第2話 ラン

ラン

 岡田市は、沖町の北に位置する港町だ。沿岸部には大小複数の漁港があり、旅客船の寄港場も中心地から離れていない場所にある。街の中心地は北寄りに展開しており、鉄道も通っている。沖町へ行く途中の道にはICがあり、隣接する県には空港もある。水陸空路の整った住みよい街であるのだが、視点を変えると人口流出が著しく、僻地では集落がなくなる現象も起きている。

 沖町ほどではないが、少子化と人口流出に悩まされる岡田市の、中心地から東に外れた場所に、北産業高等学校がある。開校当時、南側に産業学校の分校がすでにあったため、差別化を図る目的で、北とつけられた。通称、北産業は名前の通り産業を主軸としているが、校風は進学校とほぼ変わらず、市内随一の大学進学率を誇っている。

 校舎は鉄筋コンクリート造り、三階建てが二棟、実技に使うための納屋が複数存在する。学科は産業科が一クラスに特別科が三クラス。文武両道を掲げているが、実態としては文道を優先している。生徒数は一学年百六十人。市内では最も多い。

 学校のそばには沖町が水源である第一級河川の百井川が海に向かって流れている。高校の敷地内には桜はないが、その河川敷には学校から見える形で桜並木が広がっている。

 その道を一人の少年が走っていた。学校で行われている朝練という名の自主練を抜け出して、まだ咲く気配の感じない桜の下をリズムよく足を動かす。

 二月二十七日。

 受験戦争に一応の終わりを見た最上級生が、羽目を外すために部活へやってきた。にわかに賑やかになった部室。冷めた自分の心がチームメイトを見ていた。その中に爽やかなイケメンがいる。その人のことが、一番苦手で、大嫌いだった。

 満田琉は、伊勢秋世を避けるようにして部室を出た。舗装されていない地面は足になじむように、柔らかく受け止める。河川敷は学校の正面入り口から、国道に繋がるまでの約一㌔。満田は何度もそこを巡った。

 北産業高校の陸上部は、サッカー部に続いて二番目に人気の部活だった。成績も悪くはなく、みんなが平均してそれなりに速かった。しかし、北産業にはエースがいない。記録会で入賞できるほどの力はあっても、表彰台に上るほどの選手はいないのだ。それに応じて、長距離陸上においては予算を削減されている。短距離走やフィールド競技にあからさまに力を入れている。

 だから、満田はその現状を打破してやろうと、思っていた。自分がエースになって、変えてみせると意気込んでいたのだが、今は平均化した速度の中にいる。どれだけ走っても、理想は、理想。夢は夢。

「満田」

 四週目が終わるところで、学校前の橋に伊勢が立っていることに気づいた。無視して体の向きを変えると、伊勢が隣についてくる。あと数日でいなくなるとわかっていて、満田は舌打ちをした。卒業式は三月七日に行われる。

 伊勢秋世は元陸上部部長だ。長距離部門だけではなく、陸上部そのものを牽引していた。特別足が速いわけではない。実際、北産業の中では上位にいる満田よりも遅い。順位としては中の中だ。人望だけは篤く、いつも人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている。

 へこへこしよって、気持ち悪い。それが満田の彼に対する第一印象だった。彼にとって、部長とは誰よりも強く速い人だった。速くもなく腰の低い伊勢はそのキャラ像に当てはまらない。それが嫌いな理由だった。そして、嫌われているとわかっていても話しかけてくる、それが苦手な理由だった。

「満田、走りすぎじゃ」

 朝練は五㌔までと決まっている。河川敷なら、二周半で足りる。注意されたとおり、走りすぎていた。だが、走らないと気が済まなかった。去年の十一月二十日。沖はなゆめ駅伝大会。そこで満田はトップと一分も差をつけられた。元からあった二十秒差をさらに四十秒も開けてしまったのだ。

 それは満田にとって屈辱的なことだった。確かに白い男は速かったがあいつよりは遅い、そう思っただけに離された距離が腹立たしかったのだ。あいつと白い男。あいつとは有川明司という沖高校の生徒だ。記録会などでよく出会っていて、満田が密かに憧れ、目指すべき目標としていた男だった。

 また有川との距離が開いたような気がした。もう、目指すこともできないほどに遠くなったような心持ちで、満田は絶望にも似た感情を覚えていた。それだけに走らないではいられなかった。

「満田」

 ペースを乱すように、脇腹をつつかれて満田は初めて足を止めた。

「なんじゃ」

 北産業には厳しい上下関係がある。本来ならすみませんと謝るところを満田は強く伊勢をにらみ付けた。だが、この男はにこにこと笑うばかりで、少しも責めようとはしない。心の底では舌打ちしているかもしれないが、少なくとも、表面上はひどく穏やかだ。

「走りすぎとる。休まんと故障の原因になる」

「あんたにはどうでもいいことじゃろ!」

 満田が怪我をしようが、それで大会に出られなくなろうが、伊勢の関係するところではなくなった。たった二年、一緒に走っただけで、自分をコントロールしようとしている、そんな伊勢が嫌だった。

 さすがに怒るだろう、そう思っていたら、伊勢は眉根を下げて悲しそうな顔をしただけだった。喧嘩してやろう、と思っていた満田はその反応にひどく戸惑った。

「関係、ないわな・・・・・・すまん。でも、走りすぎはよぉないけぇ、な?」

 それ以上強く言うことができなくて、満田は走ることを諦めた。学校までの道を歩き始める。隣にいる伊勢のことはいないものとして。


 沖町での駅伝の後に、大きな駅伝大会にも出た。三十校あったがそこでは九位でゴールすることができた。そのときも、満田は重要な区間を任され、そしてその期待に応える走りをした。なぜ、沖町の駅伝ではそれができなかったのか。やはり悔しくて、満田は放課後の練習の後も、学校から家まで走っていた。約十㌔ある。本来ならバスか自転車を使うところだが、そんなもったいないことはできなかった。

 荷物は近くに住む友人を頼って、持って帰ってもらっている。近道などしないで、バスの通る道を走る。学校前のバス停から、まずは街の中央駅へ向かう。ターミナルを回って、駅前商店街の入り口を横切り、観音坂と呼ばれている坂を上る。上った先のT字路を右に曲がり、坂を下る。下りきった四つ角の交差点を左に渡り、バイパス通りを走る。大きな商店が建ち並ぶ道をひたすら走って、たどり着くのが青梅団地入り口だ。最寄りのバス停はそこまでで、今度は入り組んだ細道を走る。

 似たような一戸建ての並ぶ団地を走り終わると、家の前に人が立っているのに気づいた。日はとっくの昔に暮れている。目視ではまだわからず、友人が荷物を届けてくれたのだと、満田は思った。産業科の友人は満田の申し出を快諾した。昼飯につられたのだ。そんな現金な友人のことは嫌いではない。

 だが、近づくにつれそれが友人ではないことがわかった。あのニヤニヤ顔が玄関のランプに照らされて見えた瞬間に、満田はげんなりとした。

「走りすぎじゃ」

 そういえばこの人も同じ団地だった、満田は心の中で毒づく。

「別に・・・・・・」

 関係ない、と言ってまた傷つく顔を見るのは躊躇われた。口が悪く、態度も悪いと自覚しているが、傷つくとわかっている言葉をわざわざ口にすることは少ない。いつも勢い任せで口汚くなってしまうのだ。

「五日は暇じゃろ」

 卒業式の前々日の日曜日。顧問の手が離せなくて、全部活が休みなのだ。だが満田にとっては暇ではない。その日も部活に関係なく走り込むつもりだった。

「駅前に集合」

「嫌じゃ」

「駅前まで走って来りゃええじゃろ」

「行かん」

「ほいじゃぁな」

 伊勢は有無を言わさせる前にその場から走り出した。受験期間中も走っていたのかフォームに崩れがない。その姿が見えなくなるまで、満田はじっと見つめていた。何を考えているのかわからない、得体の知れないものを扱っているような、そんな感覚だった。

 大きなため息をついて、ランプに照らされたドアを開ける。ただいま、と呟いても誰もいないことはわかっていた。両親は遅くまで働いている。小さな頃からそうであったから、特別寂しいと思ったことはない。唯一いた弟は県外の中学へ通っている。陸上の名門で、短距離選手だ。そんな弟を誇りに思うと同時に、どうしようもないくらいの嫉妬を感じている。だが、近くにいないだけ、その劣等感はなりを潜めている。

「おかえり」

 不意に声がかけられて、ぎょっとした。なぜかいないはずの弟が、廊下に面したリビングのドアから顔を出していた。

「お邪魔しています」

 弟の上から知らない男が頭を下げる。脱ぎかけの靴をそのままに、満田は呆然とした。弟の涼は見ないうちに満田よりも大きくなっていたのだ。手足はすらりと長い。スプリントをするためにがたいは良い。その後ろの男も同じだ。涼よりも大きくがっしりしている。

 長距離ランナーである自分と比較しても仕方ないが、恥ずかしさがこみ上げてくる。満田も小学生の頃までは短距離を走っていた。いつしか長距離に適性を見いだされ、千㍍、三千㍍、五千㍍と距離は伸びていった、

 長距離と短距離では使われる筋肉や必要な筋肉量は変わってくる。だから、弟との差に驚いても、羞恥を覚える必要などない。

「兄貴?」

「あ、あぁ。ただいま」

 なんとか答えることができたが、動揺は隠しきれなかった。涼は後ろの男に驚いているのだと思ったのか、美土里秀だと紹介した。

「今日はよろしくお願いします」

 差し出された手のひらは満田より大きい。もう短距離への後ろ髪などないものだと思っていたが、もしもの世界が満田の前に開ける。その分厚い手を握ると、力強く握り返された。

「き、聞いてないんじゃが」

「ゆうてないもん。あ、飯は大丈夫。こうてきた」

「寝るとこ用意しとらんわ。準備したるけぇ、風呂はいっとれ」

 満田は逃げるように靴を脱いで、玄関を上がった。いつもシャワーだけで済ませていた満田だが、思い立って浴槽に湯を張ることにした。たまる間に、昔弟が使っていた部屋に二組の布団を敷く。誰よりも速くシャワーを浴びたかったが、なるべくあの二人に会わないようにしたかった。嫌な気持ちばかりが浮かんでは腹の底にたまっていく。

 だが、涼は久しぶりの我が家に浮かれているのか、兄である琉の異変には気づかなかったらしい。結局一番広い部屋である満田のところに集まった。

「卒業式までに三年は寮を追い出されるんよ」

 寮が閉まるのは今週末らしいが、その前にさらに追い出しパーティがあるという。その準備で一晩だけ追い出されることになっているようだ。秀は実家が地方ブロック外で、移動だけに一日を要するということで、連れ帰ったらしい。

 県内の高校に通うことになっている涼は、これからまた家で過ごすことになる。電車があれば通える距離だからだ。満田は憂鬱な気持ちが早送りされたことにため息が出た。

 劣等感、嫉妬心、見たくなくても突きつけられる心の内。たとえば国語と数学と同じくらい競技に幅がある。競っても仕方ないことだとはわかっている。しかし、かつて目指していたものを獲得しようとしている弟が、やはり誇らしく、羨ましく、ねたましかった。

「兄貴はこん前の記録会で入賞したんじゃろ?」

 すごい、と秀が言った。半年以上も前の話だ。しかも、その記録会では有川が表彰台に立った。入賞は誇っていいことだ。だが自分の周りばかりすごいやつがいるような気がして、満田は素直に喜ぶことができなかった。もしこれがオリンピックだったら、世界陸上だったら、気持ちは違っただろうが。それもまた、理想で夢の話だ。

「お前も頑張りよるって聞いちょる」

 嘘だった。涼がどんな活躍をしているか、詳しくは聞いたことがなかった。涼は照れたように笑った。本当に頑張っているようだった。屈託ない様子に、ひどい罪悪感までプラスされる。

「兄貴と同じ競技場に行けるって、すっげぇ喜んでますよ」

「言うなや」

 涼は隣にあぐらをかいて座っている秀の体を小突いた。根が素直で、それをそのまま体現したような涼だ。反対に天邪鬼な性格をしている自分に失望感を覚える。帰ってからだけで、どれだけの感情を抱いたか、数えるのも面倒だ。満田は早く夜が更けるのを兄貴を努めながら辛抱強く待った。


「涼のことあんまり好きじゃないんですか?」

 涼が飲み物を取りに一階のキッチンに向かったところで、秀が直接的かつ攻撃的に満田に尋ねた。視線は優しいが、目の奥は笑っていない。まるで涼を守る本当の兄のようだな、と満田は思った。嘘をついてもどうせばれると、頷いた。

「嫌ってはなぁが、特別好きとも思わんよぉなった」

「似てるのはその方言だけですね」

 そうやな、と自嘲的に笑うと、その空気を裂くように涼がドアを開けた。何も知らない弟はその後も楽しそうだった。


 河川敷を走っていると、隣に嫌いで苦手な人が並んだ。すでに自由登校のはずだが、律儀に学校へ通っているらしい。後期試験に備えているのかもしれないが、部長までつとめた伊勢が前期試験を落ちるような気はしなかった。

 何か話しかけられるかと緊張したが、リズムを崩したくないのか、沈黙したままだった。しかし二周半ほどしたらすぐにストップがかけられた。もう少し走りたかった。焦りが臓腑を食い破るようで苦しい。速くなりたい気持ちと、その腹の底にたまった苦しい気持ちを消化するように、走りたかった。

「ゆっくり、戻ろうやぁ」

「走りたい」

「その気持ちがありゃぁ、いつでも走れるわ」

「じゃぁ、今走ってもええじゃろ」

 肩に置かれた手を掴んで捨てるように離した。しかし伊勢の手は再び肩を掴んだ。その手が思うよりも強くて、満田はひるんだ。しかしひるんだことを知られたくなくて、にらみ付ける。それでも肩を掴む手は離れず、見つめ返される目はきらきらと輝いて見えた。その目を知っている。よく知っていた。

 有川が見せる輝きとよく似ていた。速くもない先輩にそんなものを見るなんて思わなくて、満田はついに視線をそらしてしまった。ゆっくりと体を学校へ向ける。体をいたわるように、ゆっくりと歩き出した。気づくと体は冷えていた。走っている間は暑いくらいなのに、止まると急激に冷えていく。

 二月最後の日は、気温がぐっと下がって、春から遠のいた。

「冷えるだろう」

 伊勢の言葉に頷きもしなかった。この先輩と関わると、まるで自分が肯定されていくようで、それは恐ろしかった。苦しい気持ちまで一緒に肯定されることもまた、満田にとっては屈辱的なことで。その気持ちは否定してほしかった。

「・・・・・・決められとる距離を決められただけ走るりゃぁ、速くなるんか」

「さぁね」

 突き放すような言葉に苛立つ。わかってはいる、今の問いに正確な答えがないことは。速くなる人は何をしても速くなる。今無理をしたところで、自分が速くなる保証もない。事実、満田のタイムは小数点以下ほど遅くなっている。いつもベストタイムを出すことができるわけがない。だが、その小数点以下の遅れも、満田は嫌だった。

「俺が一年の頃のことや。走ることが大好きじゃった男がおる」

 伊勢の過去など興味はなかったが、満田は黙って聞くことにした。どうせ遮ったって喋るのだろう。

「じゃけどある日、足を複雑骨折しよった。走りすぎたんや。もう走れんかった」

 諦めたのだろうか、それとも再起不能になるほどの骨折だったのだろうか、伊勢はその部分は語らなかった。あっという間についた校門で、伊勢は満田の背中をたたいた。満田はこの男が決められた距離を走れというのは、きっと故障のことを考えてのことだとわかった。

 その言葉の重みを満田はわかったような気でいた。だが、満田は走ることを諦める手段があることを見つけ、それにすがろうとしているような気持ちを、認めてしまった。走りたいはずなのに、走ることを諦めようとしている。

 何のために走る。

 この人は知っているのだろうか、満田は尋ねてみたかった。だが、きっと答えてはくれないと、なんとなくわかっている。だから聞かなかった。校門まで黙ったまま歩いた。伊勢もそれ以上は話さなかった。ただ満田がちらりと見た伊勢は輝いて見えるのだ。

 学校からの帰り道。

 満田は荷物の重さにため息をついた。特別科の生徒でもある満田の荷物は教科書と参考書でずしりとしている。リュックが肩に食い込み、シューズやランウェアの入った鞄も斜めがけにする。

 本当は走りたかったのだが、それをさせまいとする人間がいる。伊勢は部活の後に走って帰ろうとした満田の前に現れた。それだけで満田は諦めた。いずれ飽きるだろう。その前に卒業するかもしれない。そうしたら、またやりたい放題だ。

 帰り道は同じだ。バスの前方に位置どる。車内は駅へ向かう学生でいっぱいだった。少し背の低い伊勢の体が押されて満田の体に密着する。混雑を思い出した満田は仕方なく、背中に腕を回して体勢を支える。

 そのままバスは駅へと向かった。窓に車内が反射して自分の細い目とあう。母親譲りのその顔は、どこか疲れているようだった。毎日鏡で見ているはずなのに、気づいたのは今だった。それほど満田は周りも自分も見えていなかったということだ。

(こんな顔しちょったら、そりゃ止めるわ)

 バスを乗り換えて、青梅団地入り口までつくと、降車客の流れに乗ってバスを降りた。まだ消化不良な気持ちはあるが、満田は少し走ることをやめようと思った。夜気にわずかに花の香りがする。近くに梅が咲いているのが外灯に照らされてわかった。流れる風景を少しも見ていなかった。

「伊勢さん」

「ん?」

「よぉわからんわ」

 劣等感や失望感に苛まれながら走る意味が。満田はそれだけ言うと、答えなど求めていないと、足早に分かれ道で伊勢と別れた。答えはいつも自分の中にあるはずだ。見つからないと言うことは、まだ見えていないものがあるのだろう。

 そして、そんなときに走りたいと思うのだ。考えなくていいから。自分の好きなように走って、頭の中を空っぽにしたかった。自分勝手な走り方だ、満田の自嘲的な笑みは闇に溶けた。


 家のリビングには明かりがついていた。珍しく親が帰ってきているようだ。ただいま、と声をかけると満田と同じ糸目の母親が顔を出した。靴を見ると、父親もいるようだ。そして、もう一つ靴がある。

 リビングへ来るよう手招きされたので、満田は重い荷物を玄関に置いて向かった。いい予感はしなかった。その通り、コの字型のソファに腰掛けている父親の顔は険しい。

 床の上には土下座をしている弟がいた。今頃追い出しパーティでもしているだろう、そんな時間だ。なぜいるのか、それ以前になぜ土下座を。疑問符がいくつも浮かび上がる。

「陸上をやめるんは、好きにせぇ」

 大きなため息の後に、父親は言った。リクジョウヲヤメル。満田の耳に届いた言葉はしばらく意味をなさなかった。

「でも、学校までいまさら変えるんはできん」

 満田は話に追いつけないうちに、涼の元におもむろに近づいた。見下ろした涼は昨日見たときよりもいくらか小さく見えた。彼の心境にいったい何があったのだろうか、満田は土下座をしたままの涼の隣に座った。

「何かあったんか?」

 よく聞けば、鼻をすする音が聞こえてきた。おそらく泣いているのだろう。土下座をやめるように肩を掴むと、案外簡単に涼は顔を上げた。顔を上げた涼の目は、陸上をやめたいとは言っていなかった。涙に震える呼気は、しかし言葉を紡がない。

「・・・・・・お前は、俺ができんかった短距離でがんばっとる。それを俺は誇りに思っとるよ」

「うそだ」

 嘘ではなかった。それが嘘に聞こえるということは、きっと昨夜の秀との会話を聞かれていたのだ。満田は安易に言葉にしたことを後悔した。

「思うとるよ。嘘じゃない。でも、俺は、お前のことライバルやとも思うとる」

「・・・・・・あにきが、らいばる?」

 いつも勢いだけで喋ってしまうのを堪えながら言葉にするのは至難の業だった。ともすれば劣等感をそのまま口に出してしまいそうだった。畑違いだとわかっていても、弟をライバルと思っていることは事実だった。だから、なるべく事実を伝えるようにつり目の黒い瞳を見つめながら言った。

「じゃけぇ、涼に負けるのが怖いんよ。でも、俺も走るって決めたけぇ、涼も走ってくれよ」

 不意に、満田の体に衝撃が走る。涼に抱きつかれたのだ。頑張る、と小さな声が聞こえてきて、両親が安堵のため息をつくのがわかった。満田はおずおずと弟の背中に腕を回した。筋肉質な体をさすると、ますます抱きつく力が強くなった。

 わずかに満田から笑い声が漏れる。それは久しく感じていなかった、嬉しいという感情だった。走ると言ってしまった、走らねばならない。劣等感や罪悪感や失望感、すべて飲み込んでも、弟を引き留めてしまった。

 その夜。

 寝る間際にドア越しに人が立つのを感じた。

「俺も兄貴に負けん」

 受けて立つまでもなく負けるだろうな、満田はそう思った。

「待ってる」

 同じトラックに立つ瞬間を。


 三月に入ると、追い出し会が団体の数だけ行われるようになった。それに呼ばれるのか、伊勢は満田の前に姿を現さなかった。満田はそれでも決められた距離を、決められたとおりに黙々と走った。

 何のために走るのか、未だにわかっていないが、とりあえず弟に追い越されないように走るしかない。ただ、有川を指針においていた頃と違い、焦りだけはなくなった。自分に対する苦しい感情はあるのだが、何かに焦って走りにのめり込むことはない。

 春めいてきた。寒かった陽気が一気に気温を上げた。地表を照らす太陽の刺激も強くなったように感じる。桜はまだだが、梅は満開を迎え、あちらこちらで姿が見える。

 三月三日金曜日。夕方練習の前に、体育館へ向かう伊勢を満田は見た。卒業してしまうのだな、と今さらに思ったと同時に、苦手や嫌悪感を意識していないことに気づく。あのきらきらした瞳を思い出して、ぐっと喉の奥の方まで何かがこみ上げてくる。

 不意に、目が合った。大きな瞳が満田をとらえた。そらそうとしたが、まるで磁石のように吸い寄せられて、気づけば体育館前まで走っていた。

「どうかしたん?」

 意地悪に言われて、満田は顔をしかめた。満田にも何も用はない。ただなんとなく呼ばれたような気がしたのだ。練習に戻ってしまおうと、背中を向けようとした。しかし伊勢の腕が伸びてきて満田の手をとらえる。

「日曜日、待っとる」

 そういえば、忘れそうになっていたが、そんな約束もした。満田は離れそうになった手を握り返した。あのときは行くものかと思っていたのに、今は名残惜しくて、行くしかないと思っている。

「時間は?」

 待っている、と言いつつ肝心の時間を伝え忘れている伊勢に満田はぶっきらぼうに言った。

「・・・・・・じゃぁ十一時」

 手を引かれて至近距離で伊勢の瞳を見てしまった。きらきらと輝いている。綺麗だと思った。みんなこの瞳に気づいていたのだろうか。だったとしたら、二年間がもったい。この人のために走れば良かったのかもしれない。満田はゆっくりと手を開く。お互い、ただ見つめ合う時間が流れた。

 遠くで満田の名前を呼ぶ声が聞こえた。後ろ髪を引かれる思いで、伊勢に背を向ける。じゃぁな、と背中にかけられた言葉に手を挙げて応える。

 練習に戻ると、追い出し会には行かなかった先輩がいた。クールダウンの時間だったので、伊勢のことについて聞くために近づいた。口の悪い満田が近づいてきたことで、最初はぎょっとしたようだが、逃げることはなかった。

「去年の部長決めは難航せんかったんすか?」

「今年はもめたっちゅうてたな。去年はすんなり伊勢じゃった」

 部長決めは基本的に三年生だけで決める。今年は誰もやりたがらずに難航した。満田は自分がしても良かったが、誰もついてこないのはわかっていたので、手を挙げなかった。

 なんで、と聞くのも失礼な気がして。言葉を躊躇う。少し前の満田なら、そんな躊躇などどぶに捨てて聞いた。それを先輩は敏感に感じ取ったのか、わずかに笑った。

「お前が伊勢に気ぃつかうなんてな。あいつのために走ろうっちゅう気持ちにさせられるんや。不思議な男じゃろ」

「あー・・・・・・なんか今ならわかる気がします。伊勢さんの瞳はきらきらしちょって、綺麗に見えるんす」

「きらきら?」

 先輩はきらきらとした伊勢の瞳に気づいていないようだった。いぶかしげに聞き返されて、なんでもないと言葉を撤回する。幸いにも先輩はしつこく聞いては来なかった。クールダウンの終わりを告げる声とともに、二人は離れた。

 伊勢がなぜ満田にかまうのか、その理由は計り知れないが、彼がただの善意で動いている可能性しか見いだせなくて、満田は困った。きっとそれは自分だけに向けられる感情ではないと知って、嫉妬のようなものがこみ上げてきたのだ。

(好きって、そういう意味なんか?)

 にわかにわき起こる疑問のようなほぼ確信に近い感情。

(もう卒業する野郎、なんて笑えん)


 三月五日。

 黄砂なのか、花粉なのか、わからないものが空を濁している。晴れ渡っているのに、遠くの山は霞んでいて空気が汚れているのだとわかる。日本海側の海沿いの街である岡田市は毎年、外国から運ばれてくるもので春先は汚染される。また、隣町である沖町は県内随一の杉の生産地だ。花粉まで飛び交う。

 満田はこの街に特別な思い入れなどない。だから大学を出ても帰ってこようとは思っていない。そんな若者はたくさんいるだろう。関東の大学に入学し、箱根駅伝を走る。そして実業団に入り、日本が誇るトップアスリートになる。

 そんな夢を抱いている。夢は見るだけタダだ。それに、満田はその夢が叶わないことを知っている。伊勢が受験した大学は関西の大学だ。追いかけるなら、そうそうに夢はくじかれることになる。

 まだ追うとは決めていないが、それでも頭のすみに存在する可能性だ。家の前で入念にストレッチをする。日曜日の朝の団地は車も少なく、ひっそりとしている。もうすぐ九時になろうとしているが、周囲を軽く走る。駅前まで本気で走るつもりはない。だがある程度体を慣らしておいた方が、怪我になりにくい。

 不意に玄関の扉が開いた。そこから今起きてきたのか、涼が顔を出す。昨日退寮した弟は、のんきにも寝ぼすけしていたらしい。満田は一瞥しただけで、体の調子を整えることに集中した。

「兄貴、走るん?」

「ちぃとな」

 とたんに目を輝かせる弟に、満田は次の言葉を予測した。

「俺も走る」

 予測通りの言葉に小さくため息をついた。折良くスマホのアラームが鳴った。走り始める時間だった。十一時には充分間に合う。余裕を作ったのは走り終わった後のストレッチなど体のメンテナンス用の時間だ。

「残念」

 必要なものだけを入れた鞄を斜めがけにして、腕時計を弄る。ストップウォッチにもなっているので時間を計るのだ。

「今日はデート」

 走り出したその後ろから、彼女、と大きな声が聞こえてきた。イエスともノーとも言わずに満田は決めたペース通り足を交互に動かす。シューズが地面を食む音が団地に響いた。

 当日はきっと心が波打つと思っていたが、案外平常心だった。満田は今でも何のために走るかを考えている。有川は遠すぎて、伊勢は卒業してしまう。誰かを追うために走るのか。ずっと誰かを追うのか。自問しても自答しない。

 ただ、決めたことならある。自分の気持ちを消化するためだけに走ることは、しない。もちろん、陸上は主に自分との戦いだ。駅伝やリレーなど団体種目と言えるものもあるが、ボールをつないで攻撃するようなことはない。基本的に何をするにしても、個人種目なのだ。

 だから、自分のために走ろうが、他人のために走ろうが、基本的には自由だ。だが、本当に自分一人であると思い込むと、苦しいのだと満田は身をもって味わっていた。自分を構成するものがいくつも存在しているのに、一人で走っているような気がしていた。

 伊勢がそれは違うと教えた。

(もっと早く教えてくれたら、よかったのに)

 わずかに口角があがる。教えてもらっても、有川に夢中だった満田には届かなかっただろう。大きな挫折を味わった今だから、受け入れた。

 腕時計を見ると、ペースはほとんど変わっていないようだった。告白するかは決めていない。自分の気持ちが本当に恋愛なのか、疑っているからだ。今まで恋愛してきたことがないわけではない。ただ、そのときとは違う心持ちなのだ。

 ドキドキや妙な高揚感がない。ただ、ずっと求めてきたものを見つけたような、しかし達成感や満足感とも違う。それは尊敬や憧れに近いものかもしれない。いや、もしかしたら、それそのものなのかもしれない。

 だからこの胸の温みを恋と名付けるには勇気が必要だった。

 満田はゆっくりだが着実に前へ進んでいた。まだ開店していない店を横目に、長い直線をいくと、交差点にさしかかる。そこを右に折れ、坂を上る。急な坂ではないのだが、長いせいでなかなか前へ進まないような気がする。

 陸上は人生だ。と、大げさに思うこともあった。人と交わり時に孤独な道を行く。満田にとって、それは生きることによく似ていた。だから上り坂の試練だってあるし、下り坂の痛快さもある。面白いと思うことも、投げ出したくなることもある。

 最終的に到達するところがどこかは知らない。生きていたって死ぬまでの間に何に到達するのかわからない。わからないことだらけでも、生きるように走る。


 駅ナカの待合所に座ってぼんやりしていた。結局ストレッチなどを終えても満田は暇になった。駅舎は昭和に建てられた、レトロな造りをしている。改札は自動ではなく、駅員に手渡しで切符を渡す。ここだけ現代化を忘れたような、そんな空間だった。

 約束の十一時の十分前。

「待った?」

 二十分くらいは暇をしていたが、満田は声の主に向かって首を横に振った。いつもジャージかランウェアか制服姿なので、私服は新鮮だった。春用のトレーナーにチノパンでカジュアルだ。不意に自分がランウェアであることを思い出して、よかったのだろうか、と戸惑う。

「行こっか」

「ど、どこに行くん?」

 商店街、と伊勢は言った。駅前の商店街は、地方都市にありがちなシャッター通り、ではなく。お土産屋も軒を連ねた賑やかな場所だ。鉄道と海の駅近くにあるために、利便性が良く、生鮮食品から日用品までなんでもそろう。

 食べ物屋も数軒あり、カフェからレストラン、ファストフード店もある。遊ぶなら、バイパス通りの商業施設を巡るか、ここの商店街を巡るかの二択だった。

 さほど大きいわけではないが、開店したばかりの店のひしめき合う中を、伊勢は目的もなくぶらついているようだった。今はたい焼き屋であんことカスタードで迷っているところだ。

 満田はさっさとあんこを選んでいた。小さなイートインコーナーで一緒に食べたいと言うから待っているのだが。

「どっちも食うたらいいじゃん」

「このあと飯じゃろ。よぉけぇ食うたら、入らんくなるわ」

 ということは、きっとレストランに行くのだ。商店街のレストランは学生向けに量が大盛りになっている。だが、値段は量の割に安い。満田もたまに行くのだが、とんかつカレーなどは二人で分けて食べないと、食べきれない。

「おじさん、カスタード一つ」

 満田は迷う伊勢の隣からそう言った。代金と引き替えのそれを伊勢に押しつけると、驚いたような顔をした。

「なんで満田がきめるんじゃ」

 そう言いつつも受け取った伊勢に、満田はあんこの鯛焼きを半分に折って、差し出した。

「どっちも食やぁいいじゃろ」

 それを見た伊勢は急いでカスタードの鯛焼きを折る。お互いに交換して食べることになった。イートインコーナーには他の学校の学生が制服姿で座っていた。岡田高等学校の紋章が見える。

 岡田高等学校は中心地から南に外れた場所にある。本来進学校であるはずだが、勉強よりスポーツに力を入れている。有名なのは野球だ。丸坊主の彼らは野球部かもしれない。

 彼らからは少し離れた、入り口付近に席を決めると、伊勢を奥にして向かい合って座った。カスタードから食べる伊勢を見て、同じくカスタードに口をつける。

「・・・・・・伊勢さんは、なんで走るん?」

 あんこの方も食べようとしていた伊勢は、少し考えるように首をかしげた。

「あんまり考えたことないなぁ」

「意外じゃ」

「息するのに、どうして息をするのだろう、と考えんのと一緒じゃろ」

 もう伊勢の中では、息をすることと走ることは同じ次元にあるのだと、満田は驚いた。走るには理由や目標がほしい満田は、思わず眉間にしわを寄せた。それは伊勢を嫌悪したためではなく、ただ、自分の悩みを解消するものがないからであった。

「ちゃんと考えとるんやなぁ」

 俺も考えた方がええかなぁ、と言う伊勢に満田はゆっくりと顔を横に振った。考えたところで答えの見つからないものを追うより。伊勢には自分が信じているものを追ってほしかった。たぶん、そう言っても特別な信念などない、と返ってきそうだったので、黙った。

「悩みながら走るんも、いいんじゃない。でも走りすぎは禁物じゃ。今日は帰りは一緒にバス」

 絶対に言われると思っていたので、満田は頷いた。悩みながら走る。それだと一生走っていそうだな、と満田は思った。劣等感や嫉妬心と向き合いながら、苦しみながら、それでも走る。だいぶマゾだな、と心の中で呟く。

 鯛焼きをどちらも食べ終わって、無料のお茶を飲む。甘さと苦さが交わって、口の中がちょうど良くなった。

「もっと、一緒に走りたかったわ」

 伊勢の動きが止まった。満田は何か失言したかと、言葉を振り返るが、特に誰かを傷つけるようなことは言っていない気がする。伊勢の目の中に光るものを見て、どきりとしたが、涙を流すことはなかった。

「だ、誰も俺と走りたいとは言うてくれんかったから、嬉しいな」

 伊勢のために走りたい、とは言われることは多いのだそうだ。事実、一昨日の先輩もそのようなことを言っていた。

「伊勢さん手ぇ出して」

 ちょうどあんこを食べ終わった手をひょいと、出された。そこに満田は斜めがけにしていた鞄から一組のひもを取りだし、伊勢の手に押しつけた。

「ミサンガ?」

「そ。おかんが趣味で作っとるんや。大会前とかにはよぉお守りとして持たしてくれとる」

 群青と白のシンプルなミサンガだ。満田でも作ることができた。伊勢との縁が切れないように、そう思って作ったのだ。おそろいのミサンガも鞄の中に入っている。だが、それを見せるのは躊躇われた。

「俺が作ったけぇ、うまぁないけど」

「お前が作ったんか。すごいなぁ。ありがとう。大事にするけぇ」

 手首や足首につけるのかと思えば、背中に提げていたリュックのチャックにつけた。

「手首とかにつけて、切れるんは嫌じゃけぇ」

 どう反応すべきか迷って、満田は頷いただけだった。なまじっか伊勢への恋心を自覚したのだ。屈託のない笑みを向けられて、平常心でいられるはずがなかった。家を出たときはあんなに平気でいられたのに、不思議なものだ。

「顔、赤いで」

 そういう伊勢も頬を赤らめていた。脈があるとかないとかではない。ただ伝えたくはなかった。大事に墓場までこの思いは持って行こうと思った。好きになればなるほど、たぶん、この恋はつらい。相手は関西の大学へ行ってしまう。それも男だ。

「また、一緒に走ろうな」

「うん」

 ただ頷くだけが、必死だった。


 卒業式が終わった時刻だ。何もすることがない在校生にとって三月七日は休日だった。顧問もいないので、日曜日から部活は休みだし、教員は全員卒業式に参加しているので、授業もない。伝統的に何か催し物をするわけでもない。

 ここ最近雨が降らない。今日も薄い雲が流れているだけで、晴天だ。河川敷に植えられた桜はまだつぼみも膨らまないでいる。前期試験の結果は九日らしく、まだ三年生は気の抜けない日が続いているのだが、そんな中行われる卒業式とはどんな感じなのだろうか。

 来年経験するであろう、それになんの感慨もない。

 だが、いてもたってもいられなくて、満田は校門の前でたたずんでいた。走りたかったが、シューズを履いてきていなかったので、断念した。校門前には他にも学生がいた。部活動の後輩連中が主だ。

 それに紛れてしまえば、誰も満田をいぶかしむことはなかった。遠くから伊勢を見送ろうと、やってきたのだった。声をかけるつもりはなかった。本当にいてもたってもいられずに来てしまって、かける言葉も思いつかない。

 三年生が出てくるまでの時間で校庭は人だかりができていた。団体ごとに固まっていて、おそらく陸上部もいるのだろうが、満田は校門の前から動かなかった。

 きっと伊勢が出てくれば、探さなくても見つけてしまうだろう。

 わっと歓声があがる。三年生が出てきたのだろう。サッカー部が胴上げをするために輪になっている。陸上部は校門から離れたところだろうか、見知った三年生は今のところ見ていない。

 満田は十分ほど待って、それから校門を離れた。河川敷を歩く。わずかに高くなっているそこからは校庭を一望できた。どこかにいないか、と探したが、見つからない。まだ出てきていないのかもしれない。

「みつた」

 あまりに校庭に集中していたからか、真横から声をかけられて、一驚する。体の向きを変えると、そこには伊勢がいた。たぶん今頃陸上部が探していることだろう。

 鼻の奥がつんとした。だが泣くのをこらえて、目の前の男を見据える。

「待っちょってや。行くけぇ」

 伊勢は少し体の向きを変えた。学校へ戻るのだろう。

「待っちょる」

 そう言って、伊勢は立ち去った。満田はその後ろ姿を見えなくなっても見続けた。

 そして嗚咽が漏れた。


おわり

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