、第四走の秀に渡る。このチームのベストタイムは四十秒。時計は四十秒二三を示していた。記録更新とはならなかった。
だが、予選一位通過。申し分ない。みんなのところに集まろうと、涼が歩き出したところで、不意に一人の男が立ちはだかった。身長は秀と同じくらいだろうか、わずかに涼より大きい。体格も陸上部とは思えないくらい筋肉が発達していた。
どう猛な肉食獣を思わせる笑みを浮かべていたが、涼は自分が獲物であるとは思わなかった。横を素通りしようとしたところで、その男のことを思い出す。
健介に清水と呼ばれていた男だ。
「お前、わずかに失速しただろ」
バトンパスの時のことだろう。確かに二人の呼吸はわずかに合わなかった。些末なこと、とは思わなかったが、だからといって大げさに騒ぎ立てることではない。
「多田にも見捨てられてるってきいたけど、本当だったんだな」
涼は声を聞かないように努めたが、嫌でも耳に入ってくる。多田の信用していない、という言葉が思い出されて、思わず唇をかみしめた。見捨てられているわけではない、事実、多田は積極的に練習に口を出すようになった。
「多田の指導があれば、もっと速く走れるはずだぜ。あ、それともお前らがへっぽこなだけか?」
どうやら清水は多田の過去について何か知っているようだった。そんな涼の様子を見て、清水は笑みを深める。
「あいつのこと知りたいか?・・・・・・教えてやんねぇけど」
挑発してくるやつのあしらい方を涼は知らないわけではない。だが、足が地面に縫い止められたように動かなかった。混乱していた。清水はそんな涼を見てにたにたと笑っている。
「多田はお前らを都幾川に出すつもりはねぇぜ」
何を根拠に言っているのかわからない。だが、もし本当にこの大会の先がないのなら、今の走りに意味などあるのだろうか。
「清水」
健介の声に清水は焦ったようにその場を立ち去った。秀の力強い腕が肩に回ったの感じて、少しばかり混乱が落ちつく。何に動揺しているのか、わからないが、最後の一言はまるで鈍い刃物でちくちくと攻撃するような、そんな痛みが伴った。
「何か言われた?」
亨の優しい声が届く。涼は首を横に振った。きっと伝えればみんなが動揺すると思ったのだ。自分が亀裂になってはいけないと、言葉を飲み込む。救護係のある亨を除いて、暇になった三人は決勝に向けて話し合うことにした。
多田も今日は忙しいらしく、リレー走を見終わったらどこかへ行ってしまった。かわりに涼たちに理科準備室を解放していた。涼は秀の隣で頭を垂れている。秀は教室に置いている弁当を、健介は何か用事があるとかで、出て行った。
健介は清水という男について、語らなかった。あれがどんな意図で涼に突っかかってきたのか、わからなかった。それが気持ち悪い。初めて、走る意味をなくしたような気がして、そんな自分が嫌だった。走ることに理由は大きく必要ないと、涼は思っている。走りたければ走ればいい。
だが、リレー走を伝って、走るだけならいつでも誰でもできると改めて実感したのだ。繋ぐ意思。それがどれだけ涼を走ることに向かわせていたのか、実感した。
今、繋ぐ意思は揺らいでいる。未来へ繋ぐ、それができないとしたら。涼は恐ろしくて考えるのをやめたかった。今すぐにでも駆け出したかった。後悔、それが今一番考えたくないことだった。百㍍走を走っていればよかったという、後悔。
あんな意地悪な一言に揺れる自分も許せなくて、そのとき初めて涼は弱い自分を知った。
「涼」
不意に開きっぱなしのドアから声が聞こえてきた。それは秀の声で、涼はぱっと顔を上げた。無理矢理笑って見えたが、秀は笑わなかった。二人分の弁当を持って、秀は涼の隣に移動した。古くなったソファに座る涼の右隣に腰を下ろすと、弁当をテーブルの上に乗せて、それから長い手を大きく開いた。
涼は躊躇いながらも、大きな胸板に体を預けた。制汗剤の強い香りがする。秀の腕に包まれても涼の心は晴れない。暗雲が立ちこめるように、目先のことが薄暗く曇って見える。
「涼が信じたい人を信じればいい。俺はそんな涼を信じるよ」
「間違えとっても、ええんかな」
「いいんじゃない?」
涼は口の中の唾液を飲み込んだ。信じると言った秀を、涼は信じようと思った。
「あいつに、先生が都幾川スプリントに俺たちを出すつもりがない、って言ったんだ」
秀は頷いただけだった。その代わり、腕に力が入ったのを感じた。涼はその力強さにすがるように甘えることにした。
「今回俺たちがダメじゃったんはわかっとるけど、じゃけど多田先生はまだ俺たちを信用しとらんのかなぁ」
「さぁね。先生の気持ちは先生にしかわからないから」
「そっか・・・・・・」
清水が多田から直接話を聞いたのなら別だが、憶測で喋った可能性もある。自分たちを動揺させるために。でもなぜなのかはわからない。なんにせよ、清水が多田の気持ちを知っているはずがないのだ。そう涼は言い聞かせた。
ごほんと、咳払いが突如聞こえた。ドアを見るとそこには健介と救護係を終えたのだろう、亨がいた。涼は離れがたかったので、そのまま秀にもたれかかるようにして座り直した。
「清水のことは気にしなくていい。あれはやっかみだ」
「やっかみですか?」
亨が健介の言葉に問い返す。二人は涼たちの向かい側に腰を下ろして、弁当を広げた。
「そ、あいつはリレー走を走りたくて、この学校に入ってきた変わり者だ」
涼と同じ一年生らしい。だが、選ばれたのは清水ではなく、涼と秀だった。
「多田先生はああ見えてけっこう熱血な人だったらしいよ。指導力もあった。きっと清水はそのときの先生のことを忘れられないんだろうな」
聞けば、清水は家が近所らしい。珍しく地元生なのだそうだ。そういう、健介も地元の生徒で、清水を昔からよく知っているようだった。その当時に赴任したての多田を見て、きっと清水は感化された。だから、多田の気持ちを代弁するかのようなまねもできたのだ。
だが、それ以上の情報は健介の口からは出なかった。知らないのか、それとも喋りたくないのか、知らないがその場の三人はそれ以上追求しようとしなかった。
「・・・・・・もし、本当に先生が、俺たちを都幾川に出さないとしても、目標はあるんじゃないか?」
秀が思いついたように言う。
「みんなを見返すため、でも充分な動機になる」
「そうだね、もともとそのつもりだったし」
亨も秀の言葉に賛成のようだ。健介も頷いている。繋ぐ理由、それがどんなものであっても理由は理由。たいそうな夢を追いかけるだけが理由ではないのだと、涼は思った。よりかかっていた秀から体を起こすと、涼はテーブルの上の弁当箱に手を伸ばした。
「でも・・・・・・都幾川には出たいわ」
ぽつりと漏らした涼の言葉にその場にいた誰もが、そう思った。あくまでもここにいる全員の目標は、先、であった。
大会二日目。
全員が早めにスタート地点に集合していた。亨は救護係ではなくなったし、百㍍走の決勝は一時間前に終わっているので健介もいる。健介は四位入賞を果たしていた。やはり、自分たちの実力が低いわけではないことを実感させられる。
各自がそれぞれ、ストレッチやアップを終わらせると、自然と輪になるように集合した。みんな緊張気味で、それは涼も同じだった。心が一つであるから、同じ緊張を分け合えるのだと思う。
「涼、あれやって」
涼が秀の手を握ると、亨と健介の手もそこに重ねられた。まるで円陣みたいだ、と涼はくすりと笑った。
「俺たちは一筋の川じゃ。流れるように、繋げ」
涼は目をつむった。大きく息を吸って、吐く。誰ともなく手を離した。それでも心が離れることはない。
そのうちにアナウンスがかかった。決勝に残ったのは、陸上部即席チーム、野球部A、B、サッカー部B、バレー&バスケ部B、そしてリレー走チームだった。
スタート位置につくと、周りの観客の中に、清水がいた。そこから離れたところに、多田もいる。
(俺は、清水でも先生でもなく、みんなを信じるけぇ)
そう思った。そう思ったと言うことは、亨も健介も、そして秀も思ったことだろう。
ピストルの合図とともに、涼はかけただした。前へ大きく一歩を踏み出す。流れる景色の色もわからないほど、繋ぐために走った。だが一方で自分がどんなフォームで走っているのか、足のあげかた、おろしかた、手の振り、上体の起こし方、顔の位置、その細部にまで神経が巡り渡っている。 涼は躊躇わずに健介に突っ込んでいった。バトンは、渡った。ごく自然に、躊躇いなく渡すことのできたそのバトンを持って大きな背中はすぐに小さくなる。
亨に渡ったときには二位との差が一秒も離れていた。減速したような気配はなく、安定した走りでコーナーを難なく走り抜けた。最後の秀に淀みなくバトンが渡ると、これまでよりももっと速く秀は駆け抜けた。今まで手を抜いてきたわけではないだろうが、涼の目には流星のように写った。タイムは三十九秒五六。これまでの大会の中でもっとも速い記録だった。
その瞬間、みんなが見た景色は同じだった。青い山が近くに見え、ペンキをこぼしたような青い空が頭上に広がっている。雄叫びが四方向から同時に上がった。二位との差は一秒半もあった。陸上部即席チームとの差は三秒。
表彰台に上ったのは、陸上部リレーチーム、野球部A、バレー&バスケ部Bで、陸上部即席チームは四位であった。リレー走復活への第一歩となった。
それでね、と言葉を続けようとした弟を、兄は制した。いい加減勉強がしたかった。彼は受験生だ。それよりも北産業の特別科にいる。武道も大事だが、文道もまた頑張らないといけない。
涼は不満そうに口をとがらせたが、大好きな兄が言うなら仕方ない、と部屋を出る。あれから一ヶ月が経とうとしていたが、いまだに興奮がさめやらぬ涼は毎日のように琉に話していた。部活でも学校でも、もうリレー走を馬鹿にするやつはいない。
マネージャーは水の入ったボトルを渡すし、支給されるタオルも回ってくる。ただ一つ寂しいと言えば、県立の生徒との別れだった。結果報告に行ったときは、自分たちのことのように喜び、多田が撮影していたレースの様子を見せると、歓喜していた。だが、リレー走は正式にグラウンドを使えるようになったので、県立にはもう行くことがないだろう。
そして、六月十七日。
彼らは都幾川スプリントを迎えることになった。
おわり
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